第1話「燃費、最悪の転生」
──カツ丼って、なんでこんなに幸せな匂いがするんだろうな。
真夏の陽射しが照りつける地上十二階の建設現場、その片隅。
赤いヘルメットを外し、弁当袋をがさごそと漁る男がひとり。
42歳独身、趣味なし、彼女歴ゼロ。名前はハジ。
「ふふふ……昨日の晩、スーパーで半額だったんだぞ。これを買うために他の飯全部我慢したんだからな」
自慢げに広げたのは、ラップにぐるぐる巻かれたスーパーのカツ丼弁当。
見よこの黄金の衣。肉厚の豚カツに、染み込む甘じょっぱいタレ。
上に乗った半熟気味の卵が、ぷるんと揺れている。
「いただきま──」
その瞬間だった。
ブワァッと風が吹いた。
次の瞬間、ぺらっと浮き上がったフタが、ハジの手からするりと抜け──
「──あ」
重力に逆らえず、とんっと軽やかに着地したフタ。
その拍子に、カツ丼弁当本体がぷるん、と跳ねる。
「──やめろ……っ」
祈るような気持ちで、両手を伸ばす。だが遅い。
ぽとり。
ご飯が、落ちた。
白米が、茶色いカツが、そしてそれを覆う黄金の卵が、
地面に落ちた。
ハジの心も一緒に落ちた。
「……このために朝からがんばったのに」
(※注:買っただけである)
呆然とその“事故現場”を見つめる彼の目に、乾いた砂埃がしみた。
無意識のうちに片足を踏み出す。
「ああああ……まだいける、五秒ルール……ッ!」
その瞬間だった。
──キュルキュルキュル……
「……ん?」
背後から聞こえた、不穏なタイヤの軋む音。
ハジが振り返るより早く。
ドンッ!!!
白黒に染まる視界。
音が、風が、すべてがフェードアウトしていく。
「……え? え、まさか、これで……?」
崩れる意識の中、彼はぼんやりと考えた。
──俺の最期、カツ丼一杯だったのかよォ……!
――そして、彼の人生は、カツ丼と共に幕を閉じた。
──真っ白だった。
上下左右、全部が白。
雪でも霧でもない、ただの“何もない白”。
「……んぐっ、ここどこだ?」
気がつけば、俺はふわふわと浮いていた。
地面の感触もなければ、空気の匂いもない。ただの無。
そして、突然。
ピッ──。
蛍光灯のスイッチ音のようなノイズが響いたかと思うと、
真上にLEDの天井照明が現れた。
ついでに、パイプ椅子とちゃぶ台が生えるように出現。
その上にはなぜかカップ焼きそばと割り箸とコンビニの麦茶。
「いや、なんでこの空間で焼きそば食う準備できてんだよ」
ツッコむ間もなく、
ぶらり、とその向かい側に男が現れた。
──薄毛。スウェット姿。鼻をほじっている。
まるで昼下がりのニートそのもの。
「おー、来た来た。ようこそー、はい異世界転生ね。えーっと、オマエなんだっけ……ハジ?」
「いや待て! お前誰だ!? 俺、死んだのか?」
男──いや**神(仮)**は、ポケットからスマホを取り出した。
「うん、死んだ死んだ。ぺしゃんこ。キレ〜にいったよ、見てみ?」
ピッと再生されたのは──
建設現場でカツ丼を拾おうとして、トラックに轢かれる自分の映像だった。
「どこの監視カメラだよこれ!? ていうかお前どんだけ仕事雑なんだよ!」
「まぁまぁ、細かいことは気にすんなって。
あー、で? 転生するよな? うん、はい決定〜〜〜!」
「いや、俺の意志は!? せめてもうちょい説明──」
「うるせえなあ。ほら、コレあげるからさ」
そう言って、神はテーブルの隅に置かれた“なにか”を指差した。
そこには、フォークとナイフが絡み合った、無限マーク型のアイコン。
「おまけスキル、《万物捕食》! 説明? しねぇ!」
「しろよ!」
「まーだるいしさ〜……ぶっちゃけ、誰でもいいんだよね今回。
この世界、そろそろ胃袋空けたいって言われててさ〜」
「は?」
「えーっと、細かい設定は後でお前が勝手に気づくだろうし。
お前の胃袋には宇宙が入る。じゃ、楽しんで〜」
「おい待ておいッ! 胃袋ってなん──」
──ズドォンッ!
またしても何の前触れもなく、俺の体は下に落ち始めた。
神(仮)は、焼きそばをずるずる啜りながら、ぼそりと呟いた。
「……2時間ごとに食わないと死ぬから気をつけてな〜。じゃ〜ね〜〜〜」
「いやそれ一番大事な情報──ッ!!」
声は虚空に吸い込まれ、
俺の体は、光のトンネルを突き抜けて──
次の世界へと、強制ドロップされた。
《万物捕食》チート授与
光のトンネルを落ちる最中、ハジは悟った。
──異世界転生って、もっとこう……盛大じゃないのか?
神様が厳かに「選ばれし者よ……」とか言い出して、
天使が歌って、スキル選択タイムとかあって……
もっと夢があってもいいだろうがッ!
そして、その怒りのまっただ中でブレーキ音のようなノイズと共に時空が止まる。
「おっと忘れてた」
ぬるっと再登場したのは、あの神(仮)。
スウェットのまま、今度はアイス片手に。
「はい、おまけスキルあげる。《万物捕食》!」
神の指先がパチンと鳴ると、ハジの胸元に、無限ループ状のナイフとフォークが交差したアイコンが浮かび上がった。
「なにこれ……」
「説明? しねぇ!」
「しろよッッ!!」
「いや〜、マジで面倒でさ。お前、ほら、飯食いたいだけだろ?」
「……まぁ、それは否定しないけど」
「だろ? だから合ってんのよ。なんでも食える、なんでも吸収できる、最高の食事系スキル。
ただし……」
神はにやりと笑った。
「めっちゃ燃費悪いから。」
「……え?」
「具体的には、**2時間おきに食わないと、死にます。**てか、強制暴走モードでなんか周囲食い出すかも。
お前の意思とか関係なしに。うん、たぶん。気をつけて〜」
「気をつけてってレベルじゃねぇ!! おいコラちょっと待──」
しかし神は、すでに後ろを向いている。
「あー、あと胃袋の中、ちょっとだけ変だから。話しかけられても驚かないようにね〜
じゃ、楽しんで☆」
神の姿がゆらりと揺れ、煙のように消えていった。
「待てって!! 説明終わってねぇぞ!! 俺まだ異世界着いてもいねぇのに──」
初めての捕食はスライムカレー味
──ドスンッ。
緑の木々。温かい風。土と草の匂い。鳥のさえずり──
そこは、間違いなく“異世界”だった。
「……いてて。マジで落とされたし……」
森の中、ひとり地面に倒れたハジ。
ヘルメットも作業着もそのまま。
まるで現場からそのまま転送されたような格好だ。
「くそ……なんなんだよもう……あの神、絶対クレーム入れてやる……」
ぶつぶつ文句を言いながら立ち上がった、そのときだった。
「──ぷるん?」
目の前の茂みから、何かが飛び出した。
それは、透明なゼリーのような球体。
つやつやしてて、ぷるんとしてて──思ったより、かわいい。
「お、お前が噂のスライムってやつか?」
異世界あるある、その筆頭とも言えるモンスター。
ゲームや漫画では雑魚の代表格だが、現実に遭遇すると地味に怖い。
「やべ、武器ねぇ……いや待て、《万物捕食》って──」
脳裏に浮かぶ、あの神の顔。
「お前の胃袋には宇宙が入る。じゃ、楽しんで〜☆」
「……やってみるか」
とにかく腹は減っている。
足元のスライムは警戒心ゼロで、こちらを見上げている。
「すまん、ちょっとだけ味見させてもらうぞ……!」
勢いで手を伸ばし、スライムをわしづかみ。
ぐっっっちゃあああ……!!
──一瞬だった。
スライムの体が、ぬるりと指先に絡みつき、そのまま吸い込まれるようにハジの口の中へ。
「……ん!? これ──」
──カレー味!?!?
ぷるぷる、とろとろ、少しスパイシーな風味と、
ほんのり効いたコンソメベースの後味。まさにスライム・カレー。
「う、うま……っ! え、スライムって、こんな味すんの!?」
胃袋でスライムが喋る
ぷるん、とろり。
そして、ほんのりスパイシーな余韻──。
ハジは口の中に残るスライム・カレーの風味を舌で転がしていた。
「……まさか、あんなゼリーみたいなやつがここまでうまいとはな……」
異世界、恐るべし。
美味しさへの期待と、胃袋の満足感で思わずふっと笑った──
──その瞬間。
「やった〜!ついに食べてもらえたス!!ありがとうス〜!!」
「……ん? え?」
突然、お腹のあたりから陽気な声が鳴った。
「オレ、ポトフって名前ス! これからよろしくス〜!」
「……おい、待て。誰だ。誰がしゃべった。どこだ?」
あたりを見回す。森の中、誰もいない。
「どこだって聞いてんだよ!!」
「今あなたの胃の中ス!!」
「うおおおおおおおおお!?!?!?」
木霊する絶叫。
ハジは咄嗟に自分の腹を両手で抱えた。
そして、少し迷ってから──おそるおそる、話しかける。
「……おい。お前、ほんとに胃の中にいるのか?」
「スよ!完全に飲み込まれたスけど、ここ……なんかめっちゃ居心地いいス!
広いし、あったかいし、ほのかにカレーの匂いするし!」
「それお前の匂いだよ!!」
ハジは頭を抱えた。
異世界、来て数分でもう理解が追いつかない。
「ちょっと待て、ちょっと待て。お前、食われたんだぞ? なんで生きてんだよ」
「たぶんスキル《万物捕食》の効果スね!意識だけ保ったまま、融合されてるって感じス!
オレ、新しい形で生まれ変わったんスよ!ありがとス、胃の神さま!」
「いや俺はただ腹減ってただけなんだが……」
しかも、こいつやたら陽気だ。
食われた自覚、あるのか?
あるのに感謝してるのか?
てか「胃の神さま」ってなんだ?
──どっと疲れが押し寄せてくる。
「……おれ、この世界、大丈夫か?」
ハジはうなだれながら、木にもたれて座り込んだ。
そのお腹の中では、
「ス〜♪ ス〜♪ オレ、消化されてる〜♪」
という不穏すぎる鼻歌が響き続けていた──。
「……ふう、うまかった……」
スライムをひと飲みして数分後。
ハジは木陰に座り込み、ようやく異世界の現実を噛み締めていた。
胃袋は満たされた。
味はカレー。
お腹の中からスライムのポトフが鼻歌を歌ってることを除けば、割と幸せな状況だ。
「よし、落ち着こう。冷静に考えれば、俺は今、異世界にいる。腹もふくれた。まずは安全な場所を探して──」
ぐぅぅぅぅぅぅ……
「……ん?」
ハジはお腹に手を当てる。
「……おかしいな。今、確かに食ったよな?」
ぐぅうぅぅぅぅぅぅぅぅ……
「……いや、ちょ、ちょっと待て!?」
先ほどとは比べ物にならないほど強烈な腹の虫が、内臓を直接揺さぶってくるような振動で唸った。
「おいおい、嘘だろ!? まだ10分も経ってねぇぞ!? スライム1体分、どこ行った!?」
思わず胃袋に向かって問いかける。
「おーいポトフ、俺の中で何してんだよ!? ちゃんと栄養になってんのか!?」
「オレ、今……ほぼガスになって出てったス!
うまく分解されすぎたス!」
「もう消えたのかよ!? お前、速攻だったな!?」
体がガクッと揺れる。
足に力が入らない。
「……あれ、なんか目が……」
世界が、ふわっと白くかすむ。
「ちょ、力が……出な……」
──バタン。
ハジはその場にきれいに倒れ込んだ。
足も、手も、鉛のように重い。
体温がスッと抜けていく感覚。
冷や汗が止まらない。
「これ……もしや、空腹による……システムエラー……?」
「あ、それ多分《万物捕食》の燃費スね〜!
2時間で飢餓死、って言ってたス!神が!」
「うおおおおおおい!!」
叫ぶ体力もない。
──ハジはようやく気づいた。
これは、ただの「チート」なんかじゃない。
放っておくと死ぬ、胃袋ブラックホール系スキルだったのだ。
森の中、倒れ伏す作業着の男の腹から、のんきなスライムの声が響いていた。
「さーて、次は何食べるス? ねえねえ、あの木、ちょっと美味しそうスよ!」
──この先、彼の“捕食人生”は、空腹との終わりなき戦いになることを、
このときのハジはまだ、知らない。