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第一話『この世界に、さようなら』

午前四時。まだ空が青黒く沈んだままの、静まり返ったサービスエリア。

街灯が灯す人工的な光に照らされて、トラックの側面がぼんやりと浮かび上がっている。アスファルトにかすかに響くエンジンの振動。カフェの紙カップからは、湯気が立ちのぼっていた。


佐藤大輝は、トラックの運転席に寄りかかりながら、目の前の紙コップを無言で見つめていた。


何気ない、いつもの朝のはずだった。


「よし、行くか……」


つぶやいた声は誰にも届かない。助手席に人はいない。スマートフォンの画面には、目的地の地図。ナビアプリが穏やかな女性の声でルートを案内している。

彼はカップをゴミ箱に放り投げ、運転席へ乗り込んだ。エンジンの唸りが少し大きくなり、車体がゆっくりと動き出す。


――その瞬間だった。


「……え?」


車の影から、人影が飛び出した。それはあまりにも突然で、反射的にブレーキを踏む余裕すらなかった。


ドン、という音とともに、鈍く身体に響く感触。車体が一瞬跳ねたように揺れ、大輝の脳が現実を理解するよりも早く、手はハンドルを強く握りしめていた。


トラックが停止した。


冷たい汗が背中を流れる。鼓動の音が、耳を塞ぐように響いている。

大輝は震える手でドアを開け、地面に降りた。


ライトの照らす先。そこに、若い青年が倒れていた。


「……嘘、だろ……」


血が、アスファルトにじわじわと広がっている。青白い顔。開かれたままの目。動かない体。

彼は声にならない声で何かを言った気がしたが、その唇はもう動かない。


時間が止まったようだった。


通報、救急車、警察――すべては夢の中の出来事のように進んだ。

事故は、記録映像から「予測不可能な飛び出し」と判断された。

彼に非があったわけではない。そう、書類の上では。


だが、現実は書類では割り切れない。


会社からは、簡素な文面のメールが届いた。


「事故については当社に過失は認められません。つきましては、トラック修理費および営業損失の一部について、ご相談させていただきます」


ご相談、という表現が、妙に空々しく思えた。


その数日後には、総務部の人間がやってきて、事故当日の録音や記録を「念のため」として持ち去っていった。


「こういうのは、早めに処理しないと尾を引きますから」


にこやかな笑顔だった。だが、その目は笑っていなかった。


――トラックを見るたびに、震えが止まらなかった。


あの鉄の塊が、人の命を奪った。自分の手で。


亡くなった青年は十九歳の大学生だったという。

将来を期待され、真面目で、両親にとってはかけがえのない存在だった。


そして、その命を――自分が奪った。


「……なんで……なんで、俺が……」


夜のアパート。電気もつけず、カーテンも閉めきった部屋で、大輝はひとり座り込んでいた。

会社からは「仕方のない事故だった」と言われたが、まるで慰めのような言葉に、逆に胸が締めつけられた。


その日から、彼は外に出ることができなくなった。

トラックを見るたびに、あのときの光景がよみがえる。

血。潰れた身体。声を上げて泣き叫ぶ、母親らしき女性の姿。


眠ることも、食べることもできず、ただ時間だけが過ぎていった。


そして――


風が強い夜だった。雲の切れ間から、星がちらちらと瞬いていた。

大輝はとあるビルの屋上に立っていた。学生時代に通っていた大学の近くにある、古い雑居ビル。


ここなら、人も来ない。邪魔もされない。


柵を越え、足をかける。

眼下には街の光と、無機質な道路。ここから落ちれば、確実に――終わる。


怖くはなかった。

恐怖よりも、空虚のほうがずっと重かった。


「……ごめんなさい……」


誰に言ったのか分からない。あの青年か、その家族か。

それとも、もう会えない家族か。自分自身か。


風が吹いた。


そして、大輝は身を投げた。


風が顔を裂く。重力に引かれる。

景色が流れていく。ビルが遠ざかり、地面が近づく。


死が迫っていた。


――その瞬間だった。


視界が、光に包まれた。


それはまるで、太陽の中にそのまま飛び込んだかのような、強烈な白光だった。

目も開けられない。痛い。目だけではない。全身が焼けるように、砕けるように痛い。


「っ……ああああああああああああ――!」


声にならない悲鳴が喉から絞り出される。

骨が砕ける音がする。皮膚が裂ける音が聞こえる。自分の身体が壊れていくのがわかる。


そして、次の瞬間――


「グォォオオオオ――ッ!!!」


雷のような、地の底から湧き上がるような、巨大な咆哮が、大輝の全身を包み込んだ。

それは人間の出せる音ではなかった。

世界そのものが、怒り狂っているかのような、存在そのものを圧し潰すような音。


激しい耳鳴り。爆音。息ができない。

音が、痛い。感覚がすべて壊れていく。


やがて、光も、音も、すべてが遠ざかっていった。


佐藤大輝の意識は、真っ暗な奈落へと落ちていく――。


そして彼は、この世界から、墜ちていった。


まだ知らぬ、新たな世界へ。

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