4、サラリーマン
狭い一帯に押し込められた狭小の店舗。それが、ゴールデン街の特徴だ。
普通の飲み屋から居酒屋、コンセプトバー、オーセンティックなサービスを提供する店など。ある意味『酒』にまつわる常設の博覧会場と言えた。
そのエキゾチックさに惹かれて、海外の観光客も出入りするようになり、国際色は豊かだった。
信二の行きつけには、店先に英語で『Private rental(貸し切り)』と記されていた。
「いいんですか? 入っても」
「建前みたいなもんですよ。読めない人間だけが入れる仕組みです」
「ああ、なるほど」
もちろん、この仕組みをすり抜けるタイプもいるが、その時は『書いてあること』をそのまま告げればいい。
これをどう捉えるかは人によるが、この街は『現地民のための場所』であり、店がサービスを提供する人間を選ぶ権利は、憲法でも保障されている。
看板の効果なのか、バーカウンターが大半を占める一畳半の店には、自分たち以外の客はいなかった。
「ハイボール」
「ジントニックで」
「なにか、お好みはありますか?」
首藤氏も信二も、お勧めに従うタイプの人間だった。
琥珀と無色透明のドリンクが提供され、互いが酒杯を上げる。
「おつかれさんです」
「そっちも、おつかれさま」
口を湿し終えると、信二は告げた。
「いろいろ回ってきましたよ。勇者サークル」
「今度は誰の依頼ですか、探偵さん」
「守秘義務。そこは勘弁してください」
相手は笑おうとしたが、うまくいかなかった。酒をあおり、絞り出すように告げる。
「正直、その話は、思い出したくないんで」
「どういうことですか?」
「あの会社が、あんな風になったのは、俺のせいだ」
実のところ、信二と首藤氏が会うのはこれが初めてではなかった。
別件、正確には本来の仕事である、探偵業の調査対象だった。
「まさか、神様がなにか?」
「俺の仕上げたって言われてるシステム改修。あれは、手付金代わりに、神様が直してくれたものなんですよ」
今はすでにない、ITエンジニアリングの会社。
首藤勇実はそこで働いていたが、大口の依頼を一つ片づけた後、退職している。彼の業績は高く評価され、会社はその『実績』を営業に利用した。
その結果、破綻した。
「正直、全部軽い気持ちだった。あんなシステム、初めからうまくいくわけなかったのに……そのせいで、孝人が」
それは、彼の後輩であり、つい最近自殺したという社員の名前。
小倉孝人という、平凡な会社員の死にまつわる事実を、調べてほしいという仕事が、首藤氏とのかかわりの始まりだった。
「そういえば、その小倉さんは? 確か、植物状態だとか」
「死にましたよ。先月の末ぐらいに、連絡が来て」
怪獣騒ぎの中で死んだ、ありふれた社会の被害者。
その契機が『先輩社員が勇者になった』という点を除けばだが。
「そういえば、その神様から折り返しの連絡は?」
「……ありました。二年前くらいだったか」
「参加は?」
「やめときました。参加する理由も、無いと思ってたんで」
その口ぶりは、明らかに後悔をにじませていた。
だが、その空気がほんの少し、和らいだ。
「あいつの、友達って奴が来て、直接話してくれたんです」
「……もしかして、本永充ですか?」
「小谷野さんに依頼したのも、彼なんでしょ。実は、孝人からも聞かされてて。有名なアーティストだとか」
なぜか、ポケットから名刺入れを取り出し、手の中でもてあそびながら、彼はいつくしむように告げる。
「孝人から、俺のことを聞いた。いろいろ世話になったけど、また酒飲む約束は果たせなかったと。そのことだけ、謝っておいてほしい、だそうですよ」
「本人から、聞いたんですか?」
「植物状態の病室に、介護の手伝いをしに行ってたらしくて。その時に、そんな風に感じたってことじゃないんですかね」
そして名刺入れが開かれ、引き出された一枚の紙片を見て、信二は声を上げるのを寸前で、抑えることができた。
「ちょうど、ファミレスでそんな話を聞いてたんだけど、色鉛筆かなんかで、あっという間に描いたんですよ。あいつだと思って、持っていけ、って」
赤いチョッキを身に着けた、ネズミのような生き物が、スケッチブックを手に何かを描いている姿。
「きっとあの世で、こんな風に絵を描いてるからって」
おそらく、彼にとっては、死の喪失を慰める程度の、麻酔薬ぐらいの品物だ。
だが、今の自分にとっては、この世界の秘密を暴露するような、おぞましい真実の書の断片に見えた。
今すぐ奪い去りたい、その衝動を必死にこらえて、スマホのカメラを構える。
「そ、その、映していっても、構いませんか?」
「どうぞ。さすがに上げるわけには、行かないですけどね」
シャッター音、フラッシュ。
手の中に納まった、一匹のネズミの絵。
そいつは、気の抜けた笑みを浮かべて、視線の先にあるモチーフを眺めていた。