5、グラップラー
六月が開けて七月になると、唐突な灼熱地獄がやってきた。
曇っても雨が降っても暑い。そして、肌を焼くような灼熱が降り注ぐ。
その間、信二も焙られるような日々を過ごしていた。
「――よろしくおねがいします。それでは、失礼します」
通話を終え、事務所のソファーに寝そべる。
日よけのブラインドを透かして、雲の沸き立つ青空を見つめた。
本永充は、日本から去っていた。
小倉孝人が事故にあった直後に日本へ帰国し、半年の看病を経た後、その死をみとって師匠に当たるアーティストの住むアメリカへ戻った。
日本での受付になっている画廊では、八月の盆には戻ってくると聞いたが、インタビューは難しいと伝えられた。
『先生は、その、大変に忙しい方で』
もちろん、それは建前だ。
偏屈なアーティスト。苦手なもの、人付き合い。
クライアントとして出会った自分が、一番わかってる。
『友達が、殺された。犯人、捜して』
うちの事務所に来るなり、本永充はそう言ってのけた。
ここに来るまで、いくつかの事務所を門前払いになっていたのを、後で聞いた。
それはそうだろう。
言うことは断片的でぶっきらぼう。おまけに主観交じり。
しかも、小倉孝人は自殺であり、たとえ会社でのストレスや過重労働が原因でも、会社側を『殺人者』として告発するわけにもいかない。
『それじゃ、まずは証拠から、集めていきませんか?』
幸いなことに、クライアントは信二の提案を受け入れてくれた。
『例え、相手を告発するのでも、客観的な事実が必要です。小倉孝人氏が、どういう風に不当に扱われたか、まずはそれを明らかにしましょう』
『……そうか……そうだな』
それまで激情まみれだった痩せた顔に、別の表情が浮かんだ。
『あんたに任せる。一番、うそ、少なそうだから』
そして積み上げられた、尋常じゃない『報酬』。
こうすれば憎い相手を殺す権利が手に入る、そんな感情をにじませて。
「小倉孝人……か」
スマホのカメラ機能に収めた、ネズミの絵を見つめる。
どういう冗談だ。
幼児向けのアニメにでも出てきそうな、メルヘンチックな姿かたち。この中に三十越えのおっさんが入ってるとか。
だが、こいつがあの『怪獣』を倒したのだとすれば。
そして、もうひとつ。
「こっちのトリについては、一切情報なしか」
そういえば、撮影されたトリは小さな三角帽子をかぶっていて、どこか『魔法使い』のように思える姿をしていた。
この一月近く、頭がおかしくなりそうな情報がどんどん明かされている。
異世界の勇者に選ばれた人々。
神々の遊戯と呼ばれる、異世界の代理戦争。
突然日本に現れた、AとBという二体の怪獣。
そのすべてが、『小倉孝人』なる一本の糸で、繋がってきた。
「とはいえ、後は本永充に聞くぐらいしか、手がかりもないしな」
ため息を一つつくと、手荷物をまとめてザックに入れ、立ち上がる。
今日は例の『勇者』の一人に、面会を申し込んであった。
少し遠い場所にあるため、移動は早めにするつもりだ。
「今日も暑そうだな」
言わずもがなの愚痴を口にして、信二は事務所を後にした。
それは都営の運動施設、その建屋の中にある畳敷きの部屋で行われていた。
「息を吐きながら、そう、ゆっくりと。右の動きに合わせて、左も同じ距離だけ……そうです。いい感じ」
ジャージ姿の一団。
その連中を、特徴のあるズボンとシャツを身に着けた、筋肉質の男が指導していた。
いわゆる中国拳法、という奴だろう。
信二はそういうものに興味はなかったが、依頼人である友人はその辺りに熱心で、あのシュッとした姿を維持しているのも、格闘技に対する情熱の賜物だった。
「どうですか、小谷野さんも」
「いやあ、俺は昔から運動苦手で、あんな中腰姿勢なんてやったら、膝でも腰でもぶっ壊しちゃいますよ」
「架式は、その人に合わせた高さを選んでもいいんで。厳密にやるならこう、ぐっとやらないとですが」
まるで機械作動式のジャッキのように、膝を曲げつつ腰を落とす異様な姿勢を取ると、そのまま、ほぼ棒立ちのような状態に戻ってみせる。
「こういう形でもいいんです。要は勁が通ればいいんで」
「勁ってその、いわゆる気、って奴ですか?」
「単純に言えば全身力の和と構造の力、なんですが。まあ、オカルトなしの物理エネルギーって考えてもらえれば」
あっけらかんとした物言い。
こういう古さを誇るような武道につきものな、秘密めかしたところは一切ない。
むしろ、そういうオカルトじみたものに興味がない、とでもいうような。
そのまま練習は、打ち合いや型稽古のようなものを一通り進め、挨拶とともにスケジュールは終わった。
「シャワー浴びてきますんで、申し訳ないですが、下のロビーで待っててもらえます?」
「分かりました」
言われた通り施設の一階で待ちながら、改めて彼のプロフィールを確かめる。
辻隆健、神の勇者として異世界にわたった格闘家。三条日美香は顔だけは知っていたらしく、カードゲームに誘ったが断わられたと言っていた。
「そりゃ、自分の土俵で戦おうって言われて、頷く奴はいないよな」
やがて、ポロシャツにジーパンという、あまりにもそれっぽい恰好でやってきた男とともに、暑気の強い夕暮れの街に歩き出した。
「そういえば、あなたで二人目ですよ」
「なにがです?」
「その、十代ではない勇者に会うの」
相好を崩して、格闘家は苦笑いを浮かべる。浅黒い、目じりに濃いしわのある顔は、年齢以上に老けた印象を感じた。
同時にある種の子供っぽさ――彼は独身らしい――所帯やつれを感じさせない、稚気も併せ持っている。
「俺と戦った吸血鬼も『まずそうな中年で萎える』って言ってくれましてね。マジで失礼な奴だったなぁ」
「き、吸血鬼、ですか」
「他の子供らからも話聞いてたんでしょ? 今更驚きます?」
彼の来歴は、他の子供たちよりははるかにぶっ飛んでいる。
二十歳を機に台湾に渡って四年の武術修行。その後、世界を転々としつつ、用心棒や地下格闘技の格闘士をやっていたという。
「ここの店、結構手ごろでうまいんですよ」
そう言って連れられたのは、しゃれた感じのイタリアン居酒屋。だが、内装は畳敷きで厨房も居酒屋そのもの。
おそらく、本来の店をそのままに、出すものを変えただけらしい。
とりあえずビール、格闘家はいかにも健啖家らしく、いくつもの前菜を頼んだ。
「その、吸血鬼の話ですけど、どうでした?」
「意外と食いつきますね。まあ、こっちじゃ経験できないことっすからね」
これまでは、ただのファンタジー小説程度の話だったが、拳一本で異世界のモンスターと戦うと来れば、興味の度合いも違ってくる。
辻隆康は、その時の状況を、身振り手振りを交えて、雄弁に語ってくれた。
「まあ、最後に戦ったやつに比べれば、吸血鬼なんて物の数でもない、って思えるけど」
「どんなバケモノですか、そりゃ」
「笑いますよ。コボルトって、わかります?」
またそれか。
つまり、前回聞いた通りに、シェートというコボルトは、この百戦錬磨の格闘家も下したということになる。
「とはいえ、あれは武術というより機略、兵法で負けたって感じすかね」
「だまし討ちされた?」
「ある意味正々堂々でしたよ。仲間のチビドラゴンとオオカミを向こうに回した、三対一だったけど」
やってきたオリーブをつまみ、チーズの盛り合わせや、イワシのパン粉揚げを、話のついでに平らげていく。
その右肩に、見ても分かるような、凄絶な傷跡が残っていた。
「それ、もしかして」
「これは違います。リザードマンの剣士に、肩口をばっさり。神様の力が無きゃ、右腕が動かなくなってたか」
彼の冒険自体は、一つの大陸の中で収まってしまうほどの規模だったらしい。
召喚主である武神は、いわゆるチート勇者を嫌い、彼のような武術家を呼ぶことに執着したという。
「すみません、辻さん。帰った後、神様から接触はあったんですか?」
「ありましたよ」
本当に、この連中は。
普通に考えれば何らかの優越感を持ったり、世界の秘密を知ったことで、ふるまいを変えてもおかしくないのに。
「ただ、その時の用事は俺じゃありませんでしたね。そもそも、負けて帰るときに、部下にならないかと誘われて、断ってますし」
「どうして?」
「向いてない、そう思ったんで」
その時、店の開き戸を開けて、新たな客が入ってきた。
「お、悠里君。おつかれ」
「こんばんは。おまたせしました」
紺染め麻シャツと七分丈のパンツの、ラフな姿の青年は、こちらに気が付き黙礼し、そのまま座敷に上がってきた。
「えっと、彼は?」
「どうせこの後、取材するんでしょ? 連絡して、了承してくれたんで呼んだんですよ」
「初めまして。連絡返す前にお会いすることになって、申し訳ないです」
いかにも人好きのする、快活な笑顔の青年は、会釈しつつ告げた。
「岩倉悠里、異世界の勇者やってました」




