第6話「俺の胃袋が異世界を救う(?)」
──調理台の幻影
森の奥深く、濃い霧に包まれた湿地帯で、ひとりの男が泥にまみれて眠っていた。
──ハジ。
異世界に召喚され、謎スキル《万物捕食》を得た中年土木作業員。
そして今は、無意識に村ひとつを胃袋に沈め、“満腹神”などと呼ばれ始めた存在。
「……う、ぐ……」
目蓋の裏、熱に浮かされたような夢が脈打つ。
その景色は、どこか懐かしく、それでいて初めて目にする神域だった。
濃紺の虚空に浮かぶ、巨大な石の調理台。
皿の代わりに、記憶の断片や命の残り火が静かに並べられていた。
スプーンに触れれば、甘い希望の温もりが、
包丁に指をかければ、苦い絶望の冷たさが走る。
素材ではなく、“感情そのもの”が、調理器具に宿っていた。
「……なんだここ……?」
ハジはふらふらと調理台に近づき、震える手でひとつの素材──金色に揺れる“笑顔の残像”に触れた。
──ジュッ。
感情が跳ね、心が焼ける。これは“旨味”ではない。
ただ、誰かが誰かを想った記憶だ。
「……これ……食うんじゃなくて……」
ハジの喉が、何かを悟るように動いた。
「……作るってことか……?」
その瞬間、虚空の調理台が、淡く光った。
料理ではなく、“魂を完成させる行為”──それが、胃袋の奥に眠る真の力だったのかもしれない。
──世界が「喰われたい」と願っている?
焚き火の残り火がぱちりと弾け、ハジは夜空を見上げていた。
空腹はない。
けれど、胃の奥が、妙にざわついている。
「……ポトフ。お前、何か感じてるか?」
静かに問うと、胃袋内の“精霊”ポトフの声が返ってくる。
ポトフ:「感じてるどころじゃないスよ。むしろ……違和感ありまくりス」
「違和感?」
ポトフ:「最近、食材たち……っていうか“命”たちが、自分から食べられに来てる感じがするス」
その言葉と同時に、ハジの脳裏に映像が流れ込んできた。
胃袋の中。
かつて喰らった命たち──ケムケムのトサカ、ユッケスの冷たい瞳、バラミィの脂に満ちた微笑──
そのすべてが、満ち足りた顔で、霧のように溶けていく。
怒りも、未練も、苦痛すらない。
まるで、“喰われることで救われた”とでも言うような、満足の表情で。
「……嘘だろ」
焚き火の火が音もなく消える。
星明かりの下、ハジは自分の腹に手を当てた。
「まさか……この世界が……俺に“喰ってほしい”って願ってるのか……?」
ポトフの声が、珍しく震えていた。
ポトフ:「……そうだったらどうします? ハジが喰わなかったら、逆に……世界が“飢えて壊れる”とか、だったら……」
火のない空の下。
“喰う”という行為が、救いなのか破滅なのか──
その境界線が、徐々に溶け始めていた。
──供膳者の訪問「次の献立:聖都」
森の奥。
朝霧が漂う静かな空間に、唐突に足音が満ちた。
カツン、カツン──
無駄のない、完璧な隊列。
ハジが顔を上げると、またもや現れていた。
白服の料理人たち。
供膳者ギルド。
彼らの中心にいたのは、あの少女──盲目のシェフ、ミルミだった。
銀髪が朝日を受けて、かすかに光る。
ミルミは音もなく膝を折り、銀の名刺と一枚の書類を差し出した。
「《次の調理申請》をお届けに参りました」
ハジはそれを受け取り、眉をひそめる。
──【調理対象】:聖都グラタンベル
かつて人類の文明が集約された中心地。
今や、“発酵暴動”と“旨味汚染”の拡大により、崩壊寸前と記されていた。
「……マジかよ」
ハジは書類を握り締め、怒鳴る。
「ふざけんな! なんで毎回“食う前提”なんだよ! 俺は……そんなに喰いたくねぇんだよ!!」
ミルミは、わずかに首を傾げる。
その仕草には、哀れみすら含まれていた。
「……救済と捕食は、表裏一体です」
「はあ?」
「グラタンベルは、もう誰にも救えません。菌が広がり、味覚が狂い、住人は“旨味の亡者”と化しました。
でもあなたなら、“調理”できる。意味を持たせて、終わらせられるのです」
ハジの心が揺れる。
それはただの虐殺ではない。
“意味を持った終わり”──調理。
「……何なんだよ、それ。何で……何でそんなことまで俺にさせんだ……」
ミルミは静かに立ち上がり、口元に笑みを浮かべる。
「この世界は、最初からあなたに“食べられること”を望んで生まれたのです。
私たちは、それを整えるだけ……そう、私たちは供膳者ですから」
風が吹き抜けた。
その一言で、森の静寂さえ変質した気がした。
“食べる”という行為が、選択肢ではなく、宿命へと変わっていく。
──気付き始める“世界の歪み”
焚き火の灯りが揺れる森の一隅。
供膳者が去った後、ハジはその場に残された書類と地図を見つめていた。
──【調理対象:聖都グラタンベル】
その座標が、赤い円で囲まれている。
「……あれ?」
視線を滑らせていくうちに、ハジの手が止まった。
かつて通った村。
遭遇したモンスターの棲み処。
全てが、奇妙なまでに“一つの線”で繋がっていることに気づいた。
まるで世界が、一本道のレシピを仕立て上げていたような──
「……これ……おかしいだろ……」
呆然とつぶやく。
「最初から俺が……喰うように、進ませられてたってのか?」
焚き火の奥から、胃袋の中の声が届く。
柔らかくも芯のある、野菜人格・サラダさんの声だった。
「……かもしれませんね。世界そのものが、“あなたの胃袋”を前提に設計されていたのかもしれません」
「……そんなバカな話があるかよ……!」
「でも」
「“調理の仕方”は、あなたの自由です。
食べることが破壊でも、救済でもあるなら……
その匙加減を決められるのは、あなたしかいない」
ハジは拳を握りしめ、火の粉を見つめる。
確かに、喰うだけなら誰にでもできる。
でも“意味を持って喰う”こと──それは、料理だ。
「……クソが。勝手にレシピ組んでんじゃねぇよ……
どうせなら、俺流に調理してやるよ。世界ごと、皿の上に乗せてな──」
空腹と、怒りと、かすかな使命感が、再び彼の胃を熱く満たしていく。
──選択の皿
銀の名刺が風に舞い、森の静寂へと消えていった。
白服の供膳者たちは、舞台を整えるように淡々と去っていく。
その背を見送りながら、ハジはただその場に立ち尽くしていた。
ミルミは最後に、まるで祈るような声音で言った。
「“喰らう”ことは、ただ奪うことではありません。
それは、散らばった命を一つの意味にまとめる……“完成させる”ということでもあるのです」
音もなく、白き影たちは森の奥へと溶けていった。
残されたのは、沈黙と──胃の奥に灯る、かすかな熱。
ハジはゆっくりと目を閉じる。
すると意識の底、内なる世界へと沈んでいった。
そこは彼自身の胃袋の最深部。どこか神殿のようでもあり、台所のようでもある不可思議な空間。
──“調理台”。
重厚な石造りの台の中央に、ひとつの皿があった。
光も、香りも、匂いも持たない。
ただ、“何かを待っている”ような、そんな静けさだけがあった。
その皿は、未完成だった。
いや、“何も置かれていない”が、正確かもしれない。
ハジは皿を見つめたまま、無言で息を吐く。
「……食うだけじゃ終わらねぇってことか。
完成させるなら──何を盛りつけるかは、俺が決める」
かすかに、調理器具が揺れ、音を立てた。
まるで“それでいい”と、誰かが答えたように。
火はまだ、消えていない。
──喰らい、その先へ
夜の帳が静かに降りる。
森を抜けた丘の上で、ハジはひとり空を見上げていた。
雲の切れ間から、月がのぞく。
どこか、皿のようにも見えた。
空に浮かぶ、巨大な一枚の皿。
それが「世界」だとしたら、自分は何を盛りつけるのか──そんな想像がふと脳裏をよぎる。
「……喰って終わりか。いや、違ぇな」
ポトフやサラダ、食材たちの声、供膳者たちの眼差し。
そして、あの調理台に残された未完成の一皿。
「喰って、どう“料理するか”なんだろ、この力は……」
月が光を増したその瞬間、ハジの瞳に何かが映る。
──燃える聖都。
崩れかけた街並みに、発酵し膨張する建物。
空気すら濃厚な旨味を帯び、もはや“都市”というより“巨大な煮込み鍋”のような異様な景色。
どこからか響く供膳者の祈り声。
そして浮かび上がる、次なる章の名──