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悪魔公爵の華麗なる求婚

「キミと結婚できるのは、ボクしかいないと思うんだ」

突然の事故で両親を亡くし、母方の祖父へと引き取られることになったパトリシア。ある日数年ぶりに再会した幼馴染から求婚されてしまう!! 驚く中祖父へ相談するとその様子がおかしくなり――?


TRPGを作ろうって考えていたら出来上がったシナリオの前日譚です。

ゲームより先にこっちに投稿する話のほうが先に出来そう。



「キミと結婚できるのは、ボクしかいないと思うんだ」


 そう言ってにっこりと音がしそうなほど綺麗に微笑んだ男を、私はまじまじと見つめた。

 磨き上げられた黒瑪瑙のような艶やかな髪、磨き上げられた宝石のように輝く琥珀の瞳。細身ながら引き締まった均整の取れた体にスラリとした高身長。

 巷で人気の恋物語から飛び出してきたような、誰もを虜にする美しさをもった青年の名はルシフェル・B・クロムウェル。

 王太子殿下の従兄弟であり、次期筆頭公爵の席を約束されているだけでなく、最年少で近衛騎士団の副団長に上り詰めた実力者。

 田舎まで噂が聞こえてくるほど、老若男女問わず話題の貴公子だ。

 彼の母親が長期静養のためにエジャートン伯爵領を訪れていた際、ほぼ毎日一緒に遊んだ二つ上の幼なじみだ。彼は十二歳で王都の学園へ入学したため、こうやって面と向かって会うのは実に六年ぶりだ。学園に行ったばかりの数年間は手紙のやり取りをしていたが、私が寄宿学校へ入る頃には途絶えてしまった。

 六年ぶりに会うというのに、顔を合わせた瞬間に言われるのが挨拶ではないことに思わず自分の耳を疑った。

 この男はいま何と言っただろうか? 思わず首を傾げそうになるのを堪えながら、淑女らしく微笑んで挨拶を返す。


「……お久しぶりです、クロムウェル公子」

「昔みたいに気軽に呼んでくれていいよ、トリシャ」


 そう言って彼は淑女らしく挨拶した私を奇妙な物を見る目でマジマジと見つめ、もう一度にっこりと人の好い笑みを浮かべる。

 人離れした美貌の持ち主なのに、老若男女問わず人気がある理由が良くわかる笑みだ。昔みたいに呼んでくれと言いながら盛大に猫を被っているのはなぜなんだろうか。

 笑みはすぐに消えて、切なげな表情を浮かべる。


「ご両親の件は残念だった。すぐ駆けつけられたら良かったんだけど、こんなに時間が経ってしまってすまない」

「貴方が謝ることではないわ。貴方のご両親にはもう十分にお世話になったし、それに、いつこうなってもおかしくはない状況だったから……」

「一人で背負い過ぎだよ、トリシャ。真面目なところはキミの美点ではあるけれどね、周りにもう少し甘えたらいいと思うよ?」


 真面目で隙がなさすぎて可愛げがないとはよく言われる。思わずむっとしそうになるのを何とか堪える。淑女とは簡単に動揺してはいけないのだと、学校で厳しく指導されたのだ。


「話は戻るけれど、どう?」

「えっと……どう、とは? ルシフェル……貴方、さっき自分が何を言ったのか分かっていて?」

「勿論」

「……もしかして、私に求婚しているの?」


 私の問いかけにルシフェルは目を細めると、ゆったりと長い足を組んだ。


「もしかしなくても、そうだよ。あ、いまのは正式な申込ではなくて提案ね? 正式な求婚は来週辺りに王城である夜会で女王陛下の庭園を貸し切って盛大にするから楽しみにしていて」


 女王陛下の庭園といえば、名前の通り陛下主催のお茶会でしか使用されない庭だ。他国の珍しい薔薇に加え、彼女のために品種改良したた薔薇や蘭が咲いていると噂だ。

 溺愛されている甥の彼ならば、貸し切るのも容易いのだろう。

 恐れ多すぎて体が震えた。危うくカップから紅茶を零しそうになるのを何とか堪えた。


「……る、ルシフェル? エジャートン家は爵位を返上し、領地を王家にお返しすることになりました。私がクロムウェル公爵家に嫁いでも、利益はないし、得るものは無いの。結婚する意味がないわ」


 婚約するのならばいまだ婚約者のいない王女と結ばれるべきだ。友人たちとの文通で得た噂によれば、三つ下の王女様との婚約を打診されていると聞いている。


「ああ、その心配はないよ。陛下に伺ったら、領地も爵位も僕とキミの間に子供が出来たら叙爵してくれるそうだし、そもそも叙位出来るのが男子のみというのも今時おかしい話だと思わないかい? そのあたりの法も見直してくれるそうだよ」

「……私、耳がおかしくなってしまったのかしら?」

「おや、可愛い子熊ちゃん。疲れてしまったのかい?」


 鼻で笑いながら、意地の悪い笑みをルシフェルは浮かべた。

 久々に聞いたあだ名だった。幼少の頃令嬢にしては随分と肉付きの良かった私に付けられたあだ名だ。相変わらず人を馬鹿にしている態度に思わずむっとする。

 彼は昔からそうなのだ。

 私のことを苛めるためならば、どんな手も使う人だ。


「疲れていないわ。ありがとう、ルシフェル……でも、あなた、王女殿下と婚約するのではないの?」

「キミは根も葉もない噂を信じるのかい? 少し考えればわかることだが、二代にわたって王女が降嫁するなんて元老院が許さないよ。なにより、僕は従妹殿のことは好きじゃない」

「そ、そうなの? 田舎娘の私にまで噂が聞こえてきていてよ?」

「キミの友人におしゃべりな雀がいるようだねぇ」


 そう言って笑みを浮かべるが、目は笑っていない。

 いつもは穏やかな色を称えている琥珀色の瞳が、獰猛な獣のような光を帯びる。

 ジワジワと退路が塞がれて、なんだか狩りの獲物になったような気分だ。緊張で口の中が異様に乾いていくのが分かった。

 紅茶を一口飲みながら、この現実から逃避できないか昔に思いを馳せる。

 ルシフェルと出会ったのは確か五歳の頃だ。本当に同い年かと疑ってしまうほど頭がよく、私と双子の弟は振り回されてばかりで、彼の起こした悪事をなすりつけられて叱られたこともある。弟が将来の地位も名声も家名も捨て、神学校を卒業するとともに俗世を離れて神に仕えることを決意したのは、大体ルシフェルのせいだと思っている。

 こんなときに弟がいれば、エジャートン家は無事だったかもしれないと思う自分が情けない。


「ルシフェル。私はもうエジャートン家の娘ではなくなったの。母方の祖父……ブラックリー侯爵家に引き取られたのは知っているわよね?」

「勿論。キミの母君と縁を切っていたはずの侯爵家が、まさか首を突っ込んでくるとは思わなかったな」

「……そんなことを言わないで。何もわからない私の代わりに色々と手続きをしてくださったのよ?」

「そうなのかい? あまりにも、侯爵に有利な内容過ぎて、エジャートン家の執事が然るべき対応をしてキミが自由にできる資産を残したと聞いているけどね?」

「え? そうなの?」


 思わず聞き返した瞬間、ルシフェルの表情が一瞬消えた。それからにっこりと音がつきそうな笑みを浮かべる。

 これは明らかに怒っているときの顔だ。


「トリシャ。キミのお母様から口酸っぱく言われなかったかい? 身内だからといって簡単に信じてはいけない、と。そうだ、あれはキミが七歳の時だったね。キミのお母様の弟だと騙る人物に攫われそうになったことを覚えているかい? あの時、どうしてついて行ったのか聞いたとき、キミは僕に言ったね『あの叔父さんは優しくていい人! 飴をくれたもの』って」

「……よく覚えているわね」

「キミは僕があげる飴は嫌がって貰おうとはしてくれなかったのに」

「それは貴方が良い物をあげると言って、私にカエルを握らせてきた事があるからでしょう!」

「幼い僕の目に、あのカエルはキミの瞳のように綺麗な宝石に思えたんだ。見せたらキミが喜ぶんじゃないかと思ったんだよ」


 ああいえばこういう。よく回る舌のせいで、なんど嫌がった私が悪いのだと言われたことか。会わなかった三年のうちにまた随分口が達者になっている気がする。


「ウォルターをうちに引き抜いてよかったよ。キミが必要ならば、侯爵家に雇ってもらおうか?」

「いいえ。ウォルターは仕事が好きですし、貴方の役に立っているのならそのままにしてあげてくださいな」


 ウォルターはエジャートン家に長年仕えていた壮年の執事だ。

 両親が亡くなってから、数ヶ月だけだが領地経営を教えてくれた優秀な先生だ。

 最後まで私に付いて来てくれると言ったが、お祖父さまが嫌がり仕方なく新しい雇用先を探そうとした際に、クロムウェル家が使用人の大半を受け入れると申し出てくれたのだ。


「とにかく、お祖父さまには引き取っていただいた恩とエジャートン領の抱えた負債の肩代わりもしていただいたの。その恩に報いるためにも、結婚するのならばお祖父さまが整えてくださった縁談を受けるべきだと考えているわ」

「ブラックリー侯爵が、整えた縁談?」

「え、ええ。詳しい話はまだ聞いていないけれど、花嫁学校は卒業した貴族の子女として務めを果たさないと……」

「その縁談より、僕との縁談が”恩に報いれる”と思ったら、僕と結婚してくれる?」

「それは……」


 正直なところ、見知らぬ人の所に嫁ぐよりはルシフェルのところに嫁ぎたい気持ちはある。幼なじみで、気心が知れた仲である。

 からかわれはするが、暴力を振るわれたことはなく、家族のようなものだ。見知らぬ人に嫁ぐ不安は無い。


「……キミを困らせたいわけじゃないんだ。今日の所は失礼するよ」


 ルシフェルは服の裾を払い、優雅に立ち上がる。

 見送るために慌てて立ち上がり、渡すものがあったことを思い出す。


「ルシフェル、貴方に渡したいものがあるの」

「僕に?」

「ええ。遅くなったけれど卒業祝いに……落ち着いたら手紙を出そうと思ってたんだけど、タイミングがなくて渡せなかったの」


 卒業してすぐに近衛騎士団へと入団し、帝都で忙しい日々を過ごしていたルシフェルに渡せないままだったハンカチを取り出す。

 剣と薔薇を刺した絹のハンカチだ。近衛騎士をイメージした剣と薔薇はクロムウェル家の紋章だ。

 薔薇は花びらの数が決まっているのだと、花嫁学校に入る前にルシフェルの母親から手ほどきしてもらったのを思い出しながら刺した。


「薔薇は貴方の瞳の色を参考にしてみたの! ちょうど、貴方のお母様に刺繍糸をいただいて勿体なくて使えていなかったのだけれど、貴方の卒業祝いに渡すのなら使うしかないなと思って!」

「これを僕に?」


 差し出したハンカチを受取り、ルシフェルは何度も目を瞬かせながら見つめる。

 彼にこうやってハンカチを渡すのは二度目だ。あの頃よりも随分とうまくなったと自覚がある。


「刺繍のハンカチなんて貴方は貰いすぎているでしょうけど、いくつあっても困らないでしょうし、使ってもらえると嬉しいわ」

「…………ありがとう。すごく、嬉しいよ」


 ゆっくりと伸びてきた手が私の髪を掬いあげた。

 指先を追い視線を上げれば、熱を持った琥珀色の瞳と目が合う。


「近いうちにまた、“然るべき対応”を取ってキミに結婚を申し込むよ」


 小さな音を立てて髪に唇を落とされ、不覚にもドキッとしてしまった。

 いつの間にそんな仕草を覚えたのか。さすがは、国でも随一の花形、近衛騎士団の一員である。

 舞台俳優も真っ青な気障っぷりだ。

 驚きすぎて颯爽と去っていく背中を、見送ることしかできなかった。


「お嬢様」

「は、はい!」


 ぼーっと立っていれば、いつの間にか家令のシモンが立っていた。短く刈った金色の髪の30半ばほどの年若い家令に思わず身構えてしまう。祖父の意向なのか、この家の使用人は若い人が多い。

 年嵩の使用人しか雇っていなかったエジャートン家との違いにいまだに戸惑ってしまう。未婚である自分の近くに同年代や少し上の男性がいるのはひどく緊張する。

 私が男性に慣れて無さすぎるのもあるが。

 

「旦那様がお呼びです。本館へお願いいたします」

「わかりました。今から向かいます」


 私の言葉にシモンは一礼すると、部屋を出ていった。

 少しだけ間を置いて、私も部屋を出る。

 時折すれ違う使用人たちから視線を向けられているのがわかる。男性からは舐めるような、女性たちからは忌々しいものを見るような。

 ブラックリー侯爵邸の空気は、なんだかおかしい。言葉にできない感覚に、緊張で体が強張るのがわかった。

 祖父の私室は邸の奥まった場所に位置している。深い霧に覆われることの多いこの帝都では、もう少し日当たりの良い部屋が好まれているのにあえて日当たりの悪い部屋を私室に選ぶのは不思議なことだ。


「失礼いたします、お祖父さま」

「おお。よく来たな、パトリシア」


 室内に踏み入ると、眼前に飛び込んでくるのは大きな絵画だ。

 描かれているのは一人の女性。初めて見たときは鏡に写った自分かと思い一瞬驚いた。

 まるで太陽を紡いだような金糸の髪、冬の湖のように深い群青の瞳。母が幼い頃に亡くなったという祖母の絵だ。

 髪と目の色は母とそっくりだが、勇ましい面立ちと性格は祖父譲りだったのだろう。生前の母を思い出し、胸が痛くなる。


「パトリシア。来客があったそうだね」

「は、はい。クロムウェル公爵子息様が訪ねていらっしゃいました……てっきり、お祖父さまにお会いになるのかと思っておりました」


 祖父の言葉に我に返る。視線を落とせば、絵を見上げる車椅子の背中が目に写った。

 どこからともなく現れたシモンが、ゆっくりと車椅子を押す。

 窓から差し込む微かな光の下に祖父が現れる。口元に笑みを浮かべているが、薄いグレーの瞳は刃のように剣呑だ。

 若い頃は高位貴族には珍しく国境防衛騎士団所属で最前線に立つほど強かったと聞く。車椅子に座っているのに身長が高いことが分かる。怪我と病気で軍を引退してからは長いというが、同年代の人よりも随分としっかり背筋が伸びている。


「幼馴染の好で会いたいと言われてな……女王陛下やクロムウェル公爵夫人もお前を気にかけていると言われてしまえば、断ることもできなかった」

「陛下からもお見舞いの手紙とお悔やみの贈り物で菓子をいただきました。お礼のお手紙は私が書いてもよろしいでしょうか?」

「……そうか。陛下へは儂から手紙を書こう」

「では、御礼の品を……」

「それも儂が選んでおく」

「わ、かりました。お任せいたします、お祖父さま」


 言葉を飲み込んで一礼した私に、お祖父さまは満足したように一つ頷いてみせた。


「あの小僧は、パトリシアにただ会いに来たわけではないようだな」

「え? あ、その……」

「こちらへおいで、パトリシア」


 祖父に促され、ソファへと腰掛ける。すかさず、シモンがお茶を淹れてくれたが口をつけるきは起きなかった。

 求婚された、と言っていいものか悩んだ。あれは、もしかしたら私の今の状況を憂いて言っているだけに過ぎない。

 あの、ルシフェルが私のことを好いているのかは甚だ疑問だ。恋人になってほしいとか、将来は結婚してくれだとか、幼い頃に言われた覚えは一切ない。


「求婚でもされたのか?」

「い、いえ、あれは、幼馴染の好で今の私の境遇を心配して申し出てくれたに過ぎないと思います」

「そうか……」


 私の応えに祖父は何か考えるように視線を上に向けると、ゆっくりと口ひげを扱いた。

それから、なにか探るような目を向けてくる。


「あの男は父親と同じ黒髪だったな……瞳は母方譲りの金瞳か……」

「そう、ですわね……」


 クロムウェル公爵夫人は女王陛下の妹だが、王族に多い金目ではなく王太后譲りの淡い水色の瞳だ。

 白に近い金色の髪と合わさると儚げな雰囲気が増し、昔は妖精に例えられていたそうだ。いまでも、四十歳とは思えないほど若々しい。


「あの男とは、駄目だ」

「お祖父さま?」

「軟弱な近衛騎士などにお前を任せられん。あの血も涙もない、クロムウェルの孫となれば尚更だっ!」


 ダンッ、と音と立ててお祖父さまは肘掛けを強く叩いた。どこか血走った強い目に睨みつけられる。心臓が凍ったように冷たい。

 ソファに座っているのに、くらりと目眩がした。


「わ、私は、お祖父さまがご用意してくださった縁談に従います。ですから、どうか、彼を貶しめるようなことは言わないでください」

「ああ……すまない、パトリシア。怖がらせてしまったか……」


 慌てて伸ばされた祖父の手が私の手を握った。思わず振り払いそうになるのを堪える。

 何故か、体の震えが止まらない。


「すまない、パトリシア。お前はアリシアに似てとても怖がりだったね」

「いえ、私は……」

「お前のことは儂が守るからなにも怖がらなくていい。良きようにするから、安心しなさい」


 そう言ってお祖父さまは私の手を優しく叩いた。

 言葉も仕草も優しいのに、見つめてくる瞳は私を見ていないように感じてしまう。

 ずっとだ。この邸に来て、ずっとそうだ。


◆◆◆◆◆


 あっという間に日が暮れ、寝支度を整えて部屋のベッドに腰を下ろした。

 母が少女時代に使っていたという部屋は落ち着いた色合いの家具でまとめられていた。気の強い性格からは想像できないほど可愛らしい水色にレースとフリルで整えられた寝具。初めてこの部屋に通されたときは少し笑ってしまった。


「……ふう、今日はなんだか色々あったわね」


 大きく息を吐いた瞬間、どっと体が重くなったように感じる。

 ベッドに横になり、シーツに広がった髪の波に頬を擦り寄せた瞬間、毛先に口付けられた記憶が蘇る。

 衝動的に跳ね起きて、思わず触れられた髪の毛を握りしめた。くすんだ麦藁色の髪は亡き父譲りの色で、母譲りの鮮やかな金色の髪を持つ弟をどれほど羨んだことか。

 ずっと、残念に思っていた髪をまるで宝石に触れるように大切にしてくれたのが嬉しい。

 本当に彼は、幼馴染の好で求婚してくれたのではないのかもしれない。そんな淡い希望をいだいてしまって、心臓が激しい音を立てる。

 期待してはダメよ、パトリシア。

 私は侯爵家のために生きると決めたじゃない。

 自分に言い聞かせていると、部屋の外に誰かの気配を感じた。もう寝支度は済んでいて、こんな時間にこの部屋に近づいてくるメイドはいない。

 少し力強いノックの音に、驚きで肩が跳ねた。


「……はい?」

「夜分にすまない、パトリシア」

「お祖父さま?」


 扉越しの声に慌ててドアノブに手をかけた。けれど、誰かに引き止められるように鍵を開ける事ができない。

 おかしい。頭の中で警鐘が鳴り響く。


「こんな時間にどうなさったのです?」

「……パトリシア、扉を開けておくれ」

「どうしたのです? お祖父さ、ま……」


 開けてはいけないと頭の中は告げてくるのに、お祖父さまの言葉に促されるまま私の指は鍵を開けた。

 そっと扉を開けて外の様子を伺って、私は悲鳴を飲み込んだ。

 扉の外に立っていたのは、お祖父さまだけではなかった。シモンを始めとした、年若い金髪の男たちが数人立っている。

 顔に見覚えがあるため、おそらく邸の使用人だろう。


「ああ、いい子だね、パトリシア」

「お祖父さま……こんな夜分に、どうされたのですか?」


 邸内で何か事件でも起きたのかと焦ったが、使用人たちの浮かべる表情に緊張感はない。

 私を値踏みするような視線に思わず扉を閉めようとしたのを、すかさずシモンが反対に扉を開いてしまう。

 穏やかな表情を浮かべたお祖父さまと目が合う。

 思わず息を呑んだ私にお祖父さまは促すように男たちを指さした。


「好きな男を選びなさい」

「……え?」


 何を言われたのか、理解できなかった。突然、目の前にいる祖父が知らない人になったような錯覚に陥る。


「きっと、お前が産んだ金髪の子はアリシアになる。私はもう一度、アリシアを愛したいんだ」

「何を仰っているんです?」

「アリシアは言っていた。もう一度、儂と巡り会ってくれると……だから、パトリシア。今度こそ、アリシアを産んでくれ」

 

 声を荒らげることなく、訥々と祖父は言う。

 何故、金髪の使用人が多いのか。

 何故、お母様はこの家を出てお父様と駆け落ちしたのか。

 唐突に疑問が全て繋がっていくのがわかった。


「い、いやです……お祖父さま、目を覚ましてください。金髪の子が必ずお祖母さまになるなんて、誰が言ったんです? そんな奇跡あり得ません! お祖母さまだって、そんな風に自分を探して欲しいなんて思っていないはずだわ!」

「……アリシア」


 使用人たちの手が、私に迫る。男たちの影が大きく膨れ上がり、無数の手が私を掴んだ。

 恐怖で目の前が滲んだ。

 世界がゆっくりと動いていく。仰け反った私の体が、ゆっくりと寝台に落ちていく。

 脳裏に浮かぶのは、私を見つめる瞳。

 琥珀色の、綺麗な、瞳。大好きだった、猫と同じ色の瞳。


「る、ルシ……」

「逃げろ、パトリシア!!」


 お祖父さまの叫ぶ声が聞こえた瞬間、目の前が暗く染まった。


 こちらにすがるような瞳が、悲しげな笑みを浮かべるアリシアの姿と重なった。

 ユーウェイン・ブラックリーはブラックリー侯爵家次男に生まれた。家督を次ぐ必要がなかったため悠々自適な生活を送るのも難しくない立場ではあったが、剣を振り回す才能に恵まれた。その才をぜひ生かさねばという周りの声に抗えず、高位貴族出身だというのに国境の最前線に立つようになったのは十五の頃だった。

 いつか自分は戦場で死ぬのだろう。そう思いながら生きていた自分に転機が訪れたのは二十歳の頃だった。二つ上の兄が事故で死んだ。

 典型的な王都の貴族の嫡男だった兄は、金に糸目をつけない性格で酒も女遊びも激しく不幸にも酔っ払って足を滑らせて死んだ。

 なんとも情けない死に方に身内ながら呆れてしまい悲しみなど抱かなかった。

 亡くなった兄の代わりに爵位を継ぐことになり、彼の婚約者とも新たに婚約を結ぶことになった。

 それが、アリシアだった。

 金色の髪に、群青色の瞳。線の細い体に流行りのドレスを着た姿は、無骨な男など嫌いそうな典型的な貴族子女だった。


「自分のような剣だけの男に嫁ぐことになり、大変申し訳無い」

「まぁ。国のために戦う貴方の名は聞き及んでおります。申し訳ないなどど、むしろ、しがない子爵家の娘が嫁ぐことになり申し訳ないですわ」


 そう言ってアリシアは困ったような笑みを浮かべる。

 その笑みがあまりにも綺麗で、儚げで、自分が守らなければと思ったのが懐かしい。

 自分が剣を振るうことを許してくれ、遠征中に愛人でも出来ていておかしくないと思っていたのにアリシアには一向にその気配はなかった。帰るたびに怪我はないのかと心配され、大怪我をしたという誤情報を聞いた際には倒れたと後で聞いて驚いた。

 帰ってからすぐに見舞ったら、生きていたことを驚かれ、自分をおいて逝かないでほしいと泣かれてしまった。

 自分の中で、彼女が特別になっていくのが分かった。

 国境では小競り合いが続き、相変わらず剣だけを振るうだけだった自分の戦い方が変わったのはこの頃だ。

 死というものが明確に恐ろしくなった。


「すまない、アリシア。また、遠征になってしまった」

「仕方ありませんわ、ユーウェイン。それだけ、皆様が貴方の力を必要としているということでしょう?」

「すぐに、帰ってくるよ。生まれるときに、立ち会えればいいんだが……」

「ふふ。わたくしの事は心配しないで」


 アリシアは静かに微笑んでいた。

 隣国との戦は長引き、第一子を設けるまでに随分と時間がかかってしまった。

 初めての妊娠である彼女の側にいる時間を、と望むことは許されなかった。

 遠征から戻ると玉のような女の子が生まれていて、アリシアの希望でクラリスと名付けた。

 髪も目の色もアリシアと同じで随分とホッとしたのを覚えている。しかし、周りからは顔立ちは自分に似ていると散々言われて不安になった。自分のように剣を振り回すような子女にはなってほしくないものだ。

 アリシアは産後の肥立ちが悪く、それから多くの日々をベッドで過ごすことになった。

 男児を産めないことをひどく気にしていたが、アリシアとクラリスがいればそれで良かった。


「……アリシア」

「わたくしの事は気にせず。貴方のことを必要としている方々のために手を尽くしてくださいませ」

「俺がいなくても、今回の戦は終わる」

「でも、貴方がいれば戦も早く終わって犠牲も少なく済むのでしょう?」


 そう言って送り出したアリシアの手が震えていたのを覚えている。

 嫌な予感というものは当たるものだった。

 戦は長引き、膠着状態が続き、どちらも攻めあぐねていた。

 アリシアが危篤だという報せが届いた。

 早く彼女のもとへ帰りたい、しかし、戦場がそれを許してはくれなかった。

 その時、自分の中にこれほど大きな感情があるとは思いもしなかった。吹き出した怒りが炎のように燃え上がり、その感情のまま敵陣へと切り込んだ。

 敵の砦を落としただけでなく、近隣の農地や森に火を放った自分の容赦の無さに敵からも、味方からも鬼神と恐れられることになった。

 無我夢中で戦を終わらせて、駆けつけたときにはアリシアの命は風前の灯火だった。

 ホコリまみれで寝台の横にたった自分を見上げて、彼女はいつものように微笑んでくれた。


「貴方の妻でいられてよかった……でも、叶うならば……来世はもっとわたくしの側にいてください」


 彼女が自分に残した言葉だった。

 もっと、側にいられたら。

 剣など捨てて、侯爵としての仕事を優先させていれば。

 自分の生きる意味がわからなくなった。


「ブラックリー卿、敵を恨みすぎるな……奥方の件、恨むのならばキミに頼りすぎた私達を恨め」

「貴方がたを恨んでも、妻は帰ってきません。私は、私はもう剣を振るうしかないのです」


 自分には剣しかない。

 剣を、振るうしかない。


「クラリス! あんな、軟弱な男との結婚など許さぬぞ!!」

「彼は弱い人じゃないわ! 心優しくて、剣を振るわない人にも強さがあると教えてくれたの!!」

「お前の相手は私が見つける」

「ひどいわ! お母様がいたら、きっと、私が認めた人だって喜んでくれたはずよ!」


 そう言ってクラリスは家を出た。

 駆け落ちし、どうやって女王陛下を説得したのかブラックリーとは縁を切ってしまった。

 妻も、娘も失った瞬間だった。

 死に場所を求めて、剣を振るう事しか考えられなかった。


「早く、来世でアリシアと会いたい」


 それが望みだった。


―本当に?


 誰かが耳元で囁いた。

 振り返ると、元気だった頃のアリシアが微笑んでいた。鮮やかな金色の髪、穏やかに細められた群青色の瞳、薔薇色の頬、珊瑚色の唇。出会った時の美しい彼女が目の前にいる。


―私は待っているわ。貴方にもう一度会えるのを


 囁いているのは本当にアリシアなんだろうか?

 アリシアに会う。もう一度、彼女に。

 私は彼女を探さなければいけない。

 もう一度、会うために。

 彼女に似た金髪の人間を探すようになった。探しても探しても、同じ金髪のアリシアはいない。

 探しても、探しても、見つからない。

 なら、産んでもらうしかない。

 けれど、彼女の髪色を受け継いだクラリスは死んでしまった。

 孫は出家し、俗世を離れた。孫娘は父親の色を受け継いで生まれてしまったが、顔はアリシアそっくりだった。

 ならば、金髪の男との間に子供が出来ればアリシアが生まれる。

 きっと、きっと、間違いなどない。

 本当にそうだろうか?

 戦場を離れてから、頭に霞がかったような日々が続いている。

 今生でもう一度彼女に会ってどうするのだろう。自分を心から愛してくれた彼女ではないのに。


「儂を……愛してくれ、アリシア……」

「愛しているわ、ユーウェイン」

「……アリシア」

「貴方が守ってくれると信じてる。だって、貴方は……」


 わたくしたちの英雄だもの。


「っ!?」


 頭の中を覆っていた靄が晴れるような感覚だった。

 視界に映るのは、数人の男たちに腕を掴まれるパトリシアだった。


「逃げろ、パトリシア!!」


 叫んだ瞬間、何かが弾けるような音が響き渡った。


「孫が産んだ子供が、テメェの嫁の魂持って生まれてくるとか夢みがちもいいところだ、神のヤローがそんな万能なわけねぇだろ」

「な、なんだ、こいつっ!」


 パトリシアの前に立っていた男が、一瞬で消えた。一拍置いて轟音が響き渡る。

 音の方へ視線を向ければ、男が壁に体を強く打ち付けられたのか、床に崩れ落ちていた。


「か弱い女一人囲むなんて、紳士の風上にも置けませんわよ」

 

 おどけたような口調でそう言った後に、轟音が二度続いた。

 あっという間にパトリシアを囲んでいた男たちの姿が消え、残されたのは少女一人だけだった。


「あーあ、情けねぇ奴らだなぁ」

「……お前は、なんだ?」

「あら、いやだわ、お祖父さま。パトリシアのことを忘れてしまったの?」

「お前は、誰だ?」


 ユーウェインは手を伸ばし、そっと隠し持っていた剣の柄へと指先をかけた。

 その反応にパトリシアはニヤリと不敵な笑みを浮かべる。乱れた髪の間から、覗いている瞳は鮮やかな緑ではなかった。

 煌々と輝く、獣のような金色の瞳。


「へぇ、察しがいいな。耄碌(もうろく)したかと思っていたが、勘は鈍っていないようだ。まぁ、今更正気に戻っても遅いけどなぁ」

「お前、パトリシアに何をっ」

「てめぇがそれを言うんじゃねぇよ」


 呆れたようにパトリシアは大きく息を吐くと、気だるげにユーウェインの前に立った。

 冷ややかな金色の瞳がユーウェインを見下ろしている。

 指先は剣の柄にかけたまま、引き抜くことは出来なかった。


「オレのことを斬らないのか? まぁ、斬れないよなぁ~この体はパトリシアなんだから」

「お前は、お前は、パトリシアを守っているのか?」

「さぁ、それはどうかな?」

「っ!!」


 パトリシアの喉元に切っ先が突きつけられる。

 しかし、意に返していないようにパトリシアはニヤリと笑った。


「てめぇは死んでも苦しんで貰おうと思ったが、気が変わった。せいぜい、パトリシアに許して貰うまで、絶望でもすればいいさ」

「なにを……っ!?」


 金色の瞳に浮かぶ瞳孔がまるで爬虫類のように縦長に変わる。

 ユーウェインはうめき声をあげると、力なく車椅子の上に崩れ落ちた。

 それを見届け、パトリシアは鼻を鳴らすと、空いた扉の向こうを見つめる。


「さて、大元をぶん殴ってやるか」


◆◆◆◆◆


 邸の暗い廊下を、シモンは走った。

 目の前で起きた理不尽な出来事に、呼吸もままならず、仮初の体を動かすことが出来ない。

 早く、早く、この体から離れなければ。


「なんで、なんで、なんでっ!」


 もう少しで手に入る所だった。

 届きかけた指は、無常にも払い落とされ、死より恐ろしい危機が足元に迫っている。

 手に届く場所にあんなにも美しい魂の持ち主が現れると思わなかった。

 あの魂を手に入れれば、自分はさらなる力を手に入れて、この狭苦しい邸で細々と老人から生気を吸わなくてもよくなる。

 そう望んでしまったのが行けなかったのか。


「っ!!」


 すがるように扉を開き、シモンは絵画へと走り寄った。

 月明かりに照らされた若き日のブラックリー侯爵夫人の絵は、柔らかな笑みを浮かべて迎え入れてくれる。

 安堵に息をついた瞬間だった。

 パチン、と金属の蓋を閉める乾いた音が部屋の中に響いた。


「随分と遅かったじゃないか。そろそろ、迎えに行こうかと思っていたんだ」


 全身が硬直し、思ったように動かせない。なんとか首を横へ向け、音のした方を視線に捉える。

 長椅子に誰かが座っていた。その後ろにも、気配を一切感じさせない誰かが立っている。

 まるで劇のスポットが当たるかのように、薄雲が晴れて窓から差し込んだ月明かりに照らされたのは二人の男だった。

 立ってるのは銀縁の丸メガネに燕尾服に身を包んだ老齢な執事。

 長椅子に腰掛けているのは、美しい男だった。

 鴉の濡羽色の髪、宝石のように輝く琥珀色の瞳。長身痩躯を包むのは、髪と同じ黒色の衣装だ。


「……る、ルシフェル・クロムウェル公爵っ!!」

「気配はすれど、どこに本体があるのか分からなくて困っていたんだ。やっと、姿を現してくれたんだね、嬉しいよ」


 甘く囁きながら、ルシフェルは微笑む。

 音もなくゆっくりと立ち上がり、まるで親しい友人に抱擁を求めるように軽く手を開いて見せた。春先だというのに肩に羽織る黒貂のマントは彼が立ち上がると優雅に翻り、鮮やかな血のように赤い裏地がまるで羽のように波打つ。

 その胸に飛び込みたいという欲求を抑えるように、シモンは体を身震いさせた。


「酷いじゃないか、キミの本体が絵だとは思わなかったよ。しかも、家人の一番大切な絵に姿を変えるだなんて! 相手は老いたとはいえ王国の英雄だ。手が出せなくて、部下たちはずいぶん歯痒い思いをしたよ」

「っ!!」


 近づいてくる男の腕から逃げるように、シモンは絵画へと手を伸ばした。

 もう少しで触れそうだった。これに触れられれば、自分は誰にも害されない。あわよくば、この世界から逃げることが出来る。

 ボッ、と小さな音を立てて指先から紫色の炎が燃え上がる。瞬く間に炎は全身を舐めるように燃え広がった。

 まるで、蛇のようにシモンの身体を這い回り、肉体の奥底、魂の裏側に隠れるように潜んでいたそれを一瞬で燃やした。

 絶叫は声にはならなかった。

 静寂の中、ただ、ただ、紫の炎が燃え上がるのを男たちは見ている。

 しばらくして、シモンの体が膝から崩れ落ちた。

 同時にこちらを見下ろしてた今は亡きアリシア・クロムウェルの肖像画も音もなく燃えて消えていく。灰も残さず、まるで泡沫のように空中で弾けた。

 偽りの笑みを浮かべる絵が消えるのを見届けて、ルシフェルは胸元から懐中時計を取り出した。


「No.156討伐完了。そうだな、《絵画の悪魔》とでも呼称しようか。教会に送ってくれ」

「承知いたしました、閣下」

「ああ、ウォルターは後処理しなくていいよ。おそらく、気を失っているだろうから、彼女の元へ行ってくれ」

「御意」


 執事――ウォルターは深々と腰を折ると、足速に部屋を出ていった。

 彼女のことが心配で仕方がなかったであろう。急ぐ彼の姿に思わず苦笑を浮かべながらルシフェルは暗闇に潜むように立っていた部下たちに指示すると、同じく部屋を出ていった。


◆◆◆◆◆


 瞼の裏を灼く白い光に、意識が浮上するのが分かった。自分が、柔らかなベッドの上に寝ていることに気づく。

 目を開けると、美しい花模様が描かれた天蓋が視界いっぱいに広がる。

 日は随分と高くまであがっているようだ。回らない思考のなかで、自分がいつの間に寝てしまったのか考える。

 そう、昨夜は、そうだ……私は襲われてっ!!


「……っ!!!」


 思わず跳ね起きて、辺りを見回すけれど夢を見ていたかのように何事もない。

 咄嗟に身体を抑えるけれど、どこにも痛みや傷などもなく、先程までの出来事が夢だったみたいだ。


「ゆめ、だったの?」

「お嬢様、目が覚めたのですね!」

「え? ジョアンナ??」


 紗幕が開き、飛び込んできたのは瞳をうるませた年嵩のメイドだった。

 ジョアンナはエジャートン家の元メイド長で、私がブラックリー家に引き取られた際にメイドの職を辞した。

 旦那である元庭師のトーマスと一緒にエジャートン領で生活しているはずなのに、白髪混じりの髪をきっちりと結いまとめメイド服をしっかりと着こなしている。


「どうして、貴女がここに? ここは、え? ここは、ブラックリー家よね?」

「勿論ですよ、お嬢様。ウォルターさんから連絡をもらって驚きましたわ」

「ウォルター?」


 どうしてウォルターの名前が出てくるのかわからなくて思わず首を傾げれば、ジョアンナは微笑むと私に両手を差し伸べてくる。


「詳しいお話はウォルター様がしてくれますよ。お着替えをして、何か食べられるものをご用意しましょう」

「え、ええ……」


 混乱するままジョアンナに促されてベッドから降りた。

 あっという間に着替えさせられ、用意された食事を摂る。濃いめのミルクティーに少し硬いスコーンはエジャートン家自慢の味がした。

 久しぶりに食べた味に思わず泣きそうになった。

 私が落ち着いた頃、静かに扉が叩かれて現れたのは背筋をピンと伸ばした壮年の紳士だった。

 執事服に身を包んだ見慣れた姿に思わずホッとする。

 

「ウォルター……」

「ご無事で何よりです、お嬢様」

「私、何が起きたのか曖昧で……その、昨夜の件なんだけど……」

「間一髪でございましたね。お嬢様が危ないところを、クロムウェル公子がお救いになられたのです」

「ルシフェルが?」

「はい。ブラックリー侯爵の心身の喪失の結果、一時的にクロムウェル公爵家が管理を委譲され、私が派遣されてまいりました。現在、雇用していた使用人たちの大部分を解雇し、人手が足りない状態となっており、お嬢様にはご不便をおかけいたします」

「待って、待ってちょうだい……お祖父さまは? ご無事なの?」

 

 突然の情報量に頭が追いつかない。ルシフェルが助けに来てくれたこと、使用人たちが解雇されたのも申し訳ないのだけれどホッとしている。

 

「現在、ブラックリー侯爵は心身を喪失しております」

「お会いできないの?」

「お会いしたいのですか?」

 

 ウォルターは器用に片眉を上げてみせた。あんなことをされたのに何を言っているのだ、と思っているのだろう。

 その気持は十分わかる。


「ウォルター、お祖父さまの所に連れて行って」

「……畏まりました」


 お祖父さまの部屋に入ると目の前に飛び込んできたのは、見たことのない絵画だった。

 おそらく二十代前半の祖父母と三歳くらいの女の子、三人が描かれた家族絵だった。柔らかな日差しの中、そっと寄り添いあい、穏やかな表情で画家の方を見ている。

 幼い頃の母と両親の絵だ。探しても見つけられなかった、家族で描かれた絵。 


「パトリシア……すまない、すまない……」

「!?」

 

 譫言(うわごと)のような呟きが聞こえ、声がした方を振り返って息を呑んだ。髪も顔も真っ白に染まったお祖父さまが、窓辺に置かれた車椅子にまるで置物のように座っていた。


「お祖父さま!」


 その瞳に光はなく、呼びかけているのに目が合わない。

 駆け寄って声をかけても、正常な反応が返ってこない。ただ、虚空を見つめて何度も私や祖母、母の名前を呟いては謝っている。

 

「お祖父さま……一体、何が?」

「我々が駆けつけた時にはもうこの状態でいらっしゃいました」

「お祖父さま……」


 そっと、枯れ枝のようになってしまった祖父の手に触れる。雪解け水に触れていたようなくらい冷たい手だ。力のない手に少しでも温もりが戻って欲しくて摩っていれば、そっと弱々しい力で握り返された。


「お祖父さま……お祖父さまが、逃げろって叫んでくださった声が聞こえましたよ? 謝ってくださって、ありがとうございます。私は無事でした。だから、もういいんですよ。お祖父さまはただ、お祖母さまを愛していただけなんですものね。もう、いいんです」

「……パトリシア……パトリシア……」

「はい」

 

 ゆっくりと顔を上げた祖父の瞳に涙が滲む。灰色の瞳に光が宿るのがわかった。

 やっと、祖父と向き合えた気がした。きっと、本当のお祖父さまは家族のことを大切に思ってくれる人のはずだ。

 あの、穏やかに微笑む肖像画のように。

 

「すまない……パトリシア……」

「いいのですよ、お祖父さま」


 ふと、頭の片隅でお前は優しすぎるとため息を吐かれたような気がした。

 私がいいのだから、これでいいのだ。


◆◆◆◆◆


「どうして、こんなことに……」


 次の日、朝早くから起こされ何故かお風呂へと連れて行かれ、人生で初めてではないかと思うほどピカピカに磨き上げられた。

 薔薇の香油を塗られ、いつの間にか用意されていたドレスに身を包む。

 暗紅色の生地に生成りレースのフリルがふんだんに使われたそれは、驚くくらいサイズがぴったりで驚いた。生地も手触りがよく、よく見ると裾の部分に同色の刺繍糸で薔薇が縫われている。

 一目で職人が丹精込めて作ったとわかる高級品だ。


「これは、お祖父さまから?」

「いいえ。ルシフェル様からです」

「今日は私の誕生日だったかしら?」

「お嬢様の誕生日は再来月です。おそらく、本日のためにルシフェル様がご用意されたのかと」


 ドレスだけではなく髪飾りからアクセサリー、靴まで全てルシフェルから贈られたものだと聞いて震えた。

 いつの間に用意したのか、問い詰めたい。今まで彼から贈られたものなど花や菓子など可愛らしいものばかりだったのが嘘のようだ。

 一人悶々としている間に着飾られた私は馬車へと詰め込まれ、ウォルターと共に王城へと向かう。

 何もわからないまま、女王陛下と謁見することになった。


「よく来てくれたな、パトリシア嬢」

「お、お初にお目にかかります……」


 ブラックリー侯爵家は私が継承し、私の生んだ子に継がれることが決まった。女王からの勅状に口を挟む間もなく署名させられた。

 契約文の中にルシフェル・B・クロムウェルを夫とすることという文字が見えた気がして眩暈がした。

 始終哀れみを含んだような瞳で陛下に見られていた気がしていたたまれない。

 女王陛下との謁見を終え、流れるように案内されたのは後宮だった。

 庭の入口で待ち構えるように立っていた幼馴染の姿に、思わず駆け寄りそうになったのを堪える。


「やぁ、トリシャ。そのドレス、とても似合っているね」

「ルシフェルっ! あなた……」

 

 ルシフェルは流れるように私の手を取り、庭へと優雅にエスコートしてくれる。流れるような仕草に戸惑いを隠せないでいる私に考える隙を与えること無く庭の奥へと導いていく。

 彼の胸元で咲く真赤な薔薇がなんだか意味深で変に意識してしまう。

 

「君に似合う色はなんだろうって母と悩んで決めたんだ。マダムシェリーがぜひ我が店でと申し出てくれて、早々に仕立ててくれたんだよ」

「まぁ……あの、マダムシェリーの?」


 予約も取れないと人気の仕立て屋の名前が出てきて、頬が引きつるのがわかった。今もときめく賢夫人と名高いクロムウェル公爵夫人の悩みとなれば、誰もが我こそが解決しましょうと名乗り出るだろう。

 夫人も一緒に川で魚釣りや泥団子作りに励んでいたのが懐かしい。住む世界が違いすぎて目眩がしてきた。

 頭上から小さく吹き出す声が落ちてきた。

 思わず見上げれば、私を見下ろす金色の瞳と目が合う。小さな頃、この瞳と似た琥珀を貰ったことがある。

 とても綺麗で大事にしていたあの石はいまどこにあるだろうか。いつの頃だったか、あの石を眺めることはなくなった。


「君はきっと権力も政争も興味がない面白みのない普通の貴族の男と結婚をして、子どもを生んで、孫に囲まれていい人生だったなって死ぬような人生を送りたいんだろうけど、ボクはそれを叶えられない男だ。きっと君には貴族社会のクソみたいな見栄と虚飾の上に立ってもらうことになる」


 ゆっくりと彼の目が前を向く。彼の視線を追っていけば、目の間に飛び込んできたのは色鮮やかな花々だった。

 鼻腔をくすぐる芳醇な薔薇の香りに思わず息を吐く。


「……綺麗」

「さすが、女王陛下の庭園だね」


 再会した日に彼から言われた言葉を思い出す。思わず見上げれば、まるで私を待っていたかのようにこちらを見ていたルシフェルは微笑んだ。

 私の両手を取って、ルシフェルはゆっくりと片膝をつく。

 まるで、物語の中から出てきた王子様のような彼の姿に胸が高鳴るのが分かった。


「キミの目に美しいものだけを見せてあげたい。けれど、苦しいことが待っていないと断言できない。それでも、キミを諦められないんだ」

「……諦めようとしたの?」

「当たり前だろう。キミを苦しめるような男に、キミを任せることなんてできない。でも、それ以上にキミの隣に知らない男が立つことのほうが許せない……愛しているんだ。パトリシアを愛している」


 ぐっと握られた手は決して痛みはなく、けれど火のように熱かった。

 何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。


「わ、私、世間知らずだし、鈍臭いし、争いごとは嫌いだし、容姿もパッとしない地味だしお洒落や今どきの流行りにも疎いわ……貴方のことも大切だとは思っているけれど、どちらかといえば家族だと思っていて、恋愛とか何もわからないの……でも……」


 ゆっくりと深呼吸を繰り返し、ルシフェルの手を握り返す。


「貴方におはようとおやすみを言いやすい距離にいたいわ」


 手紙が返ってこなくなったとき、とても寂しかった。

 一緒にいた日々が当たり前だったあの頃が、ずっと続けばいいのにと何度思っただろうか。

 私にとって楽しい日々は、彼と一緒にあるのだ。

 ルシフェルは瞼を伏せ、私の掌と手の甲に口付けを落とす。ゆっくりと顔を上げた彼の金色の瞳が私だけを見つけてくれる。


「ルシフェル・B・クロムウェルは剣と心臓に誓おう。生涯パトリシアだけを愛すると、この心はキミだけのものだ」


 そう言って彼は胸にさしていた真赤な薔薇を差し出してくる。

 そっと受け取りながら、眼の前が涙で滲むのが分かった。

 こうして私は、ルシフェル・B・クロムウェルと婚約したのだった。


「めでたし、めでたし?」


→→→Next『黒鶫公爵邸令嬢失踪事件』


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