第五十六話
毎週木曜日に投稿します。よろしければ読んでみて下さい。
「―・・・・・・」
彼女の髪は乱れ、ほつれた麻のように広がっていた。淡い髪は何処までも長く靡き、イリスは自分に、その髪が絡みついて来るような錯覚に陥った。
「・・・・・・姉さま、どうしてここに?」
イリスは泣きそうになった。あなたは此処にいる訳がない。優しい顔で城の中で過ごしているはずなのに。
「・・・・・・」
彼女は何も答えない。白い彼女の薄衣は汚れ、その姿は墓から這い出してきた死人のようだった。彼女に何があったというのだろう。
「聞いてるの?答えてよ!姉さま!リディア姉さま!」
イリスは不安になりながら叫んだ。生気のない姉の顔に以前の彼女の姿が重なる。イリスは真実を否定した。違う、絶対違う。こんなのあんまりだ。
「―・・・・・・イリス」
その時リディアの口から声が漏れた。
「―・・・・・・!」
イリスは姉の表情を見て、全身に戦慄のようなものが走るのを感じた。
―本当に”闇”の者なら、全身でその者の存在がわかる。この者は”闇”だと。
激しい動悸の中、イリスの頭に鮮明にトマの言葉が響いた。目を見開いてリディアの変貌を見る。これは彼女であって、彼女ではない。姉の顔を借りた死の使いだ。
―君は本当の”闇”を知らない。
イリスは嘆きに近い声を叫んだ。急いでこの場を離れなくてはならない。
「・・・・・・!」
イリスがそう思った時には、既に霧が濃さを増して彼を取り囲んでいた。振り向けば、トマの小屋の影すらない。背中越しに、リディアが近付く衣擦れの音がする。イリスは迷わず小屋の方向へと駆け出した。
―こんな場所にまさか来るなんて。
イリスは敵を背中に感じながら、自分の迂闊さを呪った。この場所だからこそ、”闇”が来たのだろうか?僕が一人になるのを待っていたのだろうか。もしそうだとしたら、イリスは霧の向こうに、小屋の影すら見当たらない事が既に”闇”の罠に陥っているように感じ始めた。
イリスはトマの言った正しさを噛みしめていた。僕は”闇”を恐れるあまり人を信じる事が出来ないでいた。この結果がこれだ。友を傷つけ、自分の身も追い込まれている。
人を見る目が欲しい。イシュマール様の教え通りに、僕はそんな人間になれるだろうか、自分自身を治める王に。
この数日、色んな人が自分に大切な事を伝えてくれた。その時はわからなかったが、そのどれもが大切なものだったのだ。
―負けるわけにはいかない。如何なる声が僕を惑わそうとも僕は二度と”闇”の声に屈しる事はない。
「・・・・・・?」
何かドーン、ドーンと叩きつけるような音が近付いてきている。いや、違う。自分が進んでいる方にその音が存在しているのだ。引き返すわけにはいかない。危険は後ろからも迫っている。
―どうすれば・・・・・・。イリスが考える間もなく視界は次第に明確なものに変わっていった。霧が晴れた向こう側には、暗い空を上に緑の草地が広がっていた。灰色の岩が転がる草地は意外に広く、草地の先は空の途中で逆上がりに途切れていた。先程の音のもとは、その下から響いているようだった。イリスは恐る恐る、引き寄せられるようにその方向へと進み出た。




