第五十三話
毎週木曜日に投稿します。よろしければ読んでみて下さい。
「こっちに来るな」
イリスは、その間にも、じりじりと尻と足を使って身体を動かし続けた。肩が後ろの壁に触れた時、イリスはこの場所から、彼から逃れる術がない事を悟った。イリスには次の行動に移す余裕は無かった。ただ、死の間際に見せる生命の本能のような色がイリスの瞳にギラギラと映っていた。
トマはイリスの表情を醜いものを見る哀れみにも似た目で見ると、その場を離れ囲炉裏の傍へと腰を下ろした。
「―アイン・フォード様も“闇”の者ではないと言ったら君は信じるかな?いや、その様子だと僕の言う事など、信じるわけがない・・・・・・。君は”闇”を恐れるあまり、仲間を信じる事が出来なくなってしまっている。―”闇”は今の君を待っていた。この状態に陥った君を」
イリスはトマの責める視線に思わず顔を背けた。
「―わからない、わからないんだ。トマ、君が味方なのかさえ、今でさえ君を信じる気持ちと疑う気持ちが、僕の中でぶつかり合っている」
イリスは苦しそうに手で顔を覆った。
「―そして、いつかは君を疑う気持ちの方が僕の心を占める。いや、きっとそうだ。現に僕は君を疑う気持ちで一杯だ」
「僕は“闇”の者じゃない。”闇”は一見それとはわからない。けれど、傍に居れば必ずわかる。イリス,、君はまだ”闇”を知らない。本当に“闇”の者なら、全身でその者の”闇”の存在がわかる。この者は”闇”の者だと。その感覚は出会ったものしか分からない。本当に違うのだと。君に憑りついているのは、まだ小物さ」
「トマ、何を証拠に僕に信じろと?どうやって?確かなものが僕には無いんだ。君は依然と変わらなさすぎる。変わらなさ過ぎるのに。それだけでも、十分信じるべきなのに。僕は君の心の内を探っている。頼む、僕を誰にも居ないところへ逃がしてくれ。僕は誰も疑いたくないんだ」
「・・・・・・」
トマは深い溜息を吐くと、言葉を失ったものの様に口を閉ざし続けた。彼はその間、声をかける言葉を探しているようにも見えた。彼は手を動かしイリスの食べ物を囲炉裏で作っているようだ。
イリスは彼が傷ついているのがわかっていた。トマの様子を見ていると彼は“闇”の者では無いのだろうと信じたい気持ちが強くなってきた。イリスは本当は彼を信じておきたいのだ。
―あれが奴らの手口だったらどうする?
イリスの心に再びじわりと疑念の声が湧き上がって来る。その感覚は何か汚いものが自身の胸の中で這い上がって来るものに似ていた。
―こうしている間にも、手遅れになっていくんじゃないか?
その心の声と共に、イリスの胸は次第に息苦しいものへと変わっていった。心音は辺りの音をかき消し、暗い思惑だけがイリスの心になだれ込んで行く。イリスは耐えきれず膝をついた。イリスは苦しそうな声と共に溢れる涙を拭い続けた。それは、どんな言葉よりも、彼の悲しい心を伝えていた。
「イリス、イリス、大丈夫だ、大丈夫だよ。人を疑う事に対して君は涙を流すことが出来る。それは、”闇”と戦う唯一の手段だ。彼らの声に耳を傾けるな、イリス。その声は君を惑わせるだけだ。人を信じる心を取り戻すんだ。君はそのままでいると、”闇”に取り込まれる。自分を取り戻せ!」
トマの声はイリスの心に信じさせる真摯な言葉だった。目の前に立つ友人の何処に”闇”の影があるというのだろう。そう思い始めたイリスの心に再びそれは声を荒げてきた。
「―うるさい、黙れ黙れ!」
イリスは目を手で覆いその声を退けようと声を上げた。
「・・・・・・」
彼はしばらく苦しそうに顔を歪ませてが、やがてパッと目覚めたように突然顔を上げ、そして、自身を落ち着かせるように深い溜息をついた。
「―さっき、僕に聞こえていたのは”闇”の声なの?トマ、君を疑うように叫んでいた・・・・・・」
イリスは辛そうに目を閉じた。
―自分の心の声のようで、全く別のもののようだった。それは、疑いの気持ちが湧き上がると、心に差し込みじわじわと希望のようなものを、握りつぶしてゆく恐ろしいものだった。
「その声の言いなりに従っていたら、心は暗いものへと変わり、その心に”闇”は簡単に入り込んでゆくんだ。あの声に耳を貸した人間は”闇”へと堕ちるのさ」




