第三話『シルメアーレの姫君』
――重たい瞼を開けると、視界に真紅の天蓋が揺れていた。
木の香りと香油の甘い匂い。けれど、鼻の奥にかすかに残る血のにおいもあった。
目を動かすだけで、頭の奥に鈍い痛みが走った。体の節々が重く、何かに締め付けられている。包帯か、固定具か。寝返りすらうてない。
(……どこだ、ここ)
目に映るのは分厚い天蓋、古風な木製の家具、ステンドグラスがはめ込まれた窓。病院ではない。
重たく柔らかな寝台、絹のような肌触りの布。淡い香油の香りが、鼻腔をくすぐる。
天井の彫刻、窓辺のステンドグラス、壁を飾る装飾――まるで中世の貴族が住む城のようだった。
大輝は、ぼんやりと天井を見上げたまま、状況の理解が追いつかず、ただ深く息を吐いた。
――痛みはある。生きている。けれど。
混濁した意識の奥に、なにかが引っかかっていた。
――最後に、自分は飛び降りた。取り返しのつかないことをして。見捨てられ、その罪を背負いきれず、夜の高架から身を投げた。それが、確かに“終わり”のはずだった。
なのに今、自分はここにいる。
生きているのか。死んで、夢を見ているのか。それとも――?
右手の甲に、見慣れない模様が描かれているのに気づく。複雑で奇妙な図形。まるで、子どもの悪戯か、怪しい宗教の印か。
「なんだよ、これ……」
掠れた声が喉を焼いた。そのとき、静寂を破るように扉が開く。
現れたのは、ひとりの女性。
金髪を編み上げ、薄布のような衣をまとっていた。ネグリジェにも、舞台衣装にも見えるその姿は、まるで現実感がなかった。。
(……誰だ? てか、服……なんだあれ)
目が合う。女性が驚いたように息を呑み――何かを叫んで、走り去った。
唖然としたまま、体を起こそうとする。
全身が包帯に巻かれている。ふと目に入った手の甲にはやはり見慣れない模様が描かれている。
落書きか、それともタトゥーか……とにかく意味がわからない。
再び扉が開く音。
今度は複数の足音が近づいてくる。
入ってきたのは三人。中央に立つのは、宝石を散りばめたドレスに身を包んだ美しい女性。
その両脇には、銀と青の鎧を纏った騎士らしき男女。無言のまま、大輝を見下ろしている。
兜を脱いでいないせいで表情は見えないが、腰の剣が不穏な光を放っていた。
(なにこれ……ゲームか? 撮影? まさか、ドッキリとか……?)
戸惑いが思考を曇らせる中、ドレスの女性が一歩進み出て、口を開いた。
柔らかな声音。だが、意味は一切わからなかった。
(英語じゃない……どこの国の言語?)
フランス語でも、中国語でもない。
歌のように響く未知の言語。まるで、空想の物語の中のような。
焦りが募る。自分が置かれている状況が、まったく読めない。
状況も場所もわからない。ここがどこなのか、なぜ自分が生きているのかすらも。
やがて女性は、ふと何かに気づいたように目を細め、静かに片手を上げた。
口元が動き、詩のような言葉が流れる。そしてその指先が、淡い銀光を帯び始める。
(……何だ? え、ちょっと待って、え?)
ビクリと体を強張らせるが、光はすぐに霧散した。
沈黙。だが次の瞬間、女性の眉がわずかに曇る。小さくため息をつき、再び床に膝をついた。
そして、両手を組み、なにか違う言葉を紡ぎはじめる。
部屋の空気が変わった。蝋燭の火が揺れ、部屋の中央にうっすらと“紋様”が浮かび上がる。
(……これって……魔法?)
信じがたい。けれど、目の前で起きていることは、現実の理屈を逸脱していた。
そして――
「……お、おい。ちょ、待っ……!」
警戒する間もなく、再び光が放たれる。
「今度の光は、胸の奥にしみ込むように広がった。痛みはなかった。ただ、頭の中に――何かが“流れ込んでくる”感覚があった。」
記憶、感情、風景。焼けた街。神殿。叫び。炎。
言葉ではない“意味”だけが、鮮烈な熱となって押し寄せる。
そしてその熱が静まり、波が引いたとき――
「……これで、伝わりますでしょうか?」
その声は、日本語だった。流暢で、自然で、どこにも違和感がない。
「え……今、なんて……?」
ぽかんと口を開けたままの大輝に、女性は微笑んで深く一礼する。
「改めまして。私は、精霊国第三皇女、アストリッド・セレニヤ・シルメアーレと申します」
どこまでが名前で、どこからが肩書きなのか分からなかった。ただ、その響きは耳に残るほど美しく、けれど現実感は薄かった。
(魔法で言葉が通じた? ……いや、そんなこと、あるわけ……)
だが、否定できない。魔法としか思えない光。聞き取れなかった言葉が、いまでは自然に聞こえる。
ここは現実なのか。それとも、死んだ先の異世界なのか。
理解は追いつかない。
戸惑う大輝を前にアストリッドは、深く頭を垂れた。
「貴方のご無事を、心よりお喜び申し上げます。……そして、あの災厄より我らをお救いくださったことに、深く感謝を」
「……な、何の話ですか……?」
言いながら、大輝は自分が何をしたのかも理解していなかった。
アストリッドは静かに目を伏せる。
「あなたが来て下さらなかったら、王都は……私たちは、もう……」
彼女の声は震えてはいなかったが、その瞳の奥には、焼け跡のような深い記憶が揺れていた。
沈黙が落ちる。その重さに耐えるように、大輝は小さく息を吐く。
そんな彼に、アストリッドはふと顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「……差し支えなければ、お名前を教えていただけませんか?」
その声音は丁寧で、どこか遠慮がちでもあった。
(名前……)
唐突に、現実の重みが肩にのしかかる。
名前――名乗るだけなら簡単だ。けれど、それはこの状況を受け入れるということだ。夢でも幻でもない、“ここ”が現実であることを、もう否定できなくなってしまう――そんな気がした。
――だが。
目の前で、自分を見つめる彼女の瞳には、偽りの色はなかった。言葉は通じていても、文化も常識も違うその存在が、確かに自分に何かを求めている。
大輝は、ごくりと喉を鳴らし、痛む体を引きつるようにしながらも、ゆっくりと答えた。
「……佐藤……大輝、です」
自分の名を口にする。それは、混乱の中でかろうじて繋がっている“自分”の輪郭だった。
アストリッドは小さく口に出してその名を反復し、穏やかな笑みを浮かべる。
「サトウ……ダイキ様。ありがとうございます。……とても、よい響きです」
それがただの礼儀か、本心かはわからなかった。 だが、それよりも大輝の中で何かがふっとほどける感覚があった。
彼女は静かに頭を垂れ、深く礼を述べる。
「改めて貴方のご無事を心よりお喜び申し上げます。そして……我が国と民を救ってくださったことに、心からの感謝を捧げます」
「救った? ……オレが?」
「はい」
彼女の言葉は静かだったが、その裏に潜む恐怖と切実さが滲んでいた。
「……貴方が空より現れ、黒き竜王の頭上に――まるで雷のごとく落下された瞬間、
その巨体が咆哮をあげ、まるで苦悶するかのように空中で激しくのたうち――
やがて、翼を奪われたかのように墜ちていったのです。」
彼女の瞳は遠く、焼け跡を見つめるように揺れていた。
「……王都を覆っていた絶望は、そこでようやく消えたのです。
あの時、貴方が現れていなければ、私たちは……皆、灰になっていたでしょう」
まるで詩のような語り口に、大輝は困惑する。
(……俺が、竜に飛びかかって、倒した? そんなバカな)
思い出すのは、あの夜の風。飛び降りたあの瞬間――
ただ、終わらせたかった。苦しみも、全部、なにもかも。
それだけだったのに。
(偶然……たまたま、あの竜とぶつかっただけじゃないか)
偉業なんてほど遠い。
それなのに。
「……そんなつもりじゃ、なかったんだけどな」
ぽつりと零した言葉は、虚空に吸い込まれる。
アストリッドは、それを謙遜と捉えたのか、優しく微笑んで深く頭を下げた。
「それでも、私たちは救われました。……ありがとうございます、サトウ・ダイキ様。
貴方は、間違いなくこの国の“英雄”です」
その真っ直ぐな称賛と感謝の言葉に、大輝は――
乾いた笑いを、ひとつ漏らすしかなかった。