第9話「天空の卵界、孵化する熱と記憶」
──“天空卵界”への旅立ち
金属でも布でもない、ぷかぷかと浮かぶ飛行卵ライド《浮遊オムリフ》の上で、ハジはそっと腹を押さえた。
満たされているのか、空っぽなのか。自分でも、よくわからない。けれど、空を登るその鼓動は、確かに何かを待っている。
遥か上空。雲を突き抜けた先に、世界の常識を越えた光景が広がっていた。
空中に浮かぶ、殻の大陸。
無数の卵のような浮島が、ぐつぐつと湯気のようなものを噴き出しながら脈動している。
どれもこれも、生まれかけの何かを、抱えている気配。
「……うわ、完全に“料理中”の世界っスね……」
肩に乗った胃袋精霊・ポトフが、目を細めてつぶやく。
「ここ、“世界卵”の孵化場っスよ、ハジ……。たぶん、何かが生まれるたびに──何かが、終わるス」
温度と鼓動に満ちた空気に、ハジは思わず生唾をのむ。
供膳者ギルドからの説明では、この“天空卵界”では**「記憶で発酵する料理」**が支配しているという。
過去の想い出や、忘れられた感情──そうした“記憶”こそが、卵を熟成させ、新しい命として孵す燃料になるらしい。
「……記憶を、味にするってのか。めんどくさい胃袋だな、ホント……」
ハジはそうつぶやいたが、心のどこかではもう、うすうす気づいていた。
この空に漂う温度は、ただの熱じゃない。
食欲の熱でも、命の鼓動でもない。
これは、きっと──
**何かを思い出す“心の温度”**なのだ、と。
──“記憶で育つ卵”と出会う
空に浮かぶ殻島──その一つに着陸したハジは、地面の感触に思わず足を止めた。
ふわふわしている。けれど、ただの柔らかさじゃない。
あたたかさがある。どこかで一度、味わったような──そう、あの晩、誰かと囲んだ小さな鍋の温もりに似ていた。
「ここは、“記憶を育てる島”スね……」
ポトフがぽつりとつぶやいた瞬間、ハジの視界の端に、ぴょこりと姿を現す影があった。
「……きみ、たべる人?」
丸い体に、うっすらとしたヒビ。中から透けて見える黄身のような光。
それは──まだ“生まれていない”精霊だった。
「私は……メレング。でも、まだ……自分が、どんな味になりたいのかわからないんだ」
殻にこもるように、メレングはうつむいて言った。
ハジは答えに詰まる。
“味になりたい”──その言葉に込められたのは、ただの美味しさではない。
きっとそれは、誰かの記憶に残りたいという願いなのだ。
と、ふいに。
島の空気が、ふわりと揺れた。
次の瞬間、辺りの空間に、光のような湯気のような映像が立ち上る。
「──あっ」
それは、ハジ自身の“食の記憶”だった。
幼いころ、独りで泣きながらパンをかじっていた夜。
不器用な手つきで、誰かのために作った焦げたオムレツ。
その誰かが、「……すっげー味だけど、なんか泣ける」って笑ったあのとき。
目の前に浮かぶのは、過去のハジと、過去の食卓。
そして、その光景を見つめたメレングが、ぽつりとつぶやく。
「……味って、思い出に似てるんだね。忘れたくないから、残るんだ」
その言葉に、ハジの胸がちくりと痛む。
料理の意味。味の記憶。命を喰うことの、重さと温度。
この世界は、そういう“もの”で作られている。
──暴走する“孵化災”と記憶の炎
突然、空が悲鳴を上げた。
「……ッ、なんだ、この熱……!?」
ハジが振り向いたその先──空に浮かぶ中心の卵殻大陸で、巨大な孵化の鼓動が始まっていた。
ボウッ! という重低音とともに、いくつもの卵島が裂け、その中から飛び出すのは──未来に生まれるはずだった料理たち。
まだ味を知らず、形すら安定していない。
焦げたシチュー、喚きながらとろけるプリン、爆ぜるスフレ──それらが制御を失い、空に火の雨を撒き散らす。
「こいつら……“未来の料理”が暴走してる……!」
未熟な“味”たちは、自らが何になるべきか分からぬまま、世界を喰らおうと牙を剥いていた。
ポトフが青ざめた顔で叫ぶ。
「ハジ、ヤバいス! このままじゃ“可能性の暴食”が広がって、世界の味そのものが崩れるスよ!」
だが──その混乱の中心へと、ハジの胃が反応する。
《万物捕食》──すべてを喰らい、素材へ還元する異能。
今、暴走する“未調理の未来たち”が、そのスキルに吸い寄せられはじめる。
「……くそ、喰えば終わる。でも……それじゃ、こいつらはただの“素材”でしかなくなる」
ハジは拳を握りしめた。
胃袋の奥、あの“調理台”がまた光り始める。
その中心に、一枚のプレートが現れる。
そこには、ぐつぐつと何かが煮え立っていた。――これは“記憶のシチュー”。
彼は決意する。
「喰うんじゃねぇ……焼き直す!」
スキルの流れを止め、未熟な料理たちをそのまま調理台へ転送する。
すると、暴れるプリンは滑らかなクリームへ、焦げたスフレはしっとりとした卵ケーキに変わっていく。
その瞬間──サラダさんの声が、胃の中から響いた。
「ハジ……喰うだけじゃ、未来は育たないわよ。焼き加減が肝心なの」
彼女の言葉に、ハジは微笑む。
「……ああ。たまには焦げてもいい。でも、焦げたって、ちゃんと料理すれば“味”になる」
こうして、“孵化災”は鎮まり、空の卵たちは、静かに眠りへと戻っていった。
──レシピに“未来”が書き込まれる
空に広がった孵化の熱は、次第に沈静化していった。
煮え立っていた卵島も、やがて静かな湯気を残すだけとなり、青く透き通る大気に溶けていく。
ハジは、深く息を吐いた。
その胸の奥、胃袋の中心にある“調理台”が、再び光を放つ。
──パタン、と音がした。
調理台の隅に立てかけられた、分厚いレシピ帳が、ひとりでにページをめくる。
空白だった紙に、金色のインクがすうっと浮かび上がっていく。
そこに書かれたタイトル:
> 《第9章:未来味スフレと選ばれし卵たち》
そして、その下には──
> 材料:記憶の温度、未成熟な衝動、選択されなかった未来たち
> 調理方法:強火では焦げる。じっくり、低温で。想いをかけて、目を離さないこと。
ハジはそのレシピを、そっとなぞった。
「……未来の味って、こんな風に書き足されていくのか」
そこへ、小さな足音。
振り返ると、先ほどの卵精霊──メレングが立っていた。
彼の殻はほんのり色づき、まるで“自分の味”を知ったように、どこか誇らしげだった。
「ありがとう、ハジ。僕、ちゃんと……自分の味で生きてみるよ」
そう言って、メレングは跳ねながら空へ溶けていった。
もう、未熟ではない。彼もまた、一品の“完成品”になろうとしていた。
だが、その穏やかな空気を裂くように──
白き衣の気配が、背後から近づいてくる。
「やはり……調理台は進化していますね。満腹神の“意思”も、皿の意味を変え始めた……」
現れたのは、供膳者ギルドの女──ミルミ。
彼女は無表情のまま、銀の手袋をつけ直しながら告げる。
「次の皿は、“地底の反芻都市”。……いよいよ、供膳者の本懐に近づきます」
その言葉に、ハジは静かに首を振った。
「俺はもう、ただの“食べるだけの存在”じゃない」
調理台のレシピ帳を見下ろしながら、言葉を続ける。
「……意味を、作る側だ」
レシピには、まだ余白がある。
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