2、プロゲーマー
スーツ姿の記者たちの間に挟まるようにして、信二は待合室で結果を待っていた。
生まれて初めて入る『勝負』の世界。
襖で仕切られた部屋の向こうから、成すべきことを終えて出てくる顔がある。その背景にあるのは、九×九マスの木でできた遊戯盤。
将棋の昇段試験、その最難関ともいえる三段リーグ。半年にもわたるリーグ戦を行い、上位四名のみを『四段』へと変える、文字通りの登竜門だ。
「長いな……」
そんな信二の呟きに『先輩記者』がたは笑う。こんなものは、よくあることだと。
いつの間にか窓の外は夕暮れに近づき、対局者たちは姿を消していく。
残すは三組。
やがて一組が一緒に場を去り、残された片方はいわゆる『感想戦』をしていた。
そして、
「――ありません」
絞り出すような声。
自ら敗北を告げた男性は、盤面から顔を上げて、一瞬泣き出しそうな表情をしたが、それでも対戦相手に問いかけた。
「銀を取らなかったのは、ここまで見えてたからかい?」
「そう、ですね。多分、香車を振ってくるんじゃないかとは、思ってたんで」
驚くことに、二人の手はあっという間にニ十手も前の盤面を再現し、互いの戦術を再考し続けた。
だが、次第に男性からの指摘は消極的になり、苦く笑った。
「おめでとう、康晴くん」
「ありがとうございます」
男性は対局者と進行役に挨拶をし、足早に去っていく。その後を追うようにやってくる青年を、記者たちが待ち構えていた。
「葉沼康晴四段。おめでとうございます」
「……ありがとうございます。正式に発表されていないし、まだ三段で」
葉沼康晴、十九歳。奨励会所属のアマチュア棋士。
いや、たった今、プロになった青年。
彼もまた『異世界の勇者』だという話を聞いていた。情報元は、この前話を聞いた三枝圭太だ。
二十歳にも満たない年齢で、プロの世界を目指してしのぎを削る。そういう人間が異世界の勇者なんかをやる気になった経緯は、正直興味があった。
将棋関係のインタビューが一通り終わり、帰り支度を始めた彼に、信二は機嫌をうかがうように近づいた。
「葉沼さん、時間、いただいてもよろしいですか?」
「えっと、貴方は?」
「メールお送りした小谷野です」
彼は目を丸くし、それからほろ苦く笑った。
「篠原さんからも連絡貰ってます。試験終わった後なんで、今日は勘弁してもらえませんか?」
「もちろん。今回は顔見世程度のご挨拶なんで。とはいえ、これからはもっと忙しくなるでしょうから、できれば早めにお話を聞かせてもらえないですか?」
彼は快く承知して、数日後の休日に待ち合わせを約束した。
「お疲れ様です」
十時過ぎ、涼しい大気に満ちたファミリーレストラン。
彼はうっすらと汗をかきつつ、四人掛けの座席に向き合って座る。
窓の外は梅雨の合間の晴れ間。というには夏のような日差しが降り注ぐ、なんとも言えない暑さが支配していた。
「来てくれてありがとう。何でも好きなもの頼んでよ」
「俺も一応、プロですから、割り勘で」
「こっちが申し入れた取材だし、プロ棋士におごる機会は逃したくないから。遠慮なく」
そんなことを語りつつ、メモ用紙や録音機材を引き出し、取材の体裁を整える。
合間に、やってきた配膳ロボから、軽食を受け取りつつ尋ねた。
「篠原さんたちのサークルにも顔を出させてもらったから、大体の話は聞いてる。君を呼んだってのは、いわゆる有力者的な神様だったんだって?」
「そう、ですね」
彼はブラックコーヒーに口をつけ、なんとも言えない表情で告げた。
「"知見者"フルカムト、はっきり言っていけ好かない神でした」
「なるほど。だいぶ苦労したんだね」
「ただ、実力は本物でしたし、俺も、恩みたいなものがあります」
意外な回答に先を促す。
語られたのは、彼が異世界でたどった、数奇な運命についてだった。
「俺たち異世界の勇者は、自分の希望やアイデアを神々に提出し、それを神の力で加護の形に変換してもらえます。その結果生まれるのが、神器や神規です」
「弱い神様は魔法の道具やちょっとした能力を与えるだけ、と聞いたけど。君のは?」
「現実世界に、リアルタイムストラテジーのゲームシステムを適用する、っていって、わかりますか?」
彼の神が与えた能力は、世界を一種の戦略シミュレーションゲームとして扱えるようにしたものだった。
雇った兵士には、経験値を得てレベルアップする能力を、彼自身には好きな時点で、それまでの行動を『セーブ』し、『ロード』してやり直す力が与えられていた。
「セーブスロットはひとつだけでしたが、何度でも現実を巻き戻して、やり直すことができました」
「……いよいよ、とんでもないことになってきたな。そんなの無敵じゃないか」
「ただ、俺の中にはその時の経験と一緒に、過去の記憶も残るんで、大変でしたけど」
単なる作り話、としては真に迫りすぎた言葉。
彼は幾分か遠い目をして、興味深いエピソードを語りだした。
「高校一年の時、四段への昇段試験があって、落ちてしまったんです。舞い上がってたんでしょうね、手筋を打ち間違えて」
「……悪いが、少し調べさせてもらったよ。昇段試験に落ちた直後に、おじいさんが亡くなられたそうだね。そこから二年近く、君は将棋から遠ざかっていた」
「たった一月離れただけで、取り戻すのに半年はかかるとまで言われるのが、棋士の世界です。あの頃の俺は、将棋を捨てる寸前だったと思います」
だが彼は、二年のブランクをものともせず、見事に返り咲いた。
その『種と仕掛け』は、意外なものだった。
「"知見者"に、勇者として誘われた後、俺は報酬として指導を受けていました」
「将棋の、かい?」
「古い中国の物語に、仙人に碁を教わって、名人になる話があるそうですね。俺の方は、将棋でしたけど」
「……なるほど」
実際、彼の将棋は以前とは別人のようだ、と評する声が多かった。今回の昇段審査でも十五戦中十二勝という成績を収めている。
将棋自体にさほど興味のなかった信二の目から見ても、明らかに異常な結果だ。
「俺は、向こうの世界で大きな罪を犯しました」
「罪、というのは?」
「奇跡の力で人々の意思を捻じ曲げて、神の勇者の名で戦場に送りつけた。そして、最後には魔王軍に敗北した」
その背に想像もつかない重荷を背負いながら、青年は訥々と告げた。
「ここではない別の世界でも、神様に命じられたことだとしても、ゲームの駒として命を扱ったことは、忘れられないし、忘れる気もないです」
「君が負けた後、軍隊に従った人たちは?」
「分かりません。一応、敵の将軍に、見逃してくれるようには頼みましたが」
概要を掴み、こまごまとしたことを聞き終えると、信二は話の締めに、一つ確認をすることにした。
「ところで、君の軍隊が魔王の軍と戦ったのは、モラニアって土地なんだよね?」
「はい。それがなにか?」
「なら、百人の勇者を破ったっていう、コボルトの話は聞いているかい?」
なぜか彼は笑い、荷物入れから棒状の何かを取り出した。細長い袋から取り出されたのは、棋士の持ち物である扇子だった。
「俺が負けたのが、その魔物ですよ。確か、シェートって名前だったかと」
「……神様の勇者が、魔王の軍に?」
「"知見者"を倒すために、だそうです」
彼は見えない『誰か』に突き付ける様に、閉じた扇子を虚空に差し上げた。
それから、頷く。
「生まれて初めて"シンケン"に戦った。褒められたことじゃないですけど、あの場を経験したおかげで、何かが変わった気がします」
信二は礼を言い、そのまま彼と別れた。
手に入れた情報は、まるで現実感がない。その癖、語る青年たちの言葉や表情は、どこまでも実感にあふれていた。
「なんなんだ、この一件は」
見上げると、空はまた黒雲に覆われ始めていた。
拭い去れない暑気を泳ぐように、信二は街を歩み去った。