お姉ちゃん薬・Ver.3.1
放課後の化学準備室は、いつもより少しだけ湿っぽい空気が漂っていた。
窓の外では秋の夕陽が赤黒く沈みかけていて、カーテンの隙間から差し込む光が、古い実験台の上で揺れている。アルコールランプの青い炎がチロチロと燃え、ガラス器具がカチカチと小さな音を立てる。どこか懐かしくて、どこか不穏な匂い――それが、この部室の「いつもの匂い」だった。
「はい、はい、ちょっとこっち来てー! 今日こそ最高傑作が完成したんだから!」
弾んだ声が部屋に響く。
化学部の部長、星野陽菜。
三年生にして身長は百五十センチちょっと。ショートカットの金髪をリボンで結んで、いつも白衣の上から派手なピンクのカーディガンを羽織っている。笑顔がまぶしすぎて直視できないタイプの、超・陽キャ部長だ。
そして今、その陽菜の目の前で、ため息をついているのは――
「…………また、ですか」
氷のような声。
一年生の私、霧島涼香。
黒髪ロング、色白、表情がほとんど動かない。クラスメイトからは「氷の姫」と陰で呼ばれているらしい。本人はそんなあだ名など知ったこっちゃないと思っている。
陽菜はニコニコしながら、試験管を片手に近づいてくる。
中には、薄い桜色の液体が揺れている。見た目はまるで薄めたイチゴシロップみたいだ。
「涼香ちゃん、これね。コードネーム『お姉ちゃん薬・Ver.3.1』!」
「……前回の『お姉ちゃん薬・Ver.3』で失敗して三日間部長の膝枕で寝てしまったことは、もう忘れたんですか」
「忘れてないよ!超かわいかったもん!あのときの涼香ちゃんの寝顔、部室の壁に貼りたいくらいだったもん!」
「絶対に貼らないでください」
私は無表情のまま一歩後ずさる。
しかし陽菜はすでに私の逃げ道を塞いでいる。背後には古い薬品棚。左右には机と椅子。完全に包囲されている。
「ねえ、涼香ちゃん。今回は本当にすごいの。飲んだ瞬間から一時間だけ、私のこと――」
陽菜は両手を頬に当てて、キラキラした目で続ける。
「――『大好きなお姉ちゃん』って認識しちゃうんだって!」
「……それ、犯罪の匂いがします」
「愛の結晶だよ?ね?ね?」
陽菜は試験管を私の唇のすぐ近くまで持ってくる。
甘い、イチゴみたいな香りが鼻をくすぐる。確かに毒々しくはない。むしろ美味しそうでさえある。
でも私は知っている。
この部長が作るものは、見た目が可愛ければ可愛いほど、ヤバい方向に転がる法則があることを。
「嫌です。飲みません」
「えーっ!涼香ちゃん冷たいー!」
陽菜はわざとらしく目をうるうるさせる。
「じゃあさ……もう二度と実験台にしてあげないよ?私、涼香ちゃんがいないと実験できないもん。他の子に頼んだら『変態』って言われて泣いちゃうし……」
「……それ、自業自得です」
「ひどい!部長いじめ!」
陽菜は大げさに胸を押さえてよろける。
そして次の瞬間――
「じゃあ、こうしよう!」
パッと試験管を傾け、私の口に無理やり流し込もうとする。
「っ!?ちょっ――!」
私は咄嗟に顔を背けるが、陽菜の動きが予想以上に素早い。
白衣の袖が私の頬を掠め、試験管の先が唇に触れる。
冷たいガラスの感触。そして――
ごくん。
「……あ」
一瞬、時間が止まった。
喉の奥に、甘酸っぱい液体が滑り落ちていく。
イチゴキャンディを砕いたような味。後味に微かな花の香り。
「……や、やったぁ!!」
陽菜が両手を挙げて飛び跳ねる。
私は呆然と自分の唇に指を当てる。
「……今、飲まされました」
「うん!ごめんね、仕方なかったの!でもこれで涼香ちゃんも私を――」
陽菜が私の両肩を掴んで、顔を覗き込んでくる。
「――大好きなお姉ちゃんって思ってくれるよね?」
その瞬間だった。
胸の奥で、何かがぽきりと音を立てて折れた気がした。
最初は、ただの違和感。
心臓が少し速くなっただけ。
でも次の瞬間――
視界の端で、陽菜の笑顔が急に輝きを増した。
「……あ」
息が、詰まる。
陽菜の金色の髪が、夕陽に透けてまるで天使の輪みたいに見える。
白衣の裾が揺れるたび、ふわっと甘い匂いが漂ってくる。
いつもは「うるさい」「面倒くさい」「変態」としか思えなかったその声が、今は――
とても、とても優しく聞こえる。
「……お姉、ちゃん……?」
私の口から、信じられない言葉が零れた。
甘ったるい、まるで溶けたキャラメルみたいな声。
自分でもびっくりするくらい、甘えている。
陽菜の目が一瞬大きく見開かれる。
「え……?涼香ちゃん、今……?」
私は自分でも止められない。
体が勝手に動いて、陽菜の白衣の裾をそっと掴む。
「……お姉ちゃん、あったかい……」
指先が震えている。
陽菜の体温が、白衣越しにじんわり伝わってくる。
その温もりが、信じられないくらい心地いい。
「え、えっと……涼香ちゃん?」
陽菜の声が少し上ずっている。
でも私はもう止まらない。
「……お姉ちゃん、ぎゅって、して……?」
自分でも何を言っているのかわからない。
でも胸の奥が、熱くて、疼いて、陽菜に触れていたいという衝動でいっぱいになる。
陽菜は一瞬固まったあと、ゆっくりと、優しい笑顔を浮かべた。
「……うそ、ほんとに効いてる……?」
彼女はそっと、私の背中に腕を回す。
「いいよ。ぎゅって、してあげる」
その瞬間、私の体から力が抜けた。
陽菜の胸に顔を埋める。
柔らかくて、温かくて、イチゴとシャンプーの匂いがする。
心臓の音が、どくどくと響いてくる。
それは陽菜のものなのか、私のものなのか、もう区別がつかない。
「……お姉ちゃん、大好き……」
声が震える。
涙腺が緩む。
こんな気持ち、初めてだ。
いつもは冷たく突き放していたはずなのに、今は陽菜の匂いも、声も、温もりも、全部が愛おしくてたまらない。
陽菜は私の頭を優しく撫でながら、くすくすと笑った。
「涼香ちゃん……可愛すぎるんだけど」
「……お姉ちゃんのばか……」
私は陽菜の胸に顔を押し付けたまま、むにゃむにゃと甘える。
「もっと、ぎゅってして……離さないで……」
陽菜の腕に力がこもる。
「うん。離さないよ」
「……ずっと?」
「うん。ずっと」
「……約束、だよ?」
「約束」
陽菜の声は、いつもの明るさの中に、どこか照れたような響きを帯びていた。
私は目を閉じる。
頭の中が、陽菜のことでいっぱいだ。
陽菜の笑顔。陽菜の声。陽菜の匂い。陽菜の温もり。
一時間だけ。
それなのに――
この気持ちが、こんなに本物みたいに胸を締め付けるなんて。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「……大好き」
陽菜は小さく息を吐いて、私の髪にそっと唇を寄せた。
「私も、涼香ちゃんのこと……大好きだよ」
夕陽が完全に沈み、準備室は薄暗くなった。
アルコールランプの青い炎だけが、二人を優しく照らしている。
私は陽菜の胸の中で、幸せに溺れていた。
――この薬が切れるまで、あとどれくらいだろう。
――あと一時間で、私はまた「霧島涼香」に戻る。
冷たくて、クールで、部長のことなんて大嫌いな、いつもの私に。
でも今は。
今だけは。
「お姉ちゃん……」
私はもう一度、甘えた声で呟いた。
陽菜はただ、優しく微笑んで、私を抱きしめ続けた。




