幼児退行クマちゃん・Ver.2.1
3人目出てきます。
翌日の放課後。
化学準備室のドアを開けた瞬間、胸の奥がずきりと疼いた。
昨日のお漏らしの記憶が、まだ生々しく残っている。
拘束されたまま体が震えて、スカートの下が熱く濡れて、床に崩れ落ちたこと。
涙を流しながら陽菜の胸にすがったこと。
陽菜は機械を止めた後、黙ってタオルを持ってきて、私の体を拭いてくれた。
スカートも、床も、全部片付けてくれた。
(貸しをつくったのは癪だけど……ありがとう、とは思ってる)
でも、その感謝すら、恥ずかしさで塗りつぶされてしまう。
部屋に入ると、陽菜はいつものように実験台の前で何かを作っていた。
「あ、涼香ちゃん!おっそーい!待ってたよー!」
元気いっぱいの声。
笑顔もいつも通り。
昨日のことは、一言も触れてこない。
でも、机の端に置かれたスマホの画面が、ちらりと見えた瞬間、胸が締め付けられた。
きっと、あの動画も、ちゃんと保存されている。
「……今日は、何するんですか」
私は警戒しながら、静かに尋ねた。
陽菜は首をかしげて、にこっと笑う。
「んー?今日は特に何も予定ないよ?涼香ちゃんが来てくれるだけで、十分嬉しいんだけど♪」
「……」
珍しい。
いつもなら、
すぐに試験管を差し出したり、機械に押し込んだりするのに。
今日は、本当に何もしてこない。
私は少し戸惑いながら、鞄を肩にかけ直した。
「……じゃあ、帰ります」
踵を返したその瞬間――
ガチャリ。
科学準備室の扉が、ゆっくり開いた。
入ってきたのは、見知らぬ女性だった。
背が高く、黒髪のロングヘアがさらりと揺れる。
細いフレームのメガネ越しに、落ち着いた瞳。
シンプルな白いブラウスとロングスカート。
美人、という言葉がぴったりくる人。
手には、大きなクマのぬいぐるみを抱えていた。
茶色い毛並みで、丸い黒い目。
体長は私の腰くらいある、ふわふわの大きなクマのぬいぐるみ。
「……誰?」
私は思わず呟いた。
女性は私に軽く会釈して、そのまま陽菜のもとへ歩いて行った。
陽菜はぱっと顔を輝かせて、ぬいぐるみを受け取る。
「わー、来てくれたんだ!ありがとう、みゆき先輩!」
「約束通りね。でも……本当にこれでいいの?」
女性――みゆきと呼ばれた人は、少し心配そうに陽菜を見た。
陽菜はにやりと笑って、クマのぬいぐるみの背中に、小さな装置のようなものを取り付けた。
ピッ、という電子音。
陽菜がぬいぐるみを机の上に置いて、私の方に向かせた。
その瞬間――
ぬいぐるみの黒い丸い目と、私の目が合った。
「……っ」
頭の奥で、何かがぽきんと切れた。
胸の奥から、甘くて柔らかい何かが溢れ出す。
(……クマさん……?)
視界が、急にぬいぐるみだけに絞られる。
陽菜が説明を始めた。
「これね、『幼児退行クマちゃん・Ver.2.1』!目が合った瞬間から三十分間、心が完全に幼児モードになっちゃうんだ。ぬいぐるみを見ると、無条件に大好きになって、一緒に遊びたくてたまらなくなるの!」
「……」
私はもう、陽菜の言葉なんて聞いていなかった。
足が勝手に動いて、クマのぬいぐるみの前にしゃがみ込んだ。
「クマさん……!」
両手でぎゅーっと抱きしめる。
ふわふわの毛並み。
柔らかくて、温かくて、たまらない。
「クマさん、かわいい……大好き……♡」
頬をすりすりして、
耳元で囁く。
陽菜がスマホを構えて、動画を撮り始める。
「わあ、始まった!涼香ちゃん、めっちゃ幼児化してる!」
みゆき先輩は、少し離れたところで、
ただ静かに私を見ている。
その目は、愛おしそうで、どこか興奮しているようだった。
私はクマさんを抱きしめたまま、床に座り込んで、ぬいぐるみに話しかける。
「クマさん、今日は何して遊ぶ?え?お散歩?うん、いいよ!手つなごうね!」
ぬいぐるみの手を握って、部屋の中をぐるぐる歩き回る。
陽菜がくすくす笑いながら、ぬいぐるみをそっと隠した。
「じゃあ、かくれんぼしよっか?クマさん、隠れちゃったよー」
「……え?」
私は一瞬ぽかんとして、すぐに目を輝かせた。
「クマさん、どこー?クマさーん!」
必死に探す。
机の下。
薬品棚の隙間。
実験台の後ろ。
「いない……クマさん、どこ行っちゃったの……?」
涙目になる。
陽菜が、ぬいぐるみを背後に隠したまま、
からかう。
「もうちょっと探してー!」
私は四つん這いになって、床を這いずり回る。
「クマさん……出てきて……寂しいよぉ……」
やっと、陽菜の白衣の後ろに隠れているのを見つけた。
「いたー!」
飛びついて、ぬいぐるみをぎゅーっと抱きしめる。
「クマさん、見つけた!もう隠れないでね……ずっと一緒にいて……」
陽菜は動画を撮りながら、満足げに頷く。
「最高のデータ……涼香ちゃんの幼児モード、レアすぎる……」
みゆき先輩は、ただ静かに、優しい目で私を見守っている。
三十分が、あっという間に過ぎた。
効果が切れると、体から力が抜けて、私はクマを抱いたまま床にへたり込んだ。
「……っ」
頭が急速に冷えていく。
自分が、ぬいぐるみに話しかけ、かくれんぼをして、飛びついて抱きついていたこと。
全部、鮮明に思い出される。
「……死ぬ……」
声が震える。
陽菜はスマホをしまい、私の頭をぽんぽんと撫でた。
「涼香ちゃん、お疲れ様。めっちゃ可愛かったよ」
「……」
陽菜はみゆき先輩の方を向いて、紹介する。
「そうそう、紹介が遅れた!この人は、近藤みゆき先輩。元部長だった人。卒業したけど、たまに私の実験手伝ってくれるの」
みゆき先輩は、静かに微笑んで、軽く頭を下げる。
「はじめまして、霧島さん。……あなたの様子を見て、とても興味が湧いてしまったわ」
「……は?」
みゆき先輩は、穏やかな声で続ける。
「陽菜の言う通り、私はもう卒業生で部活にはなかなか行けなかったけど……今日、あなたの姿を見て、なんだか放っておけなくなって」
彼女は少し照れくさそうに笑う。
「だから、明日から、毎日部活に来ることにしたわ。よろしくね、涼香ちゃん」
「……っ!?」
私は愕然として、
クマのぬいぐるみをぎゅっと握りしめた。
陽菜がにやにやしながら、私の肩を抱く。
「やったー!みゆき先輩が毎日来てくれるんだ!これで実験の幅が広がるね♪」
私は、ただ呆然と、二人を見つめるしかなかった。
(……もう、逃げられない)
恥ずかしさと、これからの予感が、胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
準備室の窓から、夕陽が赤く差し込んでいる。
私は、クマを抱きしめたまま、小さくため息をついた。




