操り人形・プロトタイプ
放課後のチャイムが鳴り終わり、校舎が静かになった頃。
私はまた、化学準備室の前に立っていた。
(……なんで、来てしまったんだろう)
昨日までの記憶が、頭の中でぐるぐる回る。
笑いすぎてぐちゃぐちゃになった顔。
猫耳と尻尾で陽菜の膝にすり寄り、ごろごろ喉を鳴らしていた自分。
腰をぺちんと叩かれて、尻尾がぴんと立ってしまった瞬間。
全部、恥ずかしくて、情けなくて、なのに――どこかで、胸の奥が疼くような感覚が残っている。
(もう来ないって、決めたはずなのに)
鞄の肩紐を強く握りしめて、私は小さく息を吐いた。
ドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
(今日は、絶対に何もさせない。すぐに帰る)
そう言い聞かせて、ドアをゆっくり開けた。
「――あ、涼香ちゃん!待ってたよー!」
陽菜の声が、弾むように響く。
いつもの白衣姿。
金髪のショートカットが夕陽に透けて、キラキラと輝いている。
部屋の中は、いつもより少し暗め。
カーテンが半分閉まっていて、アルコールランプの青い炎だけが、机の上をぼんやり照らしている。
陽菜は実験台のそばに立っていて、私を見るなり、ぱっと笑顔を広げた。
「来てくれるなんて、嬉しいなあ。今日も、最高の実験が待ってるよ!」
「……何もする気はありません。帰ります」
私は即座に踵を返そうとする。
でも、陽菜はすでに私の前に立っていて、両手を広げて道を塞ぐ。
「ちょっとだけ!本当にちょっとだけ!今日はね、すごくシンプルなんだから」
「……シンプル?」
陽菜はニコニコしながら、私の顔にそっと手を伸ばした。
指先が、髪の毛に触れる。
「え……?」
次の瞬間――
ぷちっ。
小さな痛みが頭皮を走った。
「……っ!」
私は思わず顔をしかめる。
陽菜の指の間に、一本の黒い長い髪が挟まっている。
「痛っ……何するんですか」
「ごめんごめん!痛かった?でも、これが必要だったの!」
陽菜は悪びれもせずに笑い、髪の毛を試験管の中にそっと落とした。
私は頭皮を押さえながら、睨みつける。
「……何のつもりですか」
「ふふっ。すぐ分かるよ」
陽菜は実験台に戻り、小さなガラス容器に何かを注ぎ始める。
ピペットで透明な液体を数滴。
試験管を振って混ぜる。
そして――
「できた!」
陽菜が振り返ったとき、その手には、人形が抱えられていた。
白い布でできた、簡素なドレスを着た人形。
顔は無表情で、黒い糸で縫われた目と口。
髪はなく、頭頂部に小さな穴が開いている。
「……それ、何ですか」
「これね、『操り人形・プロトタイプ』!髪の毛一本で、対象と完全にリンクするんだよ。人形を動かせば、涼香ちゃんの体も同じように動くの!」
「……は?」
陽菜は人形を机の上に立たせ、両手を軽く上げてみせる。
その瞬間――
私の両腕が、勝手に上がった。
「っ!?」
動かそうとしても、動かない。
まるで糸で吊られた人形のように、
体が陽菜の意のままに動く。
「や……やめてください!」
私は必死に抵抗しようとするが、
腕はぴくりともしない。陽菜は人形の指を、ピースサインの形に曲げて、人形の顔の横に持ってきた。
すると――
私の右手と左手が、自然にピースサインになり、顔の両側に添えられた。
「可愛い!ピースしてる涼香ちゃん、超レア!」
「……撮らないで」
陽菜はすでにスマホを構えていた。
カシャ、カシャ。
「はい、記録!これ、部室の壁に貼りたいくらいだよ!」
私は顔を真っ赤にして、必死に体を動かそうとする。
でも、無駄だった。
陽菜は人形をゆっくりと四つん這いの姿勢に変えた。
膝が曲がり、手が床につき、背中が丸くなる。
私の体も、まったく同じように動いた。
「やっ……!」
四つん這いにされたまま、床に手をつく。
陽菜は人形の背後に回り込み、人形のお尻のあたりを、指で軽く撫でた。
その瞬間――
陽菜の指が、私のお尻を、制服のスカート越しに、直接触れた感覚がした。
「ひゃっ!?」
体がビクンと跳ねる。
柔らかい感触。
陽菜の指先が、スカートの生地を滑るように這う。
「や……やめてください……!」
声が震える。
陽菜は人形の腰を軽く持ち上げ、私の腰も同じ高さに浮かせる。
そして――
指が、もう一度、お尻をぺちんと叩いた。
「にゃうっ!」
昨日、猫のときに感じたのと同じ、甘い電流のような感覚が走る。
私の腰が、勝手にくねくねと動いてしまう。
「……っ、恥ずかしい……」
涙がにじむ。
陽菜はスマホを片手に、もう片方の手で人形を操作し続ける。
「涼香ちゃん、すごいよ。人形と同じ動き、完璧に再現されてる!これ、記録として最高のデータになるね」
「……記録って……ただ、私をいじめてるだけじゃないですか……」
陽菜は少しだけ、真剣な顔になった。
「違うよ。これはね、『身体のリンクと感覚共有』の実験なんだ。髪の毛一本で、ここまで同期できるなんて、理論上は可能だったけど、実際に成功したのは初めてだよ!」
「……だからって……お尻触ったり、四つん這いにしたり……必要ないですよね」
陽菜はくすくす笑う。
「必要……だよ?でも、涼香ちゃんの反応が可愛すぎて、つい、もっと見たくなるんだもん」
陽菜は人形の頭を、優しく撫でた。
私の頭も、陽菜の指に撫でられる。
温かい。
「……もう、解放してください」
私は掠れた声で頼む。
陽菜は少しだけ、名残惜しそうに人形を見つめた。
「……うん。じゃあ、最後に一つだけ」
陽菜は人形の両手を、胸の前で合わせて、祈るようなポーズにさせた。
私の体も、同じように両手を胸の前で合わせる。
陽菜は人形の顔を、私の顔のすぐ近くまで近づけた。
人形の無表情な顔と、私の涙で濡れた顔が、至近距離で向き合う。
「……涼香ちゃん」
陽菜の声が、急に柔らかくなる。
「今日も、ありがとう。涼香ちゃんがいてくれるから、こんなすごいものが作れるんだよ」
「……」
私は言葉を失う。
陽菜は人形から手をゆっくりと離した。
リンクが切れる。
体に力が戻り、私は床にへたり込んだ。
陽菜は人形をそっと机に置き、私のそばにしゃがみ込む。
「大丈夫?」
「……最悪です」
私は顔を背ける。
陽菜は私の髪を、優しく梳いた。
「ごめんね。でも……涼香ちゃんの、いろんな顔が見られて、私、すっごく嬉しい」
「……変態」
「うん。変態だよ」
陽菜はあっけらかんと笑う。
私は立ち上がり、鞄を拾う。
「……もう、二度と来ません」
「えー、また明日も来てくれるよね?」
「……来ません」
私はドアに向かう。
でも、ドアノブに手をかけた瞬間、陽菜の声が背中に届いた。
「涼香ちゃん」
「……何ですか」
「大好きだよ」
その一言に、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
私は振り返らず、ただ小さく呟いた。
「……うるさい」
ドアを閉める。
廊下の冷たい空気が、熱くなった頬を冷やしていく。
(……明日も、楽しみだな)
その予感が、嫌でも、胸の奥に残っていた。




