第7話「聖都グラタンベル、熟成崩壊の夜」
胃の奥から、どこか塩気を帯びた蒸気が湧き上がる。
歩を進めるたびに、ハジの背中を焼くような不安がじりじりと這い上がる。
「……これが、“次の献立”ってやつかよ」
黄ばんだ地図を手に、ハジは岩の丘を越える。
遠方に見えるのは、白い湯気を噴き出すような都市の残骸──聖都グラタンベル。
かつては人類の首都。今は、発酵と腐敗が暴走した、“生きたチーズの迷宮”となっていた。
街全体が、ねっとりと濃厚な香気を放っている。
空気を吸うだけで舌の奥が痺れ、胃袋がひときわ音を立てた。
「やめとけハジス……ここ、もう“食い物”じゃないスよ……“飲まれる”ス……」
ポトフの声が胃袋内で震えていた。
だがその警告をかき消すように、ハジの足元に何かが転がった。
──チーズ化した人間の片腕。
「う、うわ……これ……まさか」
腕の皮膚は淡黄色に発酵し、血管の代わりにチーズの繊維が走っていた。
しかも、まだ温かい。誰かが、“自ら進んで”身体を差し出したのだ。
「……ああ、もう我慢できねぇ……食わせてくれ……“旨味様”……」
朽ちた路地裏から、一人の住民がよろけ出てくる。
全身がとろけ、眼孔からチーズが滴る異様な姿。
その手には、皿の代わりに自らの脚──そして笑顔。
「うわ……正気じゃねぇ……」
都市の片隅で、**“旨味依存症”**と呼ばれる症状が蔓延していた。
発酵モンスターたちは人の姿を取り込み、都市と一体化し、呼吸し、成長している。
「……食うんじゃねぇ、これ、“街が喰ってる”んだ……」
ハジは背筋に冷たい脂汗を流しながら、迷宮都市の口へと足を踏み入れる。
湿気と発酵の匂いが支配する迷宮都市、グラタンベル。
ハジは、供膳者から渡された**“味覚マップ”**を片手に、慎重に足を進めていた。
「赤い香気は腐敗寸前、青は未熟、金は……“神の旨味”か……?」
マップは、五感では捉えきれない味の濃度を視覚化したものらしく、
都市の各地点に発酵エネルギーの波紋が刻まれていた。
濃度の中心──地図の中央、かつての聖堂跡に、それはあった。
熟成の聖域
チーズと骨で築かれたドーム状の建造物。
扉を押し開けた瞬間、濃厚すぎる香気が顔面を叩きつけた。
「……くっせ!いや、でも……この匂い、なんだ……逆に腹が……減る!?」
奥から、異様に肥え太った人影が現れる。
その肉体は全て“熟成チーズの層”でできており、歩くたびにとろけるような音を立てる。
熟成大司祭
その瞳はすでに瞑られ、口元には恍惚の笑み。
両手を開き、恭しくハジを迎えた。
「ようこそ、神の胃袋に選ばれし者よ……。この都は、いま最も美味──神の咀嚼こそが祝福なのです」
「てめぇが……この都市の“腐りの核”か」
ハジが構えると、司祭は笑った。
「違います。この都は“完成”へ向かっているのです。
腐敗も、破滅も、料理の終着点なのです──あなたの“皿”となるために」
都市全体が、まるで一つの巨大な熟成料理であるかのような感覚。
聖堂の床を伝って、ハジの足元へと旨味が滲んでくる。
「さあ、咀嚼の神よ。あなたが食べねば、この都市は腐敗し続けるだけ……」
「……そうかよ。だったら──」
ハジは、己の**胃袋スキル《万物調理》**を起動する。
胃の奥で、再び“調理台”が唸り始める。
「この味……俺が責任もって、料理ってやる」
──料理とは、意味を変えること
都市全体を巻き込む濃厚な発酵エネルギー。
ハジの胃袋内、“調理台”が激しく軋みながら輝きを放つ。
次の瞬間、ハジの意識は――内なる調理空間へと引き込まれた。
《胃袋の調理台》
そこには、都市の記憶の断片――
暮らし、祈り、腐敗に抗い、そして堕ちた者たちの想いが、素材の形をとって並んでいた。
「……これが、グラタンベルの“味”……」
皿の上には、黒く熟れすぎたチーズの塊。
“断罪”の刻印が浮かび上がっていた。
ポトフの声が静かに響く。
「このまま焼き尽くせば、“都市の腐敗”は終わるス……
けど、残るのは“空白”だけスよ……」
サラダさんの声もまた、調理台の片隅から届く。
「素材は腐っても、“想い”はまだ……火入れ次第で、生まれ変われるわ」
ハジは、無言で包丁を取り――そして、皿を見据えた。
「……喰うだけじゃねぇ。料理ってのは、味の意味を変えることなんだよ!!」
調理開始。
黒く濁った素材に、新たな香草を添え、苦味と酸味を調和させる。
記憶の奥底から引き出された“忘れられた希望”が、スープのように満ちていく。
包丁が、まるで祈りのように滑るたび、素材が少しずつ「美しさ」を取り戻していった。
そして――完成した一皿が、白く静かな光を放つ。
ポトフ「……再調理、成功ス」
その瞬間、都市の空が晴れ、発酵の煙が静かに霧散していった。
ハジはゆっくりと目を開け、現実に戻る。
目の前で跪く熟成大司祭。
その身体から、腐敗の瘴気が抜け、静かな涙を流していた。
「……ありがとう、胃神様……これが、私たちの……“最後の味”……」
都市は救われ、けれどその余韻はどこか切なさを含んでいた。
胃袋の奥、調理台の皿には、“再調理済:グラタンベル”と記された木札がひとつ、そっと置かれていた。