ぼっち魔少女は、ずっと待っている……全部、わかっているけれど。
薄紫色の海に面した崖の上に、ぽつんと孤児院が立っている。
戦争で親を亡くした魔族の子供たちのために、魔王が作ったものだという。
その孤児院に、ネルという少女がいた。
ネルは他の子たちとは、少し外見が違っていた。
魔族の特徴であるはずの、額の角が短い。口の牙も短い。瞳の色も真紅ではなく薄赤色。魔力も薄かった。
他の子たちは、そんなネルを気味悪がったり、からかったりした。〝間の子〟――魔族と人間の間に生まれた子なのだと。
「ネルの親御さんはね、遠いところにお出かけしてる。いつか迎えに来るから、待っていればいいの」
孤児院の職員の大人たちが、そっけなくいう。
本当は違うと、ネルにはわかっていた。
でも、そういうことは口にしない方がいいと感じた。だから黙って待っていた。
ネルはよく、孤児院の庭から海をながめた。
海のずっと向こうに、楽園みたいな南の島があって、そこはいつも暖かくて、きれいな花がたくさん咲いているのだとか。
(けど、遠いんだろうな。泳いで行くのは無理だし、たぶん船に乗っても……)
崖の下に、ぐるぐるといくつもの渦巻きが見える。渦潮。
大人たちは、危険だから海に出られないといった。
ネルがじっと見ていると、渦巻きの下に黒い影が映ることがある。
海鳥たちも、渦巻きには近づかない。岸辺には、大きな魚の骨がばらばらと大量に打ち上がっていた。
◇◇◇
ネルは一人ぼっちで、退屈だったが、楽しみもあった。
たまに、ジェスという魔族の男が、孤児院にやってくること。
魔王軍の軍人らしいが、いつも道化みたいな変な衣装を着ていた。
「やあ、みんな元気だった? ほら、お菓子持ってきたよー」
魔王城の城下町で流行っている〝目玉ゼリー〟とか〝コウモリクッキー〟とかを孤児たちに配った。
ジェスは優しくて陽気だった。
お兄さんともおじさんともいえない微妙な年頃だったが、「お兄さん」と呼ぶと喜ぶので、お兄さんということになっている。
仕事が休みの日、こうして各地の孤児院を回っているのだとか。ジェス自身も、昔は孤児だったという。
他の子たちがきゃあきゃあとジェスの周りに集まる中、ネルは少し離れたところにいた。
でも、ジェスは最後にはちゃんとネルのそばにも来て、気さくに声をかけながら、お菓子をくれるのだった。
ネルは他の子に比べて魔力が弱い反面、他人の魔力を敏感に感じ取ることができた。
大人の魔力の強さがなんとなくわかった。院長先生はじめ職員の大人たちは、強い魔力を持っている。
ただ、ジェスは違った。立派な魔族の角が生え、牙も鋭く、くっきりした真紅の瞳を持っているのに、魔力はなんだか弱々しい。
(軍人さんにしては、ちっとも強くなさそうだけど。それはたぶん……)
ジェスは、よく幻影魔法を使って、孤児たちを楽しませてくれた。
孤児院の建物の壁に幻影を投射し、びっくりするほど鮮明な映像の劇を見せてくれるのだ。紙芝居ならぬ、幻影芝居。
大したことない風を装いながら、その魔力はとてつもなく繊細だった。ネルは、ジェスがとても優れた魔法の使い手であると感じた。
ジェスが来ているとき、もう一つ不思議なことがあった。
孤児たちと遊びながら、上機嫌な顔のジェス。それに比べると、周りの大人たちが妙にこわばった顔になっていること。気づいている子は、ネルだけのようだったが。
ある日、ネルがぼんやり海をながめていると、ジェスが隣に座った。
「ネルは、海に興味があるの?」
「うん。ずっと向こうに、南の島があるって、ほんと?」
「ああ、あるよ」
「暖かくて、楽園みたいなところなんでしょ?」
「そう。僕も昔……もっと若かったころ、行ったことがある。南の島はこの魔界と人間界との、ちょうど間にあってね。海の色も薄紫色じゃなくて、きれいな水色なんだ」
「へーえ」
「暖かくて、のんびりしてて、とてもいいところだった。珍しい魔物とかきれいな植物とか、いっぱいでね。あと、人間もいたなあ」
「人間も?」
「うん、〝冒険者〟っていう人たちが、ちらほらやってきてた。貴重な薬草なんかを採ったりしてて……」
ジェスは、少し遠くを見る目に。
「かわいい女の子もいたよ。君みたいな」
「ジェス、もてもてだったの?」
「ふ、ふ。昔はちょっとね」
ジェスが、ネルの頭をぽんぽんと叩く。
その手が触れたとき、ネルはかすかに潮の香りを感じた。
◇◇◇
外の世界では、魔族と人族との戦争が長く続いていた。
魔族の中でも、人族に対する強硬派と、和平を求める融和派が争っているという。
「今日も、地方で反乱が」「人族と手を結んで」「魔王軍が弾圧して」「いつになったら戦いが終わる?」。ひそひそと大人たちの言葉。
孤児院の職員が、ぽつぽつと減っていく。戦争に参加するために。
ある日、ジェスもいった。みんなとは、しばらくお別れだと。仕事で少し遠くへ行くから。
(少し遠くへ……か)
嘘だとわかった。
ネルは、ただ帰ってきてほしかった。戦いのことなんて、どうでもいいから。
ある日、孤児院が騒然となった。大人たちがあわてふためいていた。
人族との決戦で魔王が討ち死にし、魔王軍が総崩れになったという。
その結果、和平が結ばれた。人魔の戦争はあっけなく終わった。
そして平和になったということで、外から見知らぬ大人がやってきて、孤児をどんどん引き取っていく。
「今日から〝お父さま〟と呼ぶんだよ?」「ほら、お呼びなさい」「お父ちゃん」「いい子だ。じゃ、行こうか」。
ネルの迎えは来なかった。
みんなが去って行くのを見ながら、じっと待っているだけだった。
ジェスも帰ってこなかった。
孤児が減るにつれ、職員の数も減っていく。
ついに、残った孤児はネルだけになり、職員は院長先生だけになった。
がらんとした孤児院。
ネルはあまりさびしいとは思わなかった。今までも一人ぼっちだったから。
院長先生と二人きりの生活というのには、気まずさを感じてしまうが。
それまでの院長先生は、ネルに対して丁寧ではあったが、どこかよそよそしかった。
ただ、二人だけになると、よそよそしさは少しずつなくなっていき、すっかりうちとけた感じに。
「ネルさん、庭で育てたハーブのスープです。もうネルさんしかいませんし、おかわりは山ほどできますので……!」
「う、うん。ありがと……ございます」
親身になって、あれこれお世話してくれる。まるではじめから、本当はそんな風にしたかったみたいに。
(ひょっとして、この院長先生や職員さんたちは、はじめから……)
ネルはあれこれ考えた。考える時間だけはたっぷりあった。
そうしながら、待った。
ずっと待ち続けた。自分を迎えにきてくれることを。
秋になった。庭の木の葉が、赤や黄色に色づく。
冬になった。乾いた風が吹き、木の葉が散った。
春になった。小さな花が咲き、若葉が芽吹きだす。
◇◇◇
そして、ある日の暖かい昼下がり。
ネルは部屋の窓から外を見て、目をぱちぱちさせる。
見覚えのある人影が、孤児院の門をくぐってくる。
ジェスだった。
ただ、以前のような道化の服ではなく、旅人風の服を着ていた。怪我しているらしく、頭を包帯でぐるぐる巻きにしている。
ネルが表に出て、駆け寄っていくと。
「やあ、ネル。元気だった?」
だいぶやせたようだが、優しい笑顔は変わらない。
院長先生も飛び出してくる。いつもは冷静なのに、声をうわずらせながらいう。
「あの、お亡くなりになったと聞きましたが……」
ジェスが肩をすくめる。
「〝そういうこと〟にでもしないかぎり、戦いを終わらせようがなかったからね。まあ、その辺のあんばいが難しくて、本当に死ぬほどの目にあったけど」
少しの間、ジェスと院長先生の会話。
強硬派、融和派、復興状況、人間界との条約……小難しい政治とかの話らしい。
「ありがとう。君には、最後まで世話になったよ」
「もったいないお言葉です」
院長先生が、ネルの方を向く。
「ネルさま、どうかご無事で……陛下も」
院長先生は、びっくりするほど丁寧にお辞儀をすると、静かに立ち去っていく。
「さて、ネル。突然で悪いんだけど、孤児院での暮らしは今日でおしまい。お引越しだ」
ジェスが庭の柵を越え、崖の先端へ。
ジェスにうながされ、ネルも慎重についていく。
崖下には、いくつもの渦潮。
ジェスが手を伸ばして、おいでおいでの仕草。
と、渦潮が、急に渦巻くのを止める。
その海面がご、ご、ごと盛り上がり、水しぶきをまき散らしながら、巨大な魔物が現れる。
真紅の眼、流線型のきれいな水色の身体、なめらかで分厚いヒレ。
絵本にも描かれている伝説の大海蛇――シーサーペントが、長い首をもたげ、奇怪な鳴き声を上げる。
「このシーサーペントは、僕の使い魔でね。こいつに乗って海を渡って、南の島に行く。そこに僕が昔住んでた、小さな家があるんだ」
ネルはシーサーペントの小山のような巨体を見て目を丸くするが、おびえたりはしなかった。
たまに海面に映る黒い影や、岸辺のたくさんの魚の骨や、大人たちの反応から、たぶん大きな魔物とかがいるんだろうな、と思ってはいたから。
「ところで、ネルは孤児院がなくなると、さびしい?」
「……少し」
「うーん、ごめんよ」
ジェスは孤児院に手のひらを向け、魔力を集中させる。
と、その建物が揺れながら歪みだす。みるみる小さくなっていき、丸ごと消失してしまった。
残ったのは、庭に生えているハーブだけ。
「痕跡になるようなものを、残しておくわけにはいかないんだ。僕には熱心なファンが多くてね……武器を持った魔族とか、人間とか」
そこでジェスがせき払いし、少し真面目な顔になる。
「ねえ、ネル。実は、頼みがあるんだ。今日から、僕のことを……」
「ジェスって、あたしの〝お父さま〟なの?」
ネルがじーっと上目遣いでいうと、ジェスが後ろ頭をぽりぽりする。
「うーん、まいったなあ……びっくりすると思ったのに。どうしてわかったの?」
「だって、こうやって迎えに来てくれるくらいだし。それにね」
ネルは、自分が考えていたことをしゃべった。
ジェスの魔力は弱々しかったが、明らかに抑え込んでいるようだったこと。
ジェスの幻影魔法がすごく繊細で、実はすごい魔法の使い手だろうと思ったこと。
ジェスが来ると他の大人たちがいつも緊張していたし、本当はジェスは偉い人に違いないと思ったこと。
ジェスだけが他の子や職員さんと違って、はじめから自分に優しくて、いつも話しかけてくれたこと。
魔族なら、人間とか〝間の子〟は嫌いなはずなのに。
だから、ジェスが偉い人として、自分の世話をするように院長先生や職員さんたちに頼んだんじゃないか、と思ったこと。
だとしたら――。
「前に、南の島に人間がいた、っていってたよね。かわいい女の子がいたって。それがあたしのお母さん?」
「……やれやれ、賢い子だね。誰に似たのやら」
苦笑するジェス。
「一人ぼっちで押しこめるような形になって、悪かったと思ってる。でも、ここしか安全に預けられる場所がなかったんだ。たしかに、僕は魔界では偉い立場にいてね。しょっちゅう命を狙われるもんだから、大事な君を巻き添えにはしたくなかった。だから、君の存在そのものを隠そうとした……ただ、いずれ迎えに来るつもりだった」
「あのね、あたし、怒ったりしてないよ。ちゃんと来てくれたから」
「そういってくれると、ほっとした気分になるよ。とにかく、争いごとはもうおしまいにしたくてね。それでずっとばたばたしてて」
「〝へいわ〟のため?」
「そういうこと。犠牲はたくさんあったけど、戦争はなんとか終わらせることができた……彼女も、平和を強く願っていたから」
ジェスはさびしそうな顔になるが、小さく首を振って、にっこり笑う。
「さ、行こう、ネル。僕たちの新しい家へ」
「……うん!」
ネルが、ジェスの差し出した手をぎゅっと握りしめる。
シーサーペントの背中に、二人分の鞍が取り付けられている。
ジェスがネルを抱え、崖からふわりと飛び降りる。
二人を乗せたシーサーペントが、薄紫色の海を静かに進みはじめた。