第8話「再調理された街と、歩くレシピたち」
──発酵街ポトフ
「……あれが、再調理された都市スか……」
崩壊寸前だった聖都グラタンベル。
だが今、そこにはチーズの香りに包まれた、穏やかなスープの街が広がっていた。
もはや腐敗ではない。
暴走していた旨味エネルギーは“濾過”され、食欲を狂わせていた刺激は、“滋味”へと変わっていた。
ハジの胃袋に浮かぶ巨大なスープ──それが、調理台で導き出されたレシピ:
《発酵街ポトフ》
そのスープは都市の“味”の精髄を包み込み、静かにぐつぐつと煮込まれている。
溶けた記憶。焦げかけた想い。だが今は、ほのかな塩気と希望の温度を帯びていた。
ポトフ(満足げに):「……この旨味は、たぶん“戻れる”スね。正気ってやつに」
スープの蒸気が、都市の広場へと漂っていく。
その香りを吸った住民たちが、少しずつ――正気を取り戻し始めた。
灰色だった目に色が戻り、
発酵に囚われていた手足が、自らを抱きしめ直すように震える。
一人の少年が、ぽつりと呟いた。
少年:「……あれ、僕……料理、好きだったんだっけ……?」
その瞬間、ハジの中に確かな感触が走った。
“ただ喰らうだけ”じゃない。
“意味を変える料理”は、人の心にも届く――
「……やっと少し、わかってきたかもしんねえ」
ハジは湯気の立つ都市を見下ろしながら、小さく呟いた。
──レシプス、そして“空に割れる黄身の兆し”
再調理された都市、グラタンベル。
かつて腐敗と発酵の暴走に呑まれたこの街の一角で、ハジは“奇妙な存在”に出会う。
それは、レシピ帳に足と手が生えたような――歩く料理書だった。
「お初にお目にかかります。私は“レシプス”。歩くレシピ書でございます」
声はかすかにバターの焦げるような香ばしさを帯びていて、礼儀正しいが、どこか古びた味がした。
ハジ:「レシピが歩くって……どういう胃袋だこの世界……」
レシプスはパタパタとページをめくりながら言った。
「この世界では、強い味と思念が重なった料理は、時として“自我”を持ちます。我々、レシプ族もまた、そうして生まれました」
「レシピには、作る者を選ぶ権利がある」とレシプスは続けた。
「ですが、あなたはそれを“完成”させた。発酵街ポトフ――美しき再調理。あの料理に意思が宿った時、私は目覚めました」
ハジはポトフ(胃袋精霊)と目を合わせた。
ポトフ:「いや~、知らなかったスけど……うちの胃袋、勝手に“発酵から人格誕生”とかしてるスね……」
サラダさん(胃袋内人格):「胃袋、世界、生命。違うようでいて、同じ鍋の具材なのかもしれませんわ」
そのとき。空が、裂けるように“卵の黄身色”に染まった。
ヒュオォォ……という風とともに、供膳者の白服たちが再び現れる。ミルミの姿はない。代わりに、別の供膳者が無表情で告げた。
「次の調理対象が決まりました。“天空の卵界”──この世界の空を支える、最後の未熟素材です」
ハジ:「……卵、界……? なんだそりゃ、“世界のオムレツ”でも作る気か?」
供膳者:「詳細は、レシプスに託されております。次のレシピは、貴方の“意思”次第です」
レシプスが、パタンと自らのページを閉じた。
「さあ、選んでください。次に味わうのは、“目玉焼きの空”か、“オムレツの地殻”か、それとも――“割れて目覚める、世界の芯”か」
黄身のような夕日が、空を焼いていた。
──歩くレシピと、空に浮かぶ“次の献立”
発酵から再調理された街・グラタンベル。
かつての狂気のチーズ臭は消え、代わりにほんのり香るコンソメとバジルの余韻が街を満たしていた。
そんな一角――かすかに蒸気を吐き出す瓦礫の隙間から、何かが“歩いて”現れた。
「……よくぞ、料理しきってくださいました。ようやく私も、ページをめくる理由を思い出せました」
現れたのは、ふわふわと宙に浮く古びた料理本。脚と腕を持ち、中央の栞がひときわ誇らしげに翻っている。
ハジ:「……何だお前。レシピが……歩いてんのか?」
「はい。“歩くレシピ書”――我が名はレシプス。思念を宿した料理が残す、記憶と構造の集積体です」
ポトフ:「うわあ……また“胃袋の物語”みたいなヤツが出てきたスね……」
サラダさん:「でも……見て、ハジさん。あれ……料理の“意思”よ」
レシプスは一礼し、ページを一枚、そっと開く。
「強すぎる味は、世界に“印”を残す。そして時に、レシピは人を選ぶ」
「再調理されたこの都市──発酵街ポトフ──は、貴方の味覚と選択によって完成しました。それは私にとって、目覚めのレシピでした」
ハジ:「……料理がレシピを生む……? なんか、逆だろ普通……」
「“食”とは、常に循環。誰が起点かなど、意味を持たない。重要なのは“どんな意味で喰らうか”です」
そのときだった。
空が、音もなく“黄身色”に割れた。
空一面に、巨大なひび割れのような卵の殻が浮かび、その内側からとろりとした光が漏れている。
白服の供膳者たちが、再び現れた。
「調理対象、決定を通知します。天空の“卵界”──孵化前の浮遊層領域です」
レシプスがページを捲る。そこには、まるで未完成の料理に添えられるような一文が記されていた。
《調理素材:天空の卵界》
《状態:過熟》
《発生する可能性:世界孵化/黄身落下災害》
《必要スキル:咀嚼判断・熱加減操作・感情転化盛り付け》
ハジ:「おいおい、次は空ごとオムレツかよ……!」
ポトフ:「でも……ハジ、世界が今、一番喰われたがってるの、そこかもしれないスよ……」
ハジは空を仰ぎ見た。そこにはまだ、完全に割れていない“黄身の空”が、ぐらつきながら漂っていた。
──レシピと意志の選択
夜、再調理を終えたグラタンベルの広場に、ほのかな湯気と香草の匂いが漂う。
ハジは静かに腰を下ろし、胃袋の奥で再び“調理台”の幻影を見る。
その中央――そこにあったのは、一冊のレシピ書だった。
けれど、それは完成されておらず、白紙のページが多く残されている。
「……これ、俺のレシピ?」
レシプスが隣に現れ、柔らかな声で告げる。
「そう。これはあなたの“咀嚼と選択”の記録。その皿が何を意味し、誰の命を変えたのか……
すべての料理は“意志”の反映なのです」
ハジはその言葉を聞きながら、ページをそっとめくる。
そこには“都市の救済鍋”として完成した《発酵街ポトフ》の文字。
苦悩や絶望、過剰な旨味さえ“滋味”へと変えた、料理の記憶。
ハジ:「……喰った結果じゃなくて、“喰い方”が全てなんだな」
ポトフ:「うっス……でも、ハジ。次の料理は……空っスよ?
落ちてきたら、多分世界が“スクランブルエッグ”になるス……」
供膳者ミルミが、再び白銀のナプキンを差し出す。
「“天空の卵界”は、時間と熱と意思を持って、いま孵ろうとしています。
それが災いとなるか、料理となるか――貴方の調理に、すべてが懸かっているのです」
ハジは黙ってレシピ書を閉じた。そして、自分の胃袋に語りかける。
「食うだけじゃ終わらねえ……どう味を組み立てるか、どう意味を持たせるか。
その全部に、俺が責任を持つ。それがこの胃袋の役割なんだな」
空に浮かぶ“卵界”が、ぼんやりと熱を帯び始める。
ハジは立ち上がり、ナプキンを肩にかけた。
「次の料理、行くか。今度はちゃんと、俺のレシピで作ってやる」