0、掉尾を告げる者
どこまでも続く、一本の道があった。
短い起毛がされた床材は、通っていく者の足音を消し、静穏性を約束する。
その両脇には、壁のようにそそり立つ、本棚があった。
足下の一段目は、埃が掛らぬように空のまま。すねの辺りの段差には、普段取り出されない古い書物。
そこから上は、記憶の底から浮かび上がるように、頻繁に手に取られる書籍たちが、整然と並んでいた。
そして、その道の果てに、たたずむ女が一人。
「おや、ようこそおいでくださいました。新たな閲覧者」
微笑み、一礼する。
決して無礼にならず、それでいてへりくだるでもない、そんな薄紙一枚の差を思わせる所作で。
「我が『刻の書庫』へようこそ。私は館長にして司書の、イェスタと申します」
彼女の髪は背中に流され、額を出す形で結い上げられている。
身に着けているのは、糊のきいた白いカッターシャツに、首元を黒い棒タイで締め、身に着けた濃紺のベストが、胸元の豊満さを強調していた。
黒のズボンにあめ色に磨かれた革靴。
機能的で、それでいて身づくろいには余念がない、そういう衣装だ。
「それで、今日は如何なる御用でしょうか」
機嫌を伺うような問いかけ。しかし、その目は皮肉気な笑いに満ちていた。
「……いえ、もう存じ上げております。ご所望の本は、こちらですね」
それは、誰の目にも止まりそうもない、絶妙な位置にあった。
ほとんどの書籍が、その重厚さ、その長大さ、その豪奢な表紙を誇る中、それはいかにも、取るに足らない一冊だった。
革張りの、簡素な飾り文字に目が留まる。
「驚きましたか? 皆さまそう仰います。あれだけの回天を引き起こした出来事が、こんな一冊に収まってしまうものか、とね」
彼女は周囲を見回し、それぞれの背表紙に指を差す。
「天地開闢より続く、神と魔の騒乱の歴史。それは星の一巡りする間に、千の勲し、万の悲劇、億の物語が編み出され、ここに収められます」
それは文字通り『世界の記憶』だった。
ひとたび表紙を開き、その内に記された文字に意識を凝らせば、臨場の幻視が五感を刺激する。
「ですが、お探しの『とじめの遊戯』については、それしかありません」
とじめの遊戯。
神と魔の騒乱の果て、結ばれた約定に基づく儀式的な侵略戦争。
神々の遊戯。
その終わりを意味した、掉尾となる遊戯だ。
「ご懸念はごもっとも。天界全ての神々を巻き込んだ、巨大にして前代未聞の大騒乱が、そのような小さな書籍に収まるはずがないと」
司書は目を細めた。
笑い、焦らすように、口元を自らの指で蓋をする。
「ですが、それを語ることは、禁じられているのです。天界全ての神々の意思によって」
その反応が見たかった、とでもいうように、彼女は笑う。
天界全ての神々の同意を引き出す、そんなことが可能なのだろうか、という。
「お若き方、まだ晃じで間もなき、若やいだ天の一つ柱となられた方。その好奇心を、満たす方法が、たった一つだけございます」
彼女は書籍を自分の手元に戻し、その表面を撫でる。
唐突に、本が形を失った。
いや、周囲の空間そのものがはがれ、すべての形が意味を消失していく。
気が付けば、そこは文字の上だった。
自分自身が、巨大な本の一部として記載されていく。
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おわかりになりましたか。あなたは今、『本』に入られた。
あまたの神々に、忌まわしき記憶として閉じられ、ほんのわずかな神だけが、その記憶を愛おしみ、封じた『真実』。
それを読むためには、貴方を封ぜられた真実に、入れ込む以外はない。
すべてを知った後、貴方にも『沈黙の誓』を立てていただきます。
決して破ることのできない、破れば神とて蘇ることのない、消滅を代償として。
その代償が重いと感じられるなら、すぐさま本を閉じられればよろしい。
返答は、いかに。
「分かった。沈黙の誓を代に、すべての秘密を開示せよ」
承りました。
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世界が広がっていく。
目の前に何かが見える。
それは燃えていく、小さな村落だ。
生きとし生けるものすべてが、無惨に殺されていく光景。
虐殺を成した、青き鎧の青年。
そして、かざされた刃の先で、今まさに死にゆこうとしていく、一匹の魔物。
「では、語りましょう」
無惨に、あっけなく、ただの死体と成り果てる、犬のような存在。
取るに足らない、どこにでもある討伐の光景だ。
「神の愚行を白日に晒し、魔の企てを破却せしめた者」
だが、すべてはそこから広がっていく。
死して朽ちたはずの魔物が、孤独に立ち上がり、世界に挑む声が、あらゆるものを揺るがすように、木霊する。
「最も弱き叛逆者、その真実を」
その声は響き渡り、あらゆるものを揺るがしていく。
世界が叫び、何もかもが、いつわりと虚飾をはがされ、真実を露わにしていく。
青き鎧の勇者の死。
百人の英傑たちが討たれていく。
魔物の軍が勇者の陣を破る。
空を行く魔王の城を砕く青く幼き翼。
世界を書き換える力を、無力なまま押し破る蛮勇。
二度目の死を超えてなお、先を目指す姿。
天地をガラクタと化しめんとした、道化の魔王を調伏し。
そして――。
「ですが、これは真実のまだ、ほんの入り口」
これまで信じていた、すべてが崩れ去る感覚。
神々の取り澄ました顔の裏に、驚くべき愚行と、敗北と、それをもたらした者への嫌悪と、対を成すような思慕があった。
その全てを越えた先。
「最後までご覧ください」
司書が指さす先に、何かが見えてくる。
それは森の中を進む、一組の旅人。
「ここより始まる、拾遺と、別離の物語を」