最悪のタイミング(1)
薫は町のケーキ屋で、パティシエの仕事をしていた。
その店は『フルスイーツ』という名前で、薫の家から十五分程度の距離にある。
売り場の隣には飲食スペースが六席もあり、それなりに大きなケーキ屋だった。
コック服姿の薫は冷蔵陳列ケースの内側で、客の対応をしていた。
「ショートケーキとチョコケーキとモンブランですね。ありがとうございます」
会計を済まして次の客へと移る。
「次、フルーツタルトと苺のミルフィーユをお願いします」
「はい。桃子さん」
長い髪をアップにし、店名の入ったエプロンドレスを付けた桃子が、飲食フロアの注文を薫に告げながらカウンター内に入る。
そして、桃子は薫の代わりに明るい笑顔で接客を始めた。
「後ろ失礼します」
桃子の後ろを通る時に桃子のうなじが見え、薫は目を奪われる。
しかし、桃子から無理やり視線を外し、薫は洗面台に向かった。
桃子はこのケーキ屋のオーナーの娘で、学生時代からずっと店で働いている。
薫と桃子が出会って六年ほど経つが、桃子は大学を卒業してから色っぽさが増した。
薫より身長が低いのは高校生の時のままだったが、全体的に少しムチムチとしてきた。
桃子は太ったと落ち込んでいたが、むしろ学生の時が痩せすぎだっただけで、現在は柔らかそうでちょうどいい感じだ。
食べ物を扱うからと長い黒髪をアップにしているが、キレイなうなじが見え、さらに色気を感じさせていた。
天真爛漫という言葉が似合うただの子供だった桃子の予想外の成長に、薫は驚きと胸の高鳴りを感じている。
手洗いを済ませた薫は、フルーツタルトと苺のミルフィーユの盛り付けを始めた。
飲食スペースで出すスイーツは、ただ皿にのせて出すのではなく、特別な盛り付けをしてから出すことになっている。
薫は皿にフルーツタルトをのせ、生クリームを添えた。
イチゴソースとベリーソースで赤と紫のラインを引き、曲線を描く。
ミルフィーユには生クリームを添えた後に三種類のベリーを盛り、その上から粉砂糖をかけた。
「桃子さんお願いします」
「はい」
フルーツタルトとミルフィーユをトレーに載せ、桃子が運んでいく。
桃子がいなくなったので、再び薫が持ち帰りの客の応対を始めた。
薫はパティシエだが、桃子一人で対応しきれない時は、薫が店頭に出て接客する。
今日は珍しく午前中から飲食スペースが満席になり、桃子がそちらにかかりきりになっているので、薫が持ち帰り客の対応をしていた。
ちょうど客が切れたので、薫は厨房に入り洗い物を始める。
厨房ではオーナーのパティシエ、つまり、桃子の父親がチョコレートのホールケーキを作っているところだった。
オーナーは厨房で仕事をしていると寡黙になる。
厳つい顔が合わさると客が恐がるので、オーナーが営業中に厨房から出ることはない。
見た目は中肉中背だが、服の中は筋肉でガッチリしている。
パティシエは力仕事で、自然と筋肉が付いてしまう。
しかも、この店のパティシエはオーナーと薫の二人だけなので、オーナーは常にケーキを作り続け、ますます筋肉が太くなっていっている。
人が足りてないよな。
薫は洗い物をしながら、しみじみと思った。
先月、バイトが一人辞めた。
辞めることは前から決まっていて、新しいバイトの募集をかけていたのだが、ついに間に合わなかった。
この一か月、なんとか三人でやってきたが、体力的に厳しくなってきていた。
洗い場から売り場を見る。
厨房と売り場はガラスで遮られていて、厨房からでも売り場の様子が分かる。
見ると、ちょうど子供連れの客が入って来るところだった。
薫は手を拭き、すぐに売り場に戻る。
「いらっしゃいませ」
女の子は母親の横で、キャッキャと浮かれながらケーキを選んでいた。
薫はそれを微笑ましく見ていたが、女の子からうっかりあの変態王子を思い出して、ゾゾゾと寒気を感じた。
腕を擦りながら頭を振って、薫は王子の顔を頭から追い出した。
「すいませーん。チョコケーキとチーズケーキとイチゴのタルト下さーい」
女の子が注文をしてきた。
「はい。かしこまりました」
薫は笑顔で返し、ケーキを箱に詰めていく。
「千三百円です」
「これでお願いします」
女の子の母親が二千円を出す。
金を受け取り、薫はケーキの箱とお釣りを返す。
なんとか笑顔を顔に貼り付けたまま客あしらいをした。
「ありがとうございます」
薫は女が苦手だったが、接客は性別のない客という生き物だと思い込むことで、なんとか笑顔を保っていた。
母親と子供は手を繋ぎ、店を出て行く。
その姿を視線で追って店の出入口を見ていると、地面を這っている白くて細長いものがチラリと見えた。
薫はぎょっとしてよく見ようとカウンターに手をついてのり出すが、薫の位置からは死角に入り、白くて細長いものはすぐに見えなくなった。
「あいつ……」
一瞬のことだったが、さきほど変態王子を思い出していたのもあって、薫はすぐにヴィーゼルだと分かった。
「何でここに」
薫は慌てて店を出ようとするが、飲食フロアからガヤガヤと大勢の客が出て来た。
どうやら精算のようだ。
カウンター内に留まり、薫は客がレジに到着するのを待った。
飲食フロアのほとんどの客が出て来たようで、薫は立て続けに会計をしていく。
やっと客が途切れ、今度こそ外に出ようとしたら、飲食フロアから桃子が戻って来た。
「これで飲食フロアのお客様、全員会計済みです」
食器をトレーに載せて、桃子がカウンター内に入って来た。
「はい。分かりました」
桃子がいてはヴィーゼルを確認しに行くことは出来ない。
魔法少女のことは、桃子やオーナーには死んでもバレたくなかった。
今はヴィーゼルを無視するしかないだろう。
そう薫が思った時だった。
「わっ、可愛い!」
桃子が弾んだ声を上げた。
薫はそれを聞いて嫌な予感がした。
「近所のペットかな。リュック背負ってる」
桃子がカウンターを出て店の入口に向かう。
リュックを背負った可愛いペット。
どう考えても、あいつしかいない。
薫が恐る恐る出入口を見ると、ヴィーゼルが店の中に入って来ていた。