1、三度死んだ村
――降臨歴20年。
魔王討伐より二十年後。
モラニア大陸中央部、三国境界線の街道。
初夏の風が、川沿いの道を吹き渡っていく。
綺麗に整えられた日よけの樹林が、心地よい影を落としているためか、触れる大気は心地よく涼やかだった。
輝くような日差しに川面が照り映え、こずえの向こうで閃く。進んでいく石畳の道は堅牢で、刻むようなブーツの、心地よいリズムを乱すこともない。
「毎度思うのですが」
だが、そんな風光明媚でのどかな光景の中で、傍らを歩く従者は不平を漏らした。
「いい加減、馬をお使いいただけませんか?」
「そしてわたしも、言ったはずだよね」
口元を緩ませて、彼女は告げる。
ネコ科の生き物そっくりの口元で。
「これはわたしの趣味であって、カーヤが合わせる必要はないんだって」
「いいですか、この際だから、はっきりと申し上げておきます」
こちらを追い越し、倍ほどもある上から、赤毛の女性は眉間にしわを寄せて告げた。
「四大陸魔術師連盟に、その人ありと言われた大魔導士様を、あろうことか徒歩で大陸横断させる自体、天下に示しがつかないと言っているんです!」
「"勲章なんぞ貰うもんじゃねえ"」
「は?」
「お師匠様の言葉。これだけは、ちゃんと言うことを聞いておくべきだったなって」
身に着けた緑のケープ越しに肩をすくめ、黒い猫顔をした少女は苦笑する。
それから、鱗の生えた獣のような手で、困り顔の従者の腕を、そっと叩いた。
「ごめんね、カーヤ。でも、これだけは譲れないから」
「海路以外はすべて、可能な限り自分の足で歩きたい……はい、分かっております」
「もしかして、疲れたの?」
「騎士の体を舐めないでください。この程度の徒歩による行軍、教練に比べればなんということも。ただ」
その顔は疲れというより、飽きた、と言わんばかりの嫌悪に満ちていた。
「どこまで行っても似たような景色ばかり。これなら、ケデナの山の方がまだ見ごたえがありますよ」
「そうかな」
軽く歩幅を広げ、大回りしながら街道を進んでいく。
簡素な革鎧に、指先ほどの銀円を首から下げ、薄紫の旅行用ズボンと、茶色のブーツ。
そして片手には、磨き上げられた樫の杖。
旅慣れた魔術師の、ごくありふれた装いだった。
だが、その衣装で隠されていない部分は、人のそれではない。
獣の顔立ち、竜を思わせる腕、瞳の竜眼。
この世界のどこを探しても、同一の種族は存在しない。
「カーヤはもっと、世界に関心を持つべきだと思うよ」
「……申し訳ありません。あたし――私にとっては、木は木であり、草は草です」
「そっか」
従者の説得を諦めると、彼女は走り出す。
「え……ちょ、待っ、待ってくださいイフ様!?」
「競争しよう! 小さい頃、一杯やったよね?」
「か、勘弁してください! いったい何年前の話だと……イフ様ぁっ!」
跳ねるような速度で、緑の続く街道を走る。その動きはしなやかで、軽鎧をがちゃがちゃと鳴らして追ってくる女騎士を、みるみる引きはがしていく。
やがて、その視界の先、森と山に挟まれるように生えた集落が見える。
「ほら、もう退屈じゃないでしょ?」
「……っは、はぁっ、ほ……ホントに、次やったら怒るよ! イフ姉っ!」
「そうそう。二人だけの時は、敬語はやめてって、頼んだでしょ?」
「……じゃあ、今度からそっちも、ちゃんと馬に乗ってよね」
さあ、どうしてくれよう。
イフは満面に笑い、あえて返事をしない。
歩むごとに目の前に広がっていく村の景色を、目に焼き付けていく。
それは、どこにでもあるような、小さな村。
「宿なんてあるんですかね、えらく小さいですけど」
「あるはずだよ」
その村には、ほんの少しだけ平凡の枠をはみ出したものがあった。
白い花をつけた、果樹園が広がっている。
「リンドル。それがあの村の名前」
三の災禍の村。
それが、その村の不名誉な、二つ名だった。
村は来客に沸き立った。
無論、奇異の目を向けるものあったが、イフが持参した薬草や病気の治療、カーヤの心づけや親書を経て、鳴りを潜めた。
ささやかな宴が張られ、かがり火ではなく、イフ自身が灯した月光を思わせる魔法が、夜空に掲げられると、囁くような言葉が漏れた。
「ケイタ殿を、思い出すな」
それは三十を半ばすぎたほどの、若すぎる村長の言葉だった。
「"病葉を摘む指"、カニラ・ファラーダの勇者、ですね?」
「ええ……この村は、あの勇者殿を、改めて祭ることにしました。そして、それを遣わしてくださった、かの女神もです」
そう言って指さした先、村の会堂の前にある祠があった。
薬草の束を抱えた、薄絹の女神像。その前には、色とりどりの花と、この村の名物であるリンゴの枝が備えてあった。
その傍らに、平板な顔立ちの青年の像が建てられていた。
「魔王が倒される直前、この村は、ヤマウニのもたらした病毒によって死の淵にあった。それを救ってくださったのが、不思議な青い竜と、"病葉を摘む指"だったのです」
「それにしては、社殿もなければ、神官らしい姿も見えないが?」
「社殿はまだですが、ガイ・ストラウムへ修行に出ていた者が、正式な神官位を授かって来年戻ってまいります。その時に正式な祭礼を」
イフは眉根を寄せ、それから尋ねた。
「村長、私は今、ある重要な仕事をしています」
「ほう……それは?」
「かの魔王の悪行を記し、それを払うために尽力した、未だ名の知れぬ勇者たちの、足跡を記した評伝です」
「つまり、この村の、勇者を?」
「ええ」
村人たちの顔が、少なからずほころんだ。
あるものは、語られる前に勇者の姿や振る舞いを伝え出し、別の者は、その後にやってきた"知見者"の悪行をあげつらってきた。
「ケイタ……いや、勇者ケイタの物語を、どうかその書物にお納めください、イフ様」
「そのつもりです。そのために、しばらく村での滞在を許していただけますか?」
「もちろんですとも!」
やがて宴は盛り上がりのうちに閉じられ、二人は用意された宿屋の、もっとも上等な部屋に案内された。
「まさかこんな村に、ここまで上等な部屋があるなんて。もしかしてイフ姉、来たことがあったとか?」
「違うよ。あの人から聞いたの。この村が一度、滅んだ話も」
「――三の災厄の村、だっけ。街道沿いにあるのに、やけに辺鄙なのも、その通り名のせいなんでしょ?」
イフは頷き、窮屈な旅装を解く。
それから、夜着を荷物から取り出し、着替えた。カーヤの方はいつも通り、鎧と上着を脱ぎすて、下着姿でベッドに転がっていた。
「この村は、三度滅びに瀕した。一度目は魔王軍によって、二度目は"知見者"の徴発とその軍の崩壊によって、三度目が」
「あのクソ魔王の攻撃によって、だよね」
「うん」
魔王の襲撃によって村を焼かれたカーヤにとって、それはやり場のない憎悪だった。
人前では見せることはない、それでも子供のころから彼女を知っているイフにとって、それは決して癒えない傷のように見えた。
「そういえば、イフ姉」
「なに?」
「なんでそんな不機嫌そうなの」
まるで子供のように、足をばたつかせるカーヤは、子供のころそっくりだ。
いつの間にか、こちらの背丈を追い越し、大人の振る舞いを身に着けたが、こういうところは変わらない。
「怒ってたつもりはないんだけど、どうして?」
「"病葉を摘む指"の話の時、変な顔してたから」
本当に、この子はよく見ている。
イフは笑い、それから疑問を口にした。
「そうだね、カーヤ。怒っているのとは違うけど、不審に思ったの」
「どうして?」
「三度目の災厄の時、"病葉を摘む指"は、封印されていた。降臨できるわけがない」
その敗北のことも、イフは知っていた。それを知る者から直接聞いているからだ。
「その時、地上に直接干渉できた神は、たった二つ柱しかいない」
「……"英傑神"さまと」
「そうだよ。私たちは知っている。ケデナでは誰も口にしようとしない、あの女神」
自分たちも、あえて口にしようとは思わない。それでも、決して忘れられない、一つ柱の女神のことを。
「もう寝ようよ。明日は、村の人たちに聞き取りをしないとね」
「……協力できそうもないから、暇つぶししてても?」
「それなら、村はずれにあったって言う、魔王の迷宮跡を見てきてくれる?」
「仕りました。偉大なる大魔導士、イフ・アルキドルーガ様の下命、果たしてご覧に入れましょう」
二人で笑い、そのまま寝床に入る。
そして目を閉じながら、イフは祈りをささげた。
「おやすみなさい、ユーリ」