第三話
毎週木曜日に投稿します。よろしければ読んでみて下さい。
螺旋階段を一気に駆け下りたら、目が回って頭がくらくらする。イリスは階段の途中で、ほんの少し目を閉じてふらつきが治まるのを待った。
「イリアス様」
そんな彼を、背後から呼び止める者がいる。イリスは、その声だけで、誰がそこに立っているのかを理解し、顔を強ばらせた。イリスを愛称ではなく本名で呼ぶのは、ただ一人しかいない。イリスの乳母ハイシュタット・ランズベールだ。
「イリアス様!」
ハイシュタット・ランズベールが、ますます声を荒げるので、イリスは慌てて振り返った。かがんぼの様に細い腕を腰に当て、大きな鼻を震わせて、ハイシュタット・ランズベールは威厳をもって、そこに立っていた。
「イリアス様、どちらへお出かけです。今日の午前中は、薬草学の勉強ではありませぬか?」
彼女のソプラノの声は怒りで震えている。
「・・・・・・」
イリスは,上目遣いに彼女を見上げ、考えた。ハイシュタット・ランズベールが答えを待つ間もなく、その行動はすぐに実行された。
「イリアス様?!」
イリスは、ハイシュタット・ランズベールの叫び声を背に、階段を二、三段飛ばして降りて行き、彼女が長ドレスの裾で、もたつくのを尻目に、あっという間に、逃げ去って行った。
「芋の山の夢でも見そう」
今年十六になるリオン・ランド・シータは芋の皮を剥きながらそう呟いた。彼女の目の前には無数の芋が転がっている。リオンの周りには、三人の姉達が、同じ様に芋の皮むきをしている。姉達は上からリディア・ハイ・ランド、リノス・ロード・ランド、リア・ファー・ランドという。ランドールの姫君達で、リオンは姫君の中で一番下だ。彼女達は今、明日に控える祭りの為の料理の下ごしらえをしている最中である。姫君とはいえども祭りの準備はたくさんの手が要る、手伝うのは当たり前だった。
「おや、リオン、疲れたのかい?」
姉妹で一番背の高いリノスが、リオンの声に顔を上げた。
「もう当分芋は見たくない」とリオンが零すと「同感」とリアも賛成した。彼女達の指は、傷があちこちに存在し見ていても痛々しいほどだった。
「早く剥かないと終わらないよ。二人とも、口よりも手を動かしな。特に、リア頑張りな」肩越しですっぱりと、切り揃えられた、リノアの髪が可笑しそうに揺れる。
「人には得手不得手があると思うのよ、姉様」
リアは溜息に近い口調で呟いた。
「リアは丁寧なのはいいけど、遅いんだよ」
「姉さまに言われたくない。姉さまは速いだけで所々皮がついたままよ」
とリノスを不服そうに上目遣いで見た。
「これも良い味になるんだよ。今必要なのは速さだよ、リア」
リオンは二人の会話を聞きながら手を動かし続けた。彼女はリアのように遅くなく、リアのように雑でもなかった。もう六年も祭りの度に、芋を剝いているのだから、この作業に慣れていた。それでも、彼女の手は傷ついていた。剝く芋の量が彼女の限界を超えているのだ。あかぎれも重なって、リオンの手は真っ赤だ。毎年変わらない姉達二人の様子を見て、リオンは、いよいよ明日祭りがあるのだなあと思いながら、ふと、一番上の姉リディアを見た。リディアは、会話には加わらず、忙しげに包丁を動かしていた。リオンは、その彼女の動きを、尊敬のまなざしで見つめた。なんと器用な動きなのだろう、自分の三倍の速さが目の前にある。
「・・・・・・どうかしたの?リオン」
リディアは、見つめられていたことに気づき、ようやく顔を上げ妹を見つめた。
「伝説の美女の芋剥き姿を見ているの」
「おかしな娘」
リディアは、少し恥ずかしそうに微笑んだ。彼女の優しげな雰囲気は、笑うと、より一層穏やかに膨らむ。彼女達の母親の美しさの恩恵を、一番受けているのは、彼女なのだ。リディア・ハイ・ランドの美しさは隣にあるイスターテにも噂されていた。雪の地平線に、蒼く映える冬の空を思わせる瞳は、水面に揺らぐ星々の光を湛え、日の光を受けて、柔らかく滲む栗毛は、彼女の踝まで靡き、その姿は宵の女神を思わせる。国の者で、彼女に憧れる者は数多い。しかし、リディアには、すでに決まった人がいた。それは、周知のとおりなので、誰も思いを口にする者はいなかった。たった、四つしか違わないのに、この差はなんなのだろう。リオンは、自分と姉との差に、いつも溜息を漏らしてきた。自分にも、いつかあのような姿になる日が、来るのだろうか。そうなって、欲しい。そうすれば、あの人も振り向いてくれる・・・・・・。
リオンにも、想い人はいる。リオンとイリス達の教師であるイシュマールという学士である。学士とは、ランドールに農業、建築、医学等のあらゆる知識を、授けてくれる人々のことで、国中の人が、知識の源として彼らを信頼し、敬い崇めていた。彼らは、この国の者ではない。商人と同じく、森からやって来る。イスターテと呼ばれる場所から来ているという事以外、誰も彼らの素性を知る者はいない。学士は、人々に必要な知識のみを伝え、それ以外の情報は、与えない。学士の個人的なことや何もかもが、語られる事もあまりない。学士は、自身の事を語る事を、禁じられている。国の者も、学士にあまり尋ねることをしない。それは、ランドールの決まりのようなものだった。必要以外の知識を手に入れる事は、この国にとって、最大の禁忌であった。知識に、深く踏み入れると、災厄が降りかかる。ランドールの人々が、一番に恐れたのは、この与えられた世界以外を知る事だった。イスターテは、知識の守り役といわれている。そこには、いくつもの知られざる知識が眠っており、その知識は人には扱いきれないものが多く、そのほとんどが、災厄の原因なのだという。学士の仕事は、その知識に触らない範囲で、人々の生活に役立つ情報を与える事。学士はそれを忠実に守り、必要以外の事に対し、固く口を閉ざしているのである。
だからリオンは、イシュマールの年齢も知らない。彼の今までの人生も。彼が学士である事以外は、何も知らないのだ。彼に奥さんがいる事以外は。
「・・・・・・」
リオンは、イシュマールの妻ソルヴェイクのことを思い出すと、険しい表情を作った。
―あの人というべきか、あれさえいなければ・・・・・・。