第5話「暴走胃袋、村を呑む」
──食後、空腹、そして“空白”
──満腹の余韻は、ほんの一瞬だった。
「……ん、んぅ……」
まぶたを開けると、そこは夕焼けに染まった空の下だった。
食事の後、気を失ったように眠っていたらしい。土の上に横たわる体がじんわりと冷え切っている。
「……ポトフ……ミルミ……?」
あの白服集団も、謎めいた少女シェフも、どこにもいなかった。
辺りは静まり返り、ディッシュヴィレッジのモンスターたちの声すら聞こえない。
代わりに、どこか――“抜け落ちた”ような、空洞の気配だけが残っていた。
「やっと起きたスね……いやマジで、ヤバいスよ、ハジ……」
胃の奥から、聞き慣れた声が響く。
スライムのポトフだ。しかしその声にも、どこか張りがない。
「……なんか、変だよな。静かすぎるっつーか……」
ハジは自分の腹を押さえながら呟いた。
いつもなら、胃袋の中でにぎやかにお喋りしている“食材たち”の声が騒がしいはずだった。
焼き鳥先輩のドヤ声も、バター昆虫ちゃんの乙女トーンも、サラダさんの冷静な分析も。
今は、何も、聞こえない。
「……ポトフ。みんなどうしたんだ?」
「……たぶんスけど、あんまりにも食べすぎて、味の精神領域が限界きたんス……
“静音化”っていうか、“余韻保存モード”っていうか……」
ハジは、空を見上げた。
胃の中が静かになると、世界そのものが静かに見える。
まるで、これから始まる“何か”の、深呼吸の前触れのように。
「……おれ、なんか……嫌な予感すんだよな……」
その時、腹の奥が、ぐううううう……っと、鳴いた。
耳を塞ぎたくなるほど深く、長い、異常な“飢え”の音。
それは単なる空腹ではない。
それは、胃が、世界を喰らう準備を始める音だった。
──空腹タイマー起動、そして暴走へ
──それは、“満腹”のあとにやってくる、“飢餓”だった。
「……うっ……腹、減った……?」
意味がわからなかった。
さっき、あれだけ食べたばかりなのに。
百皿超えのフルコースだぞ? なのに――
《空腹タイマー 起動まで あと00:00:03》
「は……? ちょ、ちょっと待って、なんかカウントダウン出てんだけど!? え、え、なんで!?」
3……2……1……《起動》
ズゥゥン……ッ!
全身が真下に引きずられるような感覚に襲われる。
胃袋から脳天にかけて、黒いもやがぶわりと噴き出した。
感覚、理性、記憶。すべてが食欲に塗りつぶされていく。
「……あ゛……あぁ……く、くいてぇ……!」
ポトフの声も届かない。
目の前にあった景色は黒く溶け、代わりに“食えるもの”の気配だけが浮かび上がる。
それは遠くにある“村”のシルエット。食材のにおい。生きた命の香り。
ハジの足が、自然と動き出す。
足取りは重く、まるで獣のように引きずられながら、それでもまっすぐ“食える方角”へと進む。
その背からは、うっすらと黒い煙のようなものが立ち上っていた。
胃袋から漏れ出した“捕食欲”の瘴気。
スキル《万物捕食》が、ついに暴走状態へ突入したのだ。
──空腹が、すべてを呑み込む前に。
だがもう、遅かった。
──地面ごと“食う”
──その村には、かつて人もモンスターも暮らしていたという。
家畜の鳴き声。井戸の音。子どもたちの笑い声。
しかし、それらはすべて──“ひとくち”で消えた。
ドォン……!
鈍く、重い破裂音。空間が圧縮されたかのような爆音が響く。
次の瞬間、空気が巻き戻るようにぐにゃりと歪み、村の中心部が“めくれあがる”ように吸い込まれていく。
地面が食われた。
道も、家屋も、畑も、空気すら──
まるごと、胃袋に吸い込まれた。
「ひいぃぃぃいいっっ!?!?!?!?」
ポトフが叫ぶ。
胃袋の内側から、その“異常捕食”を目の当たりにした彼の瞳は震えていた。
「う、うわああああああ!? こ、これ、“命の塊”スよハジス……!!」
胃壁の内側では、無数の光がバチバチと点滅していた。
それは捕食された命の残響──まるで叫び声の残像だった。
サラダさん(仮)の声が、静かに漏れる。
「これは……料理じゃない……災厄だ……」
映し出される内映像。
無数の命が“咀嚼される間もなく”流れ込み、人格を持った食材たちも対応が追いつかない。
調理のプロセスも、味わう余裕もない。これはもう“料理”ではない。
ただの捕食、ただの暴力、ただの飢餓の爆発。
ポトフが、震える声で呟いた。
「ハジス……いま、あんた……“命を料理”しちまったス……」
それは、味覚世界の禁忌。
──胃神、暴走。
──目覚めと罪の残響
──焦げた匂いが鼻をついた。
土と灰の混ざったような乾いた空気。
耳鳴りが遠ざかると同時に、重い瞼が開いていく。
ハジは、地面にうつ伏せで倒れていた。
いや、正確には“かつて地面だった場所”だ。そこは……ぽっかりと空いた巨大なクレーターの底だった。
見渡す限り、何もない。
家も、人も、草一本すらも──全てが無くなっていた。
「……ッ、あれ……ここ、どこ……?」
よろめきながら体を起こす。服は焦げ、指先には土がめり込んでいた。
口の中には、焦げた鉄のような後味。喉の奥が熱い。
遠くで、声がした。
──「……“胃神様”に……食べられた……」
かすかに残っていた、逃げ遅れたモンスターの言葉。
それはまるで、呪詛でも、讃美でもなく──ただの現実の確認だった。
ハジの膝が崩れ落ちる。
手で顔を覆うが、手は震え、唇がかすかに動く。
「……なあ、ポトフ……俺……何をしたんだ……?」
静かすぎる胃袋の内側。
かつては賑やかだった“食材人格”たちの声は、いまやほとんど聞こえない。
しばらくの沈黙の後、ようやくポトフが答えた。
その声は、胃液の底からすくい上げるように、重かった。
「……ハジ……あんた……命そのものを……料理してしまったス……」
それは、もう“食”ではなかった。
ただの暴食。選択なき、選定なき、消費だった。
ハジは、胃の奥で何かが泣いているのを感じた。
それは誰の涙かもわからない。モンスターたちか、自分か。あるいは──世界そのものか。
クレーターに、風が吹いた。
その音は、まるで誰かの祈りの余韻のようだった。
──“満腹神”と呼ばれ始める
──それは、静かに、だが確実に“信仰”へと変わり始めていた。
クレーターの縁に、白い影が現れる。
風にひるがえる長いコート。整然とした足取り。
料理人ギルド《供膳者》の者たちだった。
その中心にいたのは──
小柄な少女。銀の髪。目を閉じたまま、だが誰よりも“味”を視ている者。
ミルミ。
彼女は無言のまま、クレーターの縁にしゃがみ、そっと土を指先ですくい、鼻先に運ぶ。
「……咀嚼の器、膨張の兆し。
ついに……“満腹神”が目覚めたのですね。」
その声には、恐れも、戸惑いもなかった。
あるのはただ、“確認”の響き。
周囲にざわめきが広がる。
集まってきたのは……信徒たちだった。
かつてのモンスター村の住人たちの一部。
あるいは《供膳者》に心を捧げた異形の者たち。
彼らは、静かに地にひれ伏し、口々に呟く。
「……どうか我らを、無限の胃袋へ……」
「“胃神様”の器に、我が肉を……」
「この身、供物として捧げます……!」
その光景は、まるで──聖餐式。
だが、その“聖なる食事”の対象は、彼ではなかった。
彼そのものが、聖餐そのものとされていた。
ハジは、ただ震えた。
背筋に、凍えるほどの悪寒が走る。
「やめろ……ふざけんなよ……」
一歩、二歩と後ずさる。
だが、崩れた地面に足が取られ、膝をついた。
信徒たちは止まらない。
むしろ、その弱々しい姿にこそ、何かを見出していた。
──神の苦悩。
──胃神の空腹。
──それすら“ありがたい”と。
「違う……違うんだ……!」
ハジは、胃袋に手を当てて叫んだ。
「俺は……そんな神様になりたかったわけじゃねぇ!!」
叫びは、虚空に吸い込まれる。
クレーターの中、風が通り抜けた。
その風の先で、ミルミはただ、静かに立ち尽くしていた。
閉じた瞼の奥で、彼女は何を“味わって”いたのか。
──神となったのは、願いではない。
ただ、食欲の果てに在った空白だった。
──“飢えの輪廻”へ
夕焼けが、血のように空を染めていた。
燃えるような赤が、地平線まで溶け広がり、崩れた村の残骸すら金色に包み込んでいく。
その中を、一つの影がよろめきながら歩いていた。
ハジだった。
服は焦げ、胃袋はまだ膨れたまま。
満腹のはずなのに、なぜか、胃の底に**“飢え”**が残っていた。
──もう、戻れねぇな。
誰にともなく、心の中でつぶやいた。
自分の意思とは関係なく、命を呑み込んだ。
神だと崇められた。
そのどれもが、**「腹減ってただけの男」**には過ぎた話だった。
それでも、足は止まらない。
逃げているのか、彷徨っているのか、
それすらも分からないまま──
その背中を、丘の上から見つめる小さな影があった。
ミルミ。
供膳者ギルドの《味の祈導者》。
銀髪の少女シェフは、閉じたままの瞼の奥で、“あの味”を反芻していた。
そして、誰にも聞かれぬように、小さく呟いた。
「……飢えは罪ではない。
けれど、それが“世界を喰らう”日が来るのなら──」
「私たち《供膳者》は、その最期の皿を……美しく飾る義務がある」
その言葉は、祈りではなかった。
それは、覚悟だった。
世界の終わりが“ひとつの胃袋”に収束する未来を見据えて、
彼女はただ、静かにその料理人として立っていた。
空が、深紅から夜へと移り変わる。
飢えと満腹の狭間で揺れる神と、その供膳者の物語は──
まだ、始まったばかりだった。