絶体絶命風呂場パニック(5)
「かおりちゃーん?」
引き戸のそばで、桃子が名前を呼び続けている。
せめて。
せめて桃子がこの場を離れてくれれば。
薫は誰にともなく祈る。
助けてくれ。
この場を抜け出せる何かが起こってくれ。
誰か――。
そして、その何かは起こった。
「桃子!」
オーナーの桃子を呼ぶ声が聞こえてきた。
「何―? お父さん?」
桃子の声が遠のいていく。
ガチャリという音の後に、ドアが閉まる音がした。
周りがシンと静まり返る。
助かった……?
薫は引き戸に耳を当てて様子を窺う。
声は聞こえてこない。
逃げるなら今か? と思ったが、薫はすぐに考え直した。
桃子が向かったのは厨房で、薫が逃げようと思ったのは厨房横の通路だ。
住居と店の仕切りドアから、薫が逃げようとしているところを見られる確率は高い。
ならばどうする。
薫は必死に考える。
ここから出なければならないのは確かだ。
ここにいてもどうしようもない。
桃子が厨房に行ったばかりの今なら、薫が洗面所から出た瞬間を桃子に見られることはないだろう。
今が出るチャンスだ。
だが、出てどうする。
どうする。
「とりあえずここから出よう」
薫は覚悟を決めた。
「ここにいても、もう案は出ない」
あれだけ考えたのだから。
薫はゴクリと唾を飲み込み、引き戸の取っ手に手をかける。
そろそろと戸を開け、洗面所から少しだけ顔を出した。
右側のドアは閉まっている。
こちらには桃子がいるから進めない。
左側は通路が続いていた。
ドアも三つほど見えている。
ここで薫ははたと気が付いた。
店から外に出られなくとも、住居側の玄関から外に出られるはずだ、と。
きっとこの三つのうちのどれかが、玄関に続くドアだ。
桃子が戻って来る前に、住居側の玄関から出てしまえばいい。
薫は緊張で乾いた唇をペロリと舐めた。
床に置いていた服を拾い、洗面所から一歩外に出る。
服を着るのはあとでいい。
今は抜け出すのが先だ。
靴を取ろうと、薫は店への通路を隔てるドアの前に立った。
手を伸ばし、靴を取る。
その時だった。
薫の目の前で、ドアノブがガチャリと回った。
しまった!
ドアがゆっくりと開く。
もうだめだ。
桃子達に住居へ勝手に入ったと思われる。
しかも、格好がパンツ一枚というおまけ付きだ。
人生が。
終わった。
大人しく目を閉じる。
「え!」
桃子の驚いた声が耳に届いた。
桃子はかなり驚いたことだろう。
仕事仲間が変態だったのだから。
だが、次に発せられた言葉は、思ってもない言葉だった。
「濡れた下着のままで出て来ちゃダメじゃないかおりちゃん」
目を見開いて、自分の姿を見る。
身体は女の子の姿になっていた。
た、助かった……。
カオルは脱力して、抱えていた服を落とした。
「もう。風邪ひくって言っているでしょ」
桃子が頬をプクッと膨らませ、怒った顔を作る。
ああ、可愛い……。
最大の危機を抜けたカオルの頭は、まともに働いていなかった。
「あ、そうそうかおりちゃん。かおりちゃんのお姉ちゃんが迎えに来てるよ」
「へ?」
カオルは間の抜けた声を出した。
カオルに姉などいない。
というか、今のカオルは変身した姿なのだ。
この姿には、姉どころか家族がいない。
どういうことだと桃子を見ていると、桃子の後ろからスカートをはいた中学生ぐらいの女の子が出て来た。
二重でくりっとした目をしていて、瞳の色は澄んだ黄色。
低い鼻と小さい口で、感情のない表情をしていた。
サラサラの白髪はショートだったが、ボーイッシュというより中性的な印象を受ける顔立ちだった。
カオルは女の子に全く見覚えがない。
「迎えに来ました」
女の子はカオルに向かって言った。
カオルに言ってくるからには、カオルと知り合いということになる。
カオルは視線をさ迷わせながら、記憶を掘り返した。
こんな可愛い女の子なら忘れるはずがない。
だが、掘り返しても、女の子の記憶は出てこなかった。
そもそも、この姿で知り合いと言えば、ヴィーゼルと変態王子だけだ。
ならば、この女の子は誰だ?
考えれば考える程、カオルの頭の中がハテナで埋まっていく。
「帰りますよ。服を着て下さい」
「あ、ああ」
カオルは女の子に言われたまま、服を着る為に足元に落とした服を拾う。
「あ、ちょっと待って。濡れているその服じゃなくてお姉ちゃんが持って来た服を……って、あれ?」
服を交換しようと、桃子はカオルの持っていた服を掴んだが、掴んだまま止まり、眉を上げて目をパチクリとさせた。
「あんなにびしょびしょだった服が渇いてる……」
この魔法少女の正装にはクリーニング機能が付いている。
変身が解ければ服の汚れは全てキレイになり、次に変身する時には新品同様の状態で現れる。
「え、えっと……」
どうごまかそうかカオルが悩んでいると、女の子が口を開く。
「特殊な服なんです。母の仕事の関係で、試作段階の服を貰いました」
「へー、便利ね」
桃子はカオルが持っている服をまじまじと見た。
どうやら特殊な服で納得したようだ。