0、曇天を縫うように
それは六月の曇天。
小谷野信二は、蒸し暑さをこらえて、上野駅不忍口の高架下に歩み出していた。
時刻は一時過ぎ、じっとりと湿気を含んだ大気が不快だった。
明らかに、子供のころに感じていた『梅雨』ではない。雨が降っても空気は冷えず、中途半端なミストサウナのような、貼りつく熱気を含んだままだ。
日本が亜熱帯から熱帯になる、そんな話も現実味を帯びてきたらしい。
「よう」
ワイシャツにスラックス、片手にはブリーフケース。ネクタイこそつけていないが、長身で筋肉質の、あか抜けたビジネスマン然とした男。
この湿気の中でも、自分の価値も存在も棄損されない、そんな特殊加工をされたとでもいうような姿に、信二は苦笑いを浮かべた。
「隠しきれてないぜ、いろいろ」
「必要もないのに、何を隠すって言うんだ?」
しゃあしゃあと言い放つ相手に鼻を鳴らすと、青に変わった横断歩道を振り返りもせず歩き出す。
こちらは紺のポロシャツに麻のズボンで、それ以外はスマホと財布。同道する二人組としては、ぎりぎりちぐはぐではない程度。
「飲んでけよ」
高架脇の道を、繁華街のある方角へと歩いていく。アスファルトは湿気を含んだ黒で、ところどころ水たまりが残っていた。
「……そうだな。今日はもう、直帰にするか」
「そうしろそうしろ」
表面上ははつらつとした感じを装っていたが、友人の目元には、隠しようもない過労の影があった。
「苦労性のお役人に」
「気ままなフリーランスに」
持ち上げたジョッキを、打ち合わせる。
昼だというのに、かなりの客が群がった居酒屋の片隅で、乾杯の音頭を取った。
砂漠に迷った旅人のように、黄色の液体を飲み干す友人へ、信二はもう少しいたわりをこめて、尋ねる。
「ちゃんと休めてるのか?」
「今の日本で、ちゃんと休めてる省庁関係者がいるなら、俺が叩き殺してやるよ」
「……すんません! 生二つ!」
憂いを祓う百薬の長に応援を頼みつつ、小鉢に盛られたレンコンの煮物をつまむ。
やがて、二つのジョッキと一緒にやってきたつまみを、互いの間に並べる沈黙が、少しばかり続いた。
『次のニュースです。先月発生した未確認生物――いわゆる『怪獣』の消失事件に関する日米合同調査、第一回の会議が、ワシントンにて行われました』
アナウンサーの背景には、闇夜に浮かび上がる怪物。巨大に膨れ上がったヤツメウナギに翼を生やしたような『怪獣』が、存在感を示している。
東京湾はお台場の埋め立て地エリアに出現し、日本どころか世界を震撼させた『怪獣』は、その唐突な出現と同じぐらい、唐突に消滅した。
客たちの視線が一瞬だけテレビに視線へ移り、さざ波のような『意見表明』を引き起こして行く。
『合同ったって、連中何もしなかったじゃねえか』
『あの怪獣、アメリカの生物兵器って話だろ。だからあえて動かなかったって』
『むしろ中国の方だろ。あれ以来、米中で露骨にけん制し合ってるし』
対面に座った友人は、露骨に疲れ切った溜息を吐く。
これは相当な重症だ。
「河岸を変えるか? お前のおごりで」
「いや、ちょうどいい。愚痴に付き合え」
今度はいかにもまずそうにジョッキをすすり、言葉を継ぐ。
「怪獣発見から今日まで、三十連勤だぞ。本当なら今日で三十一連勤だった」
「……ブラックどころかコールタールだな。おつかれ」
「特に、『怪獣』のお台場上陸から三日間、ほとんど寝る間もなかった。議事堂、官邸、各省庁を何往復したことか。ついでにバンキシャ気取りのマスコミどもに振り回されて、散々だ」
最後の言葉に、ポケットからスマホを取り出し、ニュースを表示。
映像に映し出されたのは、ごま塩、ハゲ、白髪のスーツ姿が、記者会見場で一斉に頭を下げる映像だ。
「お前のところの仕事だろ。『災害対応の妨害行為に対し、テレビ局へ厳重注意』、ネットでも、めちゃくちゃ叩かれたな」
「実際には『注意』どころじゃない。怪獣の攻撃で破壊された施設や地主からも、かなり突き上げを喰らってる。人身御供に幹部クラスの首が、ダース単位で飛ぶ予定だ」
いくらか溜飲が下がったのか、友人は機嫌をよくして串盛りに手を伸ばしていた。
「怪獣と自衛隊って組み合わせがよかったんだろうな。最初から、自衛隊には好意的な意見が多かったし。特撮映画様様ってところだ」
「なんか笑っちまうよ。あれだけの騒ぎになったのに、事件による死者は無し。負傷者も嫌われ者のマスコミ関係者ぐらいで、なんかわからんうちに、怪獣は消えちまった」
「その後始末に奔走してる人間がいるってことを無視すればな」
だが、あまりにも大騒ぎだった事件当初に比べれば、極めて尻すぼみな結論。
怪獣は死体どころか存在した証拠さえ残さず、姿を消した。
「まさに『大山鳴動して鼠一匹』ってところか」
何気ない揶揄、のつもりだった。
それきり、会話が止まった。
無言でつまみを食い、酒を干すと、友人は立ち上がる。
「飲みなおそう。サウナに入って汗流してから」
「おお」
信二が会計を済ませ、そのまま連れだって御徒町駅へ。
その間もほとんど会話はなく、二人はいつものルーチンに従った。
サウナ、マッサージ、電車で移動し、大都会にありながら、どうということはないという顔をしている、のっぺりした街並みへもぐりこむ。
「で?」
終点は駅近にあるワンルームマンション。
間近に線路の高架を見下ろせる四階の一室は、遮光カーテンが引かれていた。
座卓が一つと冷蔵庫、ネットにつながるパソコンが一台。
「まずは飲んでくれ」
買ってきた缶ビールが差し出される。
その態度に不審なものを覚えつつ、壁を背にして座り、タブを引き起こす。
室内はエアコンが掛かり、程よい湿度と温度に保たれている。
防音は完璧で、電車の通り過ぎる音も、内側の会話も、一切通すことはない。
「終わってないんだ。なにも」
合皮のブリーフケースから、引き抜かれたもの。それは分厚く重い、資料の束だ。
「終わってないって、なにが」
「そういうのはもういい」
信二は舌打ちして、ファイルをめくる。この友人、いやさ『クライアント』がこういう態度をするときは、状況が煮詰まっている証拠だ。
思った通り、それは陳腐なほどの『極秘資料』だった。
冒頭にあるのは『未確認生物――A個体、並びにB個体群についての報告』。
「A個体ってのは、あのでかいミミズみたいなのじゃ……ないのか!?」
「五月十七日、早朝の東北自動車道で起きた『事故』、そこで目撃されたのが『A』だ」
添付された画像資料には、冗談みたいなものが映っていた。
黒々とした肉饅頭、的な代物。
幅広い高速道路を占有する、肉塊然とした表面には、無数の切れ目のようなものが走っている。
しかも、一枚目とは別の画像には、もっとおぞましいものが映っていた。
不揃いな牙の生えた、無数の口が何かを呑みこむ姿。
「こ、これって、戦車、か!?」
「陸自の話では兵員輸送に使う車輛で、配備されているものと酷似している。だが、砲身の構造が明らかに『改造』されていたそうだ」
「……盗まれて、使われた?」
その問いかけに、友人は答えない。
仕方なく先を読み進める。
その後、現場検証が行われ、宇都宮ICの職員に聞き取り調査や、防犯カメラのチェックも併せて行われたことが書かれている。
「……迫撃砲、ロケット砲、重機関銃、の痕跡。だが、残された薬莢、硝煙反応の異常な少なさか」
「『直接的な証拠さえ残さなければいい』と言わんばかりの、手際の良さだそうだ」
「それ以上に、職員の聞き取りも、ひでえもんだな」
ICに勤務していた職員へのインタビューに曰く、
『ちょうど交代の時間で、その後のことは知らない』
『移動中に腹痛が起き、別の同僚に一時的に後を頼んだ』
『そんな話は聞いておらず、定刻通りに交代が行われたと報告が行われていた』
『事件発生当時のカメラには故障が発生し、録画記録が残されていなかった』
その上、午前四時から五時という時間帯に関わらず、あらゆる流通関係車両、一般通行車両が『その日のその時刻は、東北自動車道をなぜか使わなかった』という報告がなされていた。
「空白の一時間、その間に出現し、異常を引きおこしたのが『A個体』だ」
「ひとつひとつは起こらなくもないケアレスミス、故障、個人の事情、そのすべてが一度に、示し合わせたように起こったって?」
示された異常な事実を、温くなった缶ビールと一緒に飲み下す。
そういえば、友人は『仕事』の時に酒を飲むことはないはずだった。
違和感の正体――こいつもこの事態を、受け止め切れていない、そう感じた。
そのままページをめくり、信二は後悔した。
「個体B群……こういうことか」
どこかの下水道の暗い穴蔵。そこにびっしりと産み付けられた『卵』の写真がある。
注意書きには『二十一日以降、B個体の産卵痕、並びに卵、消失』とあった。
「し、消失!? 卵はどこへ行ったんだ!?」
「その写真は、ある動画実況者が偶然撮影したものだ。その直後に、例のB個体がお台場に出現して東京都民の避難が始まった。写真の提出と確保は二十五日。現場検証は二十六日だ」
「……孵化、していたりとかは?」
「不明だ。痕跡も残さずに消えてるんだからな」
友人の言葉が、実感できた。
何も終わっていない、それどころか、絶望的な不安が横たわってしまった。
産み落とされた怪獣の卵が、この世界に残されたまま、行方も分からない。
「……ん? なんだ、これ。『要検証個体群』?」
「ああ、それも懸念の一つだ」
それは最初、ゴシップ週刊誌やネットニュース、個人のオカルト系動画のスクリーンショットから始まった。
深夜の繁華街に姿を現した『獣人』の話題。
チョッキを着たネズミと、帽子をかぶったトリのような姿。
「あったな、こんなの。その後、すぐに世間の話題は怪獣一色になって――」
だが、参考資料の内容に妙なノイズが混じりこみ始める。
最初に『獣人』が確認された場所に、個体Bも一緒に出現していたという『事実』だ。
その後、地下鉄の構内、奇妙な自転車の二人乗り、繁華街で起こった『銃撃戦』のうわさ。そのどれにも、ネズミとトリの存在が示唆されていく。
そのままページをめくろうとしたとき、友人が声をかけてきた。
「そこから先は、最重要機密だ」
「お前、そういう言い方は嫌いじゃなかったか?」
「そうだな。基本的に国家の機密なんてものは建前であるべきで、時世や状況が変わり次第、開示されてしかるべきものだってのはな。でも」
普段は決して、無茶な飲み方をしない男が、明らかに視界をよどませるほどに、アルコールの力を欲していた。
できれば、ここにあるすべての事実を『酒の席で見た妄想』にしたい、と。
「それだけは、可能な限り、知られないほうがいい」
「……おい」
「安心しろ。お前のことは信頼してる」
すっかり悪酔いした友人に呆れつつ、資料をめくる。
そして、絶句した。
「……何の冗談だ」
おそらく、現地で自衛隊が飛ばしたドローンによるものだろう。一枚の映像が大写しになっていた。
巨大な剣を振り下ろし、怪獣を断ち斬るその姿。
驚くほどにくっきりと、見せつける様に、ネズミの雄姿が映っていた。
「面白いことにな、現地で怪獣撃退のために集結していた自衛隊の面々が、不思議な声を聞いたそうだ」
「……なんて?」
「『刮目せよ、讃嘆せよ、喝采せよ』ってな。こうなる直前まで、謎の霧が覆って、地上どころか、監視衛星の撮影さえ不可能な空間ができたってのに」
唐突に表れた『異常な存在』、それらが残した痕跡。
怪獣発見の初報から今まで、日本の報道も政府も、情報を制限もせず垂れ流しをしていると思っていた。
とんでもない、彼らは本当に明かしてはいけないものは、ちゃんと隠していた。
「うちの『省』でも、平成っ子の比率が上がったおかげか、ネットの動きには早いうちから注目しててな。事実の相関関係で、ちょっとしたお祭り騒ぎだった」
「お通夜の間違いじゃないのか?」
「それは現状だ。そして明日にでも、地獄の黙示録もかくやって言う、戦場が待ってる」
資料の最後には、今後の政治的なイベントが羅列されていた。
そのひとつひとつに込められた意味が、日本という国に対する呪縛のように見えた。
「さっきのニュースでもやってたろ。日米安保条約を盾に、日米合同の検証が予定されてる。名目は『同様の異変が自国でも起こりうる可能性の調査』だが」
「まあ、わかるよ。『怪獣』だからな」
フィクションの世界から湧き出したような化け物。
あんなものを研究することができれば、何らかの受益を被ることができる。
いや、新しい情報というものは、ただそれだけで恐ろしい価値を持つ。
「随分虫のいい話だな。怪獣出現の時は太平洋艦隊どころか、沖縄でさえ動かさなかったんだろ?」
「中国やロシアを刺激したくない、というのが表向き。実際は連中が『世界の警察役』を降りたがってるってのが、大きいそうだが」
日米による事件検証開始が八月の下旬。
その後、共同声明という形で世界に情報発信がなされ、各国調査団の受け入れが予定されていた。
「ただ、中国、ロシア、EUから『待った』が掛かってな」
「アメリカに『おいしいところ』をさらわれてなるか、って奴か」
「こういう時に、きっちり『うちの問題だから引っ込んでろ』と言える政府だったら、よかったんだが」
その辺りの複雑な力関係や、国としての性質を含めた『立ち居振る舞い』に関しては、この場で何かを言えることもない。
友人は国益を担う立場で、軽々には口に出せないし、信二は結局、無責任な市井の人間に過ぎなかった。
「で、今回は煮詰まった国際情勢に振り回される中央官僚の苦労を、わざわざセーフハウスに友人を引き込んでまで、吐き出しに来たのか?」
「ちゃんと仕事の話もするさ。まあ……そのぐらいのささやかな『横領』ぐらいは、許してほしいとも思うが」
友人はブリーフケースから、別に用意してあった薄い紙束を手渡してきた。
それは、資料と呼ぶにはいささか、毛色が違っていた。
「……なんだ、こりゃ?」
「仕事だ」
そこに並んでいるのは、複数の人物名。
大半は高校生や大学生だったが、三十代以上の中年も入っている。
その連中の、共通項とされる、一つの呼称。
「『異世界の勇者』ぁ?」
ビールをあおり、アルミ缶を握りつぶすと、友人はアルコールと疲労で真っ暗になった目元のまま、うなった。
「そいつらの素性と背景を、洗ってくれ」
今回の掉尾の物語は、別の物語の掉尾でもあります。
現在連載中のれ・れ・れ、「REmnant・REvenants・REincarnation ~異世界転生日本人、魔界の最下層で生きていく~」の、五章の後日譚です。
地球人側から見た神々の遊戯、そして小倉孝人という模造人が引き起こした一件が、その後どう扱われたのか。
その顛末をお楽しみください。