効果切れた!
化学準備室の時計の針が、カチッと音を立てて六時を指した。
アルコールランプの青い炎はすでに消えていて、部屋は薄暗い。
窓の外はすっかり夜で、校舎の外灯がぼんやりとカーテンに影を落としている。
私――霧島涼香は、
星野陽菜の胸に顔を埋めたまま、ぴたりと動きを止めた。
「……ん?」
陽菜の声が、すぐ近くで響く。
少し心配そうな、でもどこか楽しそうな響き。
「……涼香ちゃん?」
私の体が、急に硬直する。
胸の奥で、何かが急速に冷えていく。
さっきまで熱くて、甘くて、溶けそうだった感情が、まるで氷水をぶっかけられたみたいに急速に萎んでいく。
「……はっ」
私は陽菜の胸から顔を離し、勢いよく後ろに下がった。
背中が薬品棚にぶつかり、ガラス瓶がカタカタと鳴る。
「……っ」
陽菜が目を丸くして私を見ている。
私は自分の唇に指を当て、そして――ゆっくりと、深く息を吐いた。
「……終わった」
声が、いつもの自分に戻っている。
低くて、冷たくて、感情の起伏がほとんどない声。
陽菜はぽかんとした顔で、首をかしげる。
「え……もう?一時間、経った?」
「……そうです」
私は無表情のまま、制服のスカートの裾を整える。
陽菜の匂いがまだ服に残っていて、それが妙に気になって仕方ない。
「……最悪です」
「ええっ!?なんで!?めっちゃ可愛かったのに!」
陽菜が両手を広げて抗議するように飛び跳ねる。
私は目を細めて、部長を睨む。
「今、思い出したくもないことを全部思い出しました」
「うそ、ひどい!涼香ちゃん、私のこと『お姉ちゃん』って呼んで、ぎゅーってして、すっごく甘えてたのに……!」
「……黙ってください」
顔が熱くなる。
耳まで熱い。
絶対に赤くなっている。
私は慌てて視線を逸らし、机の上の空になった試験管を睨む。
「……あの薬、二度と作り直さないでください」
「えー、でもあれ、めっちゃ成功だったじゃん!Ver.3.1、大勝利!」
「成功の定義が狂っています」
「だって涼香ちゃん、こんなに素直になれるなんて……一生の宝物だよ?」
陽菜はスマホを取り出し、ニヤニヤしながら画面をタップし始める。
「……何してるんですか」
「記録だよ!記録見せてあげる!」
「……は?」
陽菜がスマホの画面を私の方に突き出す。
そこには――
さっきの私。
陽菜の胸に顔を埋めて、
目をうるうるさせて、
甘えた顔で「お姉ちゃん……」と呟いている写真が、
数十枚、ズラリと並んでいる。
「……っ!?」
私は一瞬で血の気が引いた。
「消してください」
「えー!無理!これ、永久保存版だよ!」
「部長」
私は一歩踏み出し、陽菜の手からスマホを奪おうとする。
しかし陽菜はひょいっと身をかわし、スマホを高く掲げる。
「だーめ!これは人類の宝!涼香ちゃんのレア度SSS級の甘え顔コレクション!」
「……殺意が芽生えました」
「ひぃっ!涼香ちゃんの目がマジで怖い!」
陽菜は後ずさりしながらも、楽しそうに笑っている。
私は深呼吸して、冷静さを取り戻そうとする。
「……いいですか。部長」
「うん?」
「今この場で、全ての写真を削除してください。さもなくば――」
私はゆっくりと、陽菜の白衣の襟を掴む。
「――この部室から、部長の存在を消します」
「え、物理的に!?」
「精神的にも物理的にも」
陽菜は一瞬ビクッとするが、すぐにまたニコニコ笑う。
「涼香ちゃん、怒ってる顔も可愛い……」
「……ふざけないでください」
私は襟を離し、一歩下がる。
でも陽菜はまだスマホを握ったまま、
さらに写真を撮り始める。
カシャ、カシャ、カシャ。
「はい、今の睨み顔!超カッコいい!これも保存!」
「やめてください!」
私は手を伸ばすが、陽菜はくるりと回って逃げる。
「待って待って!あとちょっとだけ!怒ってる涼香ちゃんの連写、めっちゃ映えるんだから!」
「部長……!」
私は追いかける。
準備室の中を、二人でぐるぐる回る。
机を回りこみ、薬品棚の間をすり抜け、
古い黒板の前で陽菜が立ち止まる。
「はい、ストップ!」
陽菜が両手を広げて、私の前に立ちはだかる。
息が少し上がっている。
私も少し息が乱れている。
「……もう、限界です」
「涼香ちゃん」
陽菜が、急に真剣な顔になる。
「ねえ、さっきの……『お姉ちゃん』って呼んでくれたの、全部、薬のせいだけ?」
「……」
私は言葉に詰まる。
確かに、あの甘えた気持ちは薬のせいだ。
でも――
胸の奥に、ほんの少しだけ、残り香のようなものが残っている。
陽菜の温もり。
陽菜の匂い。
陽菜の笑顔。
「……薬が切れた今は、ただの変態部長です」
私はそう言って、視線を逸らす。
陽菜は一瞬、しょんぼりした顔をする。
でもすぐに、いつもの明るい笑顔に戻る。
「そっかぁ……でもさ」
陽菜はスマホをポケットにしまい、私の前に立つ。
「薬がなくても、涼香ちゃんのこと、すっごく大事だよ?」
「……」
「いつも実験台にしてごめんね。でも、涼香ちゃんがいないと、私、楽しくないんだ」
陽菜の声が、いつもより少しだけ柔らかい。
私は唇を噛む。
「……勝手に抱きつかないでください」
「うん、わかった!次からはちゃんと許可取る!」
「……次とかないです」
「えー!」
陽菜がまた大げさに落ち込む。
でも私は、もう一度だけ、小さく息を吐く。
「……写真は」
「ん?」
「……せめて、私が見ても恥ずかしくないやつだけ記録として残して」
陽菜の顔が、パッと輝く。
「ほんと!?やったー!じゃあ厳選して、涼香ちゃんの許可が出るやつだけ残すね!」
「……それでも全部消したいんですけど」
「だーめ!これは私の宝物!」
陽菜はそう言って、また私の頭をぽんぽんと撫でようとする。
私はそれを、素早く避ける。
「……触らないでください」
「はーい♪」
陽菜は手を引っ込めて、満面の笑みで私を見る。
私はため息をつきながら、
鞄を手に取る。
「……もう帰ります」
「うん!また明日ね、涼香ちゃん!次は『自主的に妹になりたい薬』作ってみようかなー」
「……絶対にやめてください」
私は振り返らず、準備室のドアを開ける。
背後で陽菜の声が響く。
「大好きだよー!涼香ちゃん!」
「……」
私はドアを閉める前に、ほんの一瞬だけ、小さく呟いた。
「……うるさい」
でも、口元が、ほんの少しだけ緩んでいることに、自分でも気づいていた。
廊下に出て、冷たい夜風が頬を撫でる。
まだ、陽菜の匂いが、ほんの少しだけ残っている。
「……最悪」
私はそう呟きながら、
でもどこか、胸の奥が温かいまま、帰路についた。




