第七話 文書室のファシル
左に文書を置いて、右に置いた白紙に写していく。内容は融資の契約や返済状況、罪人の裁定に関わる証言をまとめたものが多かった。初めて見る言葉の意味を教えてくれいないか?とファシルに尋ねると、自分もわからないと断られた。
文書室で仕事をしているのはティティユとファシル、そして文書棚を管理している初老の男、ギュゼだけだった。
ギュゼはきっと何年もここに居るのだろう。誰がこの部屋に入ってきてもまったく動じないし、この部屋に入って来た者はギュゼに探している文書の場所を聞く。
ファシルはレビーと同じ歳くらいの少年で、文書室に来てからあまり日がたっていないようだ。ペンを持つ手の形がサディクよりもティティユに似ていた。文字を書くことに熟達しているようではなかった。
文書室は、毎日決まった時間に文書の受け渡しがある他は、人の出入りがあまりなかった。ギュゼもファシルも無口なので、一日中とても静かだ。
耳を澄ませばペンを滑らせる音が聞こえてきて、もっと集中して聞くと廊下や隣の部屋の話し声も聞こえてくる。生まれて初めて味わう静けさに耳鳴りがした。
数日経って、文字を書くのも慣れてきた。さらさらとペンを動かしていると、ふとあることに気が付いた。元の文書の筆跡が、右下に書かれている筆記者名の人物のものと違うのだ。
ティティユたちの元に届く文書の筆記者は、知る限り二十名ほどいて、それぞれ筆跡には特徴がある。いま写している文書の筆記者、ズアーナの筆跡は、もっと線が細く繊細な印象だったはずだ。
この筆跡には見覚えがあったので、ファシルに聞いてみることにした。
「ファシル、この文書はあなたが書いたのでしょう。このようなことをしては、あなたに罰があるのではないか?」
振り向いたファシルは、驚愕と恐怖が混じった顔で、唇を引き結びじっとティティユを見た。
直後腹を強く殴られて気を失った。
目が覚めたとき、ティティユは土埃が積もった薄暗い倉庫の中にいた。口には布を噛まされて、手と足が縛られている。
ファシルがここに連れてきたのなら、屋敷のどこかにある場所だろうか。窓はなく、ひとつしかない扉の隙間からは月明りが差しこんでくる。夜の静けさの中なら、ここにあるもので大きな音を出せば屋敷の誰かが見にくるかもしれない。
体をひねって芋虫のように這いずり、農具や木箱が置いてある側に行こうとしたとき、扉が開いた。ファシルが何かを手に持って入ってきた。動こうとしていたティティユを見て眉をひそめる。
「おとなしくしてくれティティユ。そしたら明日には遠くの町で自由に暮らせる。」
ファシルが持っていたのはパンにチーズをのせたものと、やぎのミルクだった。「静かにできるならこれを食べさせる」と言われて、こくりとうなずいた。ファシルは口に噛まされていた布を取って代わりにパンを差し出した。ティティユはそれに噛みつく。もぐもぐ口を動かしながらファシルに話しかけた。
「ファシルはわたしを遠くの町に連れていくのか。なぜだ?」
「きみが気付いてしまったからだよ。これまで誰も気づかなかったのに」
やはりあれは知られれば罰せられることだったのか。ファシルは自分の罪を隠すためにティティユをこの屋敷から追い出そうとしている。
つまりファシルは、誤って棄損した文書を写していただけではなく、文書の中身を書き換えていたのだ。あの時の文書は、労役刑が決まった者たちの名前と年数が書かれていたから、どちらかを改ざんしたのだろう。
「ファシル、あの文書のことをわたしが誰にも話さなければ、あなたの罪はなくなる。あの文書は捨てて、なかったことにすればいい」
「それはできないよ。それはできない。僕はあの人に逆らえないから」
ファシルは苦しそうに「できない」と繰り返す。
ファシルが文書の書き換えを続けるなら、ティティユが遠くへ行ったあと、暴かれない彼の罪によって苦しめられる人がいるということだ。それはレビーやベラ、サディクやアルバートかもしれない。
『使用人は、主を敬い、守るもの』――ティティユはファシルの行いをやめさせなければならなかった。
「わたしは、遠くの町に行くことはできない。アルバート様を守るために」
「……じゃあ僕は君を殺すしかなくなる」
ティティユの首に手をのばしてきたファシルの顔に、口の中に含んでいたパンとやぎのミルクを吹き飛ばした。一瞬の隙に体をころころと転がして倉庫の隅に立ててあった農具に体当たりする。農具はティティユを追いかけてきたファシルに向かって倒れていった。ティティユは必至に両足で木の壁を叩く。
音に気が付いたのか、遠くから数人の足跡と聞きなれた調理場の人たちの声が聞こえてきた。農具の下から這い出たファシルは、絶望的な表情をうかべてふらふらとティティユに近づく。
「きみがいなければ、僕はうまくやっていた。きみがいなければ…」
その姿は父がティティユを殴るときに似ていた。もう何を言っても聞こえないかもしれない。しかしファシルはティティユとの会話を嫌がったりしない、話ができる人だ。
「ファシルこの縄を解け!アルバート様に一緒に説明する!あなたは誰かにやらされていただけだと!!」
声は届かなかった。ファシルが振り上げた農具がティティユの胴を真っ二つにする寸前で、乱暴に扉が開かれ、駆け込んできた料理長がファシルを殴り飛ばした。すかさず羽交い絞めにしてずるずると外にひきずっていく。外では数人の男たちが「なんだ、どうした」と声を上げている。
「ティティユ! 無事なの!?」
料理長の後ろからランプを持ってやってきたレビーが、ティティユを見つけて駆け寄る。そして全身土埃だらけで動けないティティユを抱き起こした。
「レビー、料理長とみんなも、音に気付いてくれて助かった。」
「気付くわよ!あんたが夕食になっても帰ってこなくてみんなで探してたんだから!なんなのこの縄、手と足も傷だらけじゃない。なにがどうなってるのよ、もう!」
レビーは倉庫内の惨状に混乱しながらも、医務室に連れていくと言ってティティユを抱え上げた。外に連れ出されたファシルは、調理場の男たちに拘束されて、何もかもを諦めたように俯いていた。