第五十八話
毎週木曜日に投稿します。よろしければ読んでみて下さい。
風はイリスの体を荒ぶるように駆け抜けるほど強く当たってきた。イリスはその風を堪え切り立つ大地の先を見た。
「―水が・・・・・・」
イリスは言葉を失い、ただその眼下に広がる膨大な水の動きを見つめていた。水は遠く黒ずむ空の境目まで満たされ、何処までも平らに見えたが、微かに蠢く何かを潜めているかのように見えた。
「―・・・・・・」
崖の下を見るとその一端が現れているかのように、ドーン、ドーン、という音と共に波が岩に叩きつけられていた。イリスはこんな消魂しい水の流れを知らない。
波の先は白く濁り、イリスのいる崖の岩を削り落とそうと、這い上がっては幾重にも重なり、繰り返す騒めきはイリスを絶望に陥れた。
―ここは何なのだろう。世界は”闇”の手に落ちたのだろうか?
こんなにも、水の手が広がっているのなら、ランドールは一溜りもない。
「・・・・・・」
イリスは下から湧き上がる音に圧倒されたように、その場にへたり込んだ。
「―昔、我らはそのように希望を失い、力を落とした」
イリスはその声に振り向き身構えた。リディアの姿をした者は、遠い目をして、そこに立っていた。
「それは、一瞬の事。瞬きも許されない時間だった」
「お前は何者だ?!何が目的なんだ!」
イリスは恐怖に負けじと叫んだ。その様子見て、“闇”の者は可笑しそうに歪ませた。
「―本当にお前は心の強い子供だ。私達の様々な声にも、とうとう耳を貸さなかった。今でも怖いだろうに声を出す勇気が残っているとはね。まあ、それも精一杯だろうがね」
「姉さまをどうしたんだ?何故お前が乗っ取っている!姉さまから出て行け化け物!」
「この娘は自ら望んだのだ。森の奥で見失った恋人を探すためにね」
シェルシード・・・・・・。イリスは森の中で出会った彼の事を思い出した。どうして彼は森へ?姉さまは何故シェルシードを追わなくてはならなかったのだろう。ランドールに何があったのだろうか。
「―娘を我の者にするのは簡単だった。我らが取り込もうとした時には、娘の心は不安で荒み切っていたからな、今のお前の様に」
”闇”はそう言うと、いきなり手を伸ばし、イリスの首を両手で抑え込んだ。
「―ランドールがどうなったか、知りたいか?」
・・・・・・ドクン。イリスの血の全体が恐ろしいほど脈打つ。
「・・・・・・っ!」
イリスは苦しそうに首を振った。
ドクン・・・・・・体の中から心の音が響く音がする。“闇”は容赦なく圧迫を続けた。
「ランドールは・・・・・・」
その“闇”の言葉が始まると同時にイリスは声を上げた。
―ヴェル・ダモス・イノウヴェン・バリアモン
重く重なったその声はイリスの口から、空へと幾重にも分かれて響き渡った。その声を上げるとイリスは力尽きたように、”闇”の手から離れ倒れた。
”闇”は倒れ込んだイリスをしばらく不思議そうに眺めていたが、やがてイリスに変化が現れないところを見て彼に近付いてきた。
ヴァー・・・・・・上空から鳥の声と同時に、ソルヴェイグがイリスの前に立ち憚った。ソルヴェイグはイリスを守るように翼を広げ、再び声を上げる。
「無駄な事」
”闇”の者はソルヴェイグの動きより早く彼女の喉元を掴んだ。
ヴァー!ソルヴェイグは叫び声を上げていたが、その声を最後に、首をぐったりと垂らしたまま動かなくなってしまった。
「お前の体は、よく知っている。もう二度と飛ぶことも叶うまい」
“闇”の者は彼女を物の様に放り投げた。そして、再びイリスに近付こうと試みた。
「―その者は、お前の望むものではありませんよ。インシュハード・カ・ダン」
“闇”の者は、その声を聞いて手を止めた。霧は既に取り払われ、光は彼女の姿を鮮やかに映し出した。
「ソルヴェイグ。森から、そなたが出てくるとな」
ソルヴェイグと呼ばれた者は、草地に横たわる鳥を労わるように抱き上げた。
「―我々の時代は遠い昔に終わりました。今尚も生き続ける私達は何者なのでしょうね。もう世界はこの小さき者達のもの。帰りましょう、カ・ダン、この子も私達も全て土の下へと消えて行くもの。いつまでも、遠い記憶に縛られるものではありません」
「人の時代になろうとも、我らは彷徨い続ける」
インシュハード・カ・ダンはリディアの瞳を赤くして答えた。
「この子には、もう、あなたの望む言葉を唱える力はありません。先程の呪文で、その力を失ったのです。あなたの願望は二度と叶う事は無いでしょう」
「―永遠に光無き世界を想像してみるがいい。第二の太陽が再びこの世を覆わなければ、この苦しみは無くならない。第二の太陽が生まれた日・・・・・・我らの苦悩は、あの終わりの日に始まったのだ」
漆黒の翼がカ・ダンの肩に舞い降りる。カ・ダンの暗い影は黒い鳥の色と同化していくように深い闇に染まっていった。
「理解は出来まい、ソルヴェイグ。お前も我々と同じ運命を辿るだろう。その時我らと同じ嘆きを知る事になる」
そうカ・ダンが言い残すと、羽音と共に黒い鳥は飛び立ち、灰色の彼方へと消えて行った。
「・・・・・・」
ソルヴェイグは水白草の中で、横たわるリディアの髪に手を差し伸べた。身体を解放されたリディアの顔は既に死者のものだった。青白いその顔をソルヴェイグは優しく撫でながら、その乱れた髪を、リディアが一番美しいように整えてやるとソルヴェイグは悲しそうに目を閉じた。彼女の涙と共に、岬の風が狂ったように吹き荒れる。
「・・・・・・」
ソルヴェイグの唇に嘆きの声が漏れる。その声は先の時代の全ての人の哀しみでもあった。




