歯
酩酊の末に酷い千鳥足で駅のホームを歩いていた。
ベンチに座り、左右の座席に手を回す。時刻は19:54。
二つ隣の座席に、ふと目が留まった。
青い座席の真ん中に、白く小さな何かが置いてあった。
──歯だ。
先程まで体に収まっていたアルコール類が何処かへと消え失せ、真っ当な思考が呼び戻される。
思わず二度見したが、紛う事無き歯であった。それも奥歯。
黄ばみで薄汚れた奥歯が一つだけ座席に置かれたまま、周囲にそれらしい持ち主は見当たらない。
気味が悪いので、着た電車に直ぐさま乗り込み、視線を座席から外し、眼を閉じて意識が霞ゆく事を切に願った。
翌日、昨夜の出来事が夢では無いことを知る。
スーツのポケットにある小さな異物。徐にそれを手に収めたばかりに、意識が何処かへと行ってしまいそうな感覚に襲われた。
──歯である。
黄ばみ、薄汚れた歯は、紛う事無き昨日の物と同一であり、何故これがここに存在するのかは、全くと言って良いほどに説明が出来ないし、落ち着きを取り戻すだけの時間も足りないだろう。
しかし、無情にも出社時間は刻々と迫ってゆく。その異物をティッシュに包み、ゴミ箱へと投げ入れ家を飛び出した。
勤務時間は慌ただしく、激流の如く過ぎ去って行き、時刻は昨日と同じ、そして今日はノンアルコール。
駅のホームは昨日と同じく人も疎らで寂しい風が吹いている。
昨日の座席に目をやらぬように、意識的に目を逸らす。ホームの柱にもたれ掛かるように競馬新聞を読み耽る浮浪者らしき男をじっと見つめ、俺は電車を待つ。
男が競馬新聞を読み終わり、頬杖を突くように、頬に手を当てた。その仕草に思わず奥歯の痛みを連想してしまい、男から目を逸らし下を向いた。
カラン、と、空き缶が転がる音がなり、そちらを向くと、炭酸飲料の空き缶が風で転がっていたが、それよりも意識は昨日の座席へと向かってしまった。
それは芋虫程の大きさで、奇妙な反りも間のシワも、紛う事無き存在感を放ち、悍ましいほどの現実感でそこに居座っていた。
──指だ。
身の毛もよだつ程の悪寒が全身を駆け巡り、俺は思わず人を探した。
丁度ホームに上がってきた中年男性に駆け寄るも、事情を話すことが出来ないほどに緊張しきっており、男性は頭を傾げながら例の座席の方へと近付いた。
そしてその男性が座席を見て座った。どうやらその男性が見るには何も無かったらしい……。やはり見間違いではないかと、自分に言い聞かせ、待ちわびた電車の到着に胸を撫で下ろした。
スーツのポケットの上からでも分かる感触。体が強張り、口が開かなくなるほどの悍ましさを感じた。
スーツを荒々しく丸め、ゴミ袋へと投げ込み、他のゴミと一緒にゴミ捨て場へと捨てた。これでお別れだと言い聞かせながら……。
朝は人が多く、駅はいつも通りであろうと思いながら、今日も揺られながら出社する。
昨日今日の恐怖も、仕事が始まれば忘却の彼方へと押しやられ、多忙に身を任せられる。
日が傾き始めると、帰りを意識してしまい、行動が落ち着かなくなる自分に苛立ちを覚えながらも、無事、その日の業務は終わりを告げてしまった。
帰りはタクシーで帰ることにした。
どうしても、駅に行くことが出来ず、何より誰かと一緒に居たいと思う気持ちが勝ったのだ。
タクシーの中は暫し無言で、恐らくは緊張と強張りで運転手が声を掛けにくかったのだろう。本当なら明るい会話で気を紛らわせたかったが、今は自分から会話を切り出す元気も無い。
自宅前へと着くと、5000円札を取り出し運転手に手渡した。
そしてバッグを取ろうとした時、座席の下にあったソレに目が行ってしまった。
──足だ。
足首から下、素足が一つ、ゴロリと座席の下に落ちている。
親指の赤いマニキュアがやたらと目立ち、声も上げずにタクシーから逃げ去った!
その日はそのままベッドに潜り込み、靴下やズボンを放り投げて無理矢理眠りに着いた。
翌朝、放り投げた靴下の片方がやけに膨らんでいる事に気が付いたが、最早確認も何もする気が起きず、触れること無く放置した。
このままでは気が狂ってしまうのでは無いかと思うくらいに、頭の中は酷くヘドロがうねっており、剥がしかけのシールに爪を立てるように無理矢理記憶を追いやり仕事に臨んだ。
帰りに後輩と飲みに行った。飲んで忘れようとやたらと酒を体に入れた。
そして、帰り道も駅まで後輩を連れて行った。連れて行ったと言うよりは、なり振り構わずお願いした形だ。当然飲み代は自分持ちだが、それでも後輩は渋い顔をしていた。まあ、使わない駅まで付き合わされたら誰でも嫌だろう。まるで見送りを強要されているようで気分は滅入るし、何より酔った人間のお願いと言うのが何より癪なはずだ。
酒が回っている為か、昨日よりはマシな気分だが、それも直ぐに終わりを告げた。
ホームに上がってきた老人の右手、本来あるはずの人差し指が無いことに、何というかあざとく気付いてしまったのだ。
「先輩? 顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
後輩の問い掛けに、空返事で返すも、最早そこに冷静さの欠片すら残されてはいない。
エレベーターが開く音が鳴り、車椅子の女が現れた。可愛らしい熊の膝掛けがヒラヒラとなびき、片方だけの靴と、その隣の空間が、俺の理性にとどめを刺した。
「先輩! どうしました!? 顔色がおかしいですよ!!」
ガタガタと歯が振るえ、その場に居ることが耐えられなくなった!
「スマン、もう耐えられん! その座席を見てくれ!」
例の座席を強く指差し、後輩に見に行かせた。
「……何も無いですよ?」
その言葉を信じ、座席に目をやると、黒いモヤが目に付いた。
──首。
確認するまでも無く座席に置いてある物体を確信すると、後輩の呼び止める声を背に、ホームの階段を降り何処かへと駆け出した。
そしてそのまま走り続け、近くの川に身を投げた。
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