にゃんにゃんキャンディ
翌日の放課後。
化学準備室のドアノブに手をかけた瞬間、体が一瞬だけ硬直した。
昨日の一件が、まだ鮮明に残っている。
全自動くすぐりマシンの感触。
笑いすぎて涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔。
陽菜がスマホを構えて、嬉しそうに動画を撮っていた光景。
「……最悪」
小さく呟いて、深呼吸する。
(今日は絶対に、変な実験には付き合わない。どんなに強引にされても、すぐに帰る)
そう決意して、ドアをゆっくり開けた。
「――あ、涼香ちゃん来た!」
陽菜の明るい声が響く。
でも、いつもと少し違う。
部屋の中に、もう一つの声があった。
「わっ、ほんとに来た!お姉ちゃんの言ってた先輩だ!」
幼い、弾んだ女の子の声。
視線を上げると、実験台の横に、小柄な女の子が立っていた。
中学生くらいだろうか。
陽菜と同じ金髪をツインテールにしていて、服は中学校のセーラー服。
大きなリボンが揺れている。
陽菜の隣に並んで、二人ともこっちを見ている。
「……誰ですか」
私は無表情のまま、静かに尋ねた。
陽菜がニコニコしながら紹介する。
「私の妹だよ!星野陽葵!今日は、うちの化学部に仮入部!」
「仮入部……?」
陽葵と名乗った女の子が、ぴょこんと一歩前に出て、元気よく頭を下げた。
「はじめましてー!陽葵です!お姉ちゃんから、すっごく可愛い先輩がいると聞いて、会いに来ちゃいました♪」
「……はあ」
私は一瞬、言葉に詰まる。
可愛い先輩、って。
陽菜が何を吹き込んだのか想像がつく。
「……霧島涼香です。よろしく」
とりあえず、礼儀として頭を軽く下げた。
陽葵は目をキラキラさせて、鞄から何かを探り出す。
「はい、これ!涼香先輩に!」
差し出されたのは、透明な包みに包まれた、赤と白の渦巻き模様の飴。
棒付きの、昔ながらの棒付きキャンディ。
「……?」
「私のお気に入りなんです!食べてみてください!」
陽葵が両手で差し出す。
私は一瞬、迷った。
(子供からの差し入れを、断るのも悪いか……)
陽菜の妹だけど、悪意があるとは思えない。
「……ありがとう」
私は静かに受け取り、包みを剥がした。
飴は、ほんのりイチゴの香りがする。
陽菜と陽葵が、じーっと私を見つめている。
「……どうぞ、どうぞ」
陽菜がにこにこしながら言う。
私は、ため息をつきながら、飴を口に含んだ。
最初は、普通の甘さ。
イチゴ味の砂糖菓子。
舌の上で転がして、ゆっくり舐め始める。
「……おいしい」
小さく呟いた。
その瞬間だった。
陽菜と陽葵の顔に、同時に、不敵な笑みが浮かんだ。
「……え?」
違和感が、背筋を走る。
陽菜が、ゆっくりと口を開く。
「涼香ちゃん」
「……何ですか」
「今、飴……舐めたよね?」
「……はい、それが?」
陽葵が、くすくすと笑いながら続ける。
「それね、『にゃんにゃんキャンディ』なの!」
「……は?」
陽菜が楽しそうに説明を始める。
「一舐めした瞬間から、三十分間だけ、猫みたいになっちゃうんだよ!猫耳が生えて、尻尾が生えて、猫っぽい仕草と声になっちゃう、私の最高傑作の一つ!」
「……嘘、でしょう」
私は慌てて飴を口から出そうとする。
でも、もう遅い。
頭の奥で、何かがぽきんと切れた。
そして――
「にゃ……?」
自分の声が、信じられないほど高くて、甘ったるい。
頭の上に、何か温かいものが生えてくる感覚。
触ってみると――
ふわふわの、猫耳。
背中からは、しなやかに揺れる、長い尻尾。
「……にゃあああ!?」
私は思わず後ずさり、両手で頭を押さえた。
陽菜と陽葵が、揃って大爆笑。
「うわー!出た出た!涼香先輩の猫耳、めっちゃ可愛い!」
陽葵が目を輝かせて近づいてくる。
私は尻尾をぴんと立てて、後ろに下がる。
「にゃ、にゃんにゃ……!こ、こんなの……やだにゃ……!」
声が、完全に猫っぽい。
語尾に「にゃ」がついてしまう。
陽菜がスマホを取り出し、また動画を撮り始める。
「はい、記録開始!クールな涼香ちゃんが猫化!これはレア度SSSS級だよー!」
「にゃああ!撮らないでほしいにゃ!」
私は両手で顔を覆うが、猫耳がぴくぴくと動いて、隠しきれない。
陽葵が私のそばにしゃがみ込んで、尻尾の先をそっと触る。
「わあ、ふわふわ……!本物みたい!」
「にゃっ!触らないでにゃ!」
尻尾をびしっと払うが、逆に陽葵が喜んでしまう。
「お姉ちゃん、これすごいね!本当に猫みたいになってる!」
陽菜は頷きながら、私の猫耳を指で軽く弾いた。
「にゃうっ!?」
耳が敏感すぎて、体がビクンと跳ねる。
「……や、やめてほしいにゃ……」
恥ずかしさが爆発する。
昨日は笑いすぎてぐちゃぐちゃになった。
今日は猫になって、語尾までおかしくなっている。
(……もう、死にたい)
心の中で叫ぶ。
でも、体は勝手に動いてしまう。
陽菜の白衣の裾が揺れるのを見ると、つい、じゃれつきたくなる。
「にゃ……」
私は四つん這いになって、陽菜の足元にすり寄ってしまった。
陽菜がしゃがんで、私の頭を優しく撫でる。
「よしよし、いい子いい子」
「にゃんにゃ……」
撫でられると、気持ちよくて、つい喉を鳴らしてしまう。
ごろごろ……。
陽葵が目を丸くする。
「ほんとに猫だ……!涼香先輩、超可愛い!」
「……にゃう……恥ずかしいにゃ……」
私は顔を真っ赤にして、陽菜の膝に頭を押し付ける。
(何やってるんだ、私……)
頭では分かっているのに、体が猫の本能に支配されている。
陽菜の膝に頭を押し付けたまま、ごろごろと喉を鳴らしていると、陽菜がくすくす笑いながら、私の腰のあたりに手を伸ばした。
「ねえ、涼香ちゃん。ここ、叩いたらどうなるかな?」
「にゃ……?や、やめ――」
言葉を言い終わる前に、陽菜の手のひらが、ぺちん、と軽く私の腰を叩いた。
瞬間――
「にゃうっ!?」
体がビクンと跳ね上がり、尻尾がぴーんと真っ直ぐに立った。
背筋がぞわぞわと震え、耳の先まで熱くなる。
尻尾の付け根が、ぴくぴくと痙攣するように動いてしまう。
(……何、これ……)
頭の中が一瞬真っ白になった。
叩かれた腰の部分が、じんわりと熱を帯びて、
そこから全身に甘い電流のようなものが走る。
尻尾が勝手に左右に大きく振れて、興奮した猫そのものの仕草になってしまっている。
陽菜が目を細めて、嬉しそうに囁く。
「わあ……尻尾、ぴんって立っちゃった。興奮しちゃった?涼香ちゃん」
「にゃ、にゃんにゃ……!ち、違うにゃ……!興奮なんて、してないにゃ……!」
必死に否定するけど、声が上ずって、語尾が震えている。
尻尾は正直すぎて、ぴくぴくぴくと小刻みに動き続け、完全に嘘をついているのがバレバレだ。
陽葵が目を輝かせて、私の尻尾の先を指で軽くつつく。
「すごーい!ほんとに興奮してるみたい!尻尾がこんなに元気!」
「にゃあっ!触らないでにゃっ!」
私は慌てて尻尾を隠そうとするけど、興奮のせいで余計に敏感になっていて、
触られただけで体がまたビクンと跳ねる。
陽菜が私の腰を、もう一度、優しく――でも意地悪く――ぺちんと叩く。
「にゃうぅ……っ!」
今度は声が、甘く掠れてしまった。
尻尾がさらに高く上がり、体が勝手に陽菜の膝にすりすりと擦りつけてしまう。
頭の中では「やめろ、やめろ」と叫んでいるのに、猫の本能がそれを上書きして、
もっと撫でてほしい、もっと触ってほしいという衝動が溢れ出す。
(……こんなの、私じゃない……でも、気持ちいい……)
恥ずかしさと、言いようのない心地よさが混ざって、
胸の奥が熱く疼く。
陽菜が耳元で、甘い声で囁く。
「涼香ちゃん、猫のときって……ほんとに素直で可愛いね。もっと叩いてあげようか?」
「にゃ……や、だめにゃ……もう……だめ……」
弱々しく首を振るけど、尻尾は正反対に、期待するようにぴんと立ったまま揺れている。
陽葵が手を叩いて喜ぶ。
「お姉ちゃん、もっとやって!涼香先輩の尻尾、すっごく可愛いよ!」
「……にゃうぅ……」
私は陽菜の胸に顔を埋めて、もう何も考えられなくなっていた。
興奮と恥ずかしさが、猫の姿のまま、ぐるぐると渦を巻く。
陽菜は私の腰を優しく叩きながら、陽葵に言う。
「ねえ、陽葵。涼香ちゃんに、もっと遊んであげて?」
「うん!」
陽葵が鞄から、小さな羽根のおもちゃを取り出す。
猫じゃらしだ。
「にゃっ!?」
私は反射的に、それに視線を奪われる。
陽葵が、猫じゃらしを左右に振る。
「ほら、こっちだよー」
「にゃ……にゃう……」
尻尾がぴくぴくと動き、体が勝手に前後に揺れる。
(やめろ……やめろって……!)
心で叫んでいるのに、手が伸びて、猫じゃらしをパシッと叩いてしまう。
「わー!取った取った!」
陽葵が大喜び。
私は叩いた瞬間に、我に返る。
「……にゃあああ!何やってるにゃ、私……!」
陽菜が爆笑しながら、私の背中を撫でる。
「可愛すぎる……涼香ちゃんの猫モード、一生見ていたい」
「……にゃんにゃ……もう、許してほしいにゃ……」
私は陽菜の胸に顔を埋めて、隠れるようにすり寄った。
陽菜の匂い――
イチゴとシャンプーの甘い匂いが、猫の感覚をさらにくすぐる。
ごろごろ……。
陽菜が私の耳元で囁く。
「涼香ちゃん、猫のときのほうが素直だね」
「……にゃう……」
反論したくても、言葉にならない。
陽葵がまた猫じゃらしを振る。
「もう一回!」
「にゃっ!」
また、体が勝手に反応してしまう。
三十分が、永遠に感じた。
やがて、タイマーが鳴る。
ピピッ。
猫耳が、すうっと消えていく。
尻尾も、跡形もなくなくなる。
私は四つん這いのまま、床にへたり込んだ。
「……終わった……」
声が、ようやく普通に戻る。
陽菜と陽葵が、満足げに笑っている。
「いやー、最高のデータが取れた!陽葵、いい仕事したね!」
「えへへ、お姉ちゃんのお手伝いできた!」
私はゆっくり立ち上がり、二人を睨む。
「……飴、渡す前に言ってください」
「だって、言ったら食べないでしょ?」
「……当たり前です」
陽菜が私の頭をぽんぽんと撫でる。
「でも、涼香ちゃんの猫姿、ほんとに可愛かったよ。動画もバッチリ撮れたし!」
「……消してください」
「無理!これは永久保存!」
陽葵が目を輝かせて言う。
「涼香先輩、また猫になってね!今度は一緒に昼寝しよう!」
「……絶対に嫌です」
私は鞄を掴み、ドアに向かう。
でも、振り返って、小さく呟いた。
「……妹さんも、変態の血が濃いですね」
陽菜と陽葵が、同時に笑う。
「遺伝だよー!」
「遺伝ですー!」
私はため息をついて、準備室を出た。
廊下に出ても、まだ胸の奥がざわついている。
(……また、来てしまうんだろうな)
猫になった自分の姿を思い出すと、顔が熱くなる。
でも、どこかで、陽菜の撫でる手が、気持ちよかったことも、否定できなかった。
(……最悪)
私はそう呟きながら、夕暮れの校舎を後にした。




