妖界
陰陽寮へ戻ってきてから初春は、怪しいと噂の妙蓮寺へ自分の代わりに知人が赴いている事を忠行に伝えた。
すると忠行は、行くのであれば万が一を考え、つれを用意した方がよいと助言してくれた。
そうして手をあげてくれたのが保憲殿以外の五名だった。
保憲にはその気力が残っていなかったといえる。
一行は明けてゆく空をまぶしく思いながら、それぞれの牛車に乗り込み一路願良寺を目指した。
願良寺へ到着し長い石段を上りきると、境内では早起きの小坊主たちがせっせと掃除をしていた。
そのうちの一人をとらまえて玄庵の居所をたずねると、まだ帰ってきていないという。
嫌な汗が初春の背を伝った。
「では急ぎ例の妙蓮寺とやらへ」
勧めてくれたのは兄弟子の晴明であった。
気の利く小坊主が朝飯を分けてくれ、一行はそれらを頬張りつつ今度は一路妙蓮寺へ、京の都を横断していったのだった。
右京の南にあたる地区は開発がまったく進んでいない。
そのため自然と貧しい者が住み着き、埋める場所の無い死体がそこらの路地に放置され死臭の絶えない場所となっている。
初春は九相図の作成に度々訪れているが、そうでない他の者にとっては耐え難い場所であった。
先ほど喰った朝飯を吐き出さんとする竹丸等に初春が言う。
「袖をちぎり口元で巻くのです。香を焚いていれば良い香りがいたしますよ」
「そういう事は早く言え」
初春の悠長な物言いに対し、まだ何やら言いたげな竹丸であったが、言われるがままにし、なんとか吐き出さずに済んでいる。
死臭の中を牛車が鈍い音をたてながら進む。
妙蓮寺は右京の端にあった。
寺のあるとされる場所に近づくにつれ、死臭が一層濃くなっていったので、一行はおのずとそれぞれの牛車の中で身構えていった。
加えて『邪見』の使える忠行・晴明・初春には、寺に近づくにつれ一層妖気が増している事、小物ではあるが物の怪の数が増えている事が目に見えて分かっていた。
そのことを他の面子に知らせる一方で、初春は一層玄庵の身を案じ不安を抑えきれないのであった。
妙蓮寺は一見すると廃寺であった。
四脚門こそ残ってはいたが、連なる土塀は所々が大きく崩れ中の見える状態であった。
土塀の内からは、死臭と妖気が四方八方へと垂れ流されていた。
五名はまずそこから中をうかがった。
「この妖気、ただごとではない。新入り三名はここで待機じゃ」
忠行がぴしゃりと言う。
しかし三名はそれに対して猛反発をした。
特に初春は自分の代わりに玄庵が危険の中にあると思うと居ても立っても居られなかった。
そういう訳で忠行は仕方なく三名の同行を許すことにした。
ここで晴明以下四名は、忠行に形代代の呪をかけてもらった。
「では、まいろうかの」
言って忠行は四脚門をくぐって中へ入って行った。
慌てて四名も後に続いた。
四脚門を入ると右脇に鐘とお堂が見え、左には三重塔が、真正面には講堂が拵えてあった。
妖気が流れてくるのは講堂であった。
そのため一行は様子見として、まずお堂へと向かった。
お堂の中には本尊と思しき阿弥陀如来像が最奥に安置されており、そのほかは人影が一つ。
よくよく見るとその人影は自らを圭子と名乗った、初春のいつか見た老女であった。
初春は忠行の袖を引っ張り、歩を止めるよう促した。
「彼女は知人の圭子殿です。こんなところで何をされておるのか」
初春が忠行等に聞こえるよう囁く。
「声をかけてもよろしいでしょうか」
「うむ」
他は後ろで控えている。
「圭子殿、圭子殿。覚えていらっしゃいますか。初春でございます」
「おや、いつぞやの九相図の……初春殿」
「さようにございます。探し人に思い当たる人物がおり訪ねてまいりました」
それは本当だった。
昨夜亡くなった博子様がその人であった。
初春は事実そのままを伝えた。
「なんとまぁ縁のあることよ」
「狭い京の内ですから」
「では顔だけでも見に行ってやるとするかの」
「失礼ですがお二人のご関係は」
「こちらもそれなりに縁のある関係よ」
「?」
「知らぬでよいことじゃ」
言うと圭子は初春に別れを告げ忠行等に会釈をし、お堂を出ていった。
「用向きは終わったか」
「はい、ありがとうございます」
初春が皆に向けて礼をする。
「では参りましょうか」
晴明が忠行に問うた。
「そうじゃの……」
忠行等一行が腰を上げようとした時だった。
お堂の入り口から声が聞こえた。
「誰かおるんかいのう」
声の主は五十ほど、身なりはこぎれいで袈裟を着ていた。
相手を確認して忠行が返す。
「そのお姿、この寺の御住職でございますか」
「いかにも儂が住職じゃ。してそちらは」
「なに、知人がこちらへ参ったという事で、場所が場所だけにこの大所帯でのお迎えでございます」
忠行が用向きを伝える。
「はて。そのような方はいらしてはおりませぬが……とりあえず中へお入りになりませぬか。堂の床は冷えましょう」
住職は講堂への道のりを指して言う。
「ではお言葉に甘えて参ろうかの」
忠行がほかを先導する形で腰を上げた。
講堂の奥へ誘われながら忠行が住職へ話を振った。
「しかし妖気が一層濃くなってまいりましたな」
忠行の言葉に住職は動じない。
「ああ、『見える』お方でございましたか。ここには物の怪もおりましてな。講堂の裏の杉林に物の怪の入り口が出来ておる関係で、夜になると湧いてくるのでございます。例の知人とやらも、ここへたどり着くまでに物の怪に喰われておるなどしたかもしれませんなぁ」
忠行の表情が険しくなるのとほぼ同時であった。
「この古狸めが」
――忠行が急ぎ呪を唱えると住職の変化が解けて一匹の立派な狸が現れた。
頭には木の葉を乗せている。
「ちぃっ」
狸は講堂の裏口に向けて一目散に走り去って行った。
忠行等一行が急いで後を追う。
講堂の裏はなるほど立派な杉の林であった。
大きなものは大の大人が五、六人輪になってやっとという太さであった。
その中でも一等大きな杉の木の胴には誰があけたのか円筒の穴がぽっかり空いていた。
穴の上には注連縄が施してある。
「これが『入り口』じゃな」
忠行が顎髭をねじりながら言う。
「この向こうは『妖界』じゃ。どうじゃ行ってみるか」
その時、初春がその近くで知人の持ち物を見つけた。
初春が玄庵に返した九相図であった。
「これは、確かに私の手によるもの。玄庵のものにございます。なぜこのような場所に……」
「まいりましょう」
晴明が勢い付ける。
今度は五名全員各々に、忠行が結界を施した。
個人の結界であり、その術を『人結界』といった。
呪を施されて五名は順に穴に入って行った。
年輪分だけ歩を進めると、すぐに『あちら側』に降り立つ事が出来た。
妖界に入った五名の目には、驚くべきことに邪眼を発動していないのにも関わらず、そこいらじゅうに巣くう物の怪が映った。
更に振り向いてみると古ぼけた講堂は立派な屋敷となっていた。
ちらりと狸の尾が屋敷の中へ入って行くのが見えたので五名は驚きながらも急いで歩を進めた。
しかし屋敷には結界が張ってあるらしく、中に入ろうとすると見えない力によりはじかれてしまうのであった。
そうこうしているところへ上空から声が降ってきた。
「ここは人間がいてよい場所ではない。早々に立ち去れい」
見上げてみるといつぞやの烏天狗である。
「おお、烏天狗よ、覚えておるか。晴明じゃ」
晴明が言葉を投げかけた。
「知人がこちらへ来ているやもしれぬ。お主、心当たりはないか」
「知らんな」
言い終わらぬうちに烏天狗が攻撃の姿勢を見せた。
忠行に緊張が走り応戦の構えをとる。
一触即発とはまさにこのことであったが、そこへ客が割って入った。
それは一匹の狐であった。
忠行がさっと飛びのく。
「待て待て待て」
狐が声を張り上げた。
すると烏天狗が構えを半分解いた。
狐は手を振りながら人間に向けて言った。
「俺が手を打ってやるでの、ぶっそうなものはしまっておくれ」
狐はそう言うと辺りの匂いを嗅ぎだした。
「こっちじゃ。ついてまいれ」
完全に武装を解いている烏天狗を見やって忠行等一行は狐についていくことにした。
やり合えば互角かそれ以上であった烏天狗に対して、忠行は内心ほっとしていた。
しかしその烏天狗が一言で警戒を解くとは。物の怪の間にも序列というものがあるらしかった。
狐は屋敷の結界の裂け目に案内してくれた。そのため一行はすんなりと屋敷に入る事が出来た。
屋敷へ入ってみると内部は外からは想像できないほど広大で、障子と襖ばかりが張ってある迷路になっていた。
狐の後を慎重についていき幾度目かの角を曲がり、とある障子を開けた時であった。
その部屋に所狭しと座っていたのは坊主頭の集団、烏帽子もちらほら見え、皆が中央の結界らしきものに対し、大声で何やら分からぬ呪を唱えている姿であった。
「匂いはここで途絶えておる。面倒くさそうなんで俺はこの辺で退散するがよいかの」
狐はそう言うと速足で来た道を戻りだした。
「ありがとうございます」
忠行等一行が頭を下げた。
不思議なことに室内の誰一人として忠行等に目を向けない。
そのため忠行等は室内の面子を一人一人確かめる事が出来た。
すると幾つかある烏帽子の中に見知った顔を見つけた。
「ややっ、あれは頼明。このような怪しげな集まりに賛同しおって。保憲殿に呪術を教えたのも無関係ではございますまい」
竹丸の声に反応を示したのは他でもない、頼明であった。
頼明はこちらの面子を確かめると集団から抜けて廊下まで出てきた。
「おや忠行様までくっついて来られたのですか。たかだかあんな坊主のために」
頼明は中央の結界らしきものに視線をやる。
初春が注視してみると、そこに横たわっていたのは玄庵だった。
「お主等、玄庵に何をしておる!!」
初春が怒鳴った。
頼明に掴みかかろうとする初春を晴明が後ろから止めた。
そうして晴明が囁いた。
「『聞耳』」
『聞耳』とは、知らぬ呪を翻訳する術である。
「やっ。玄庵殿を取り囲んでいるのは、あれは人身御供の呪にございますぞ」
「何っ。頼明、お主どういうつもりじゃ」
「さあて」
頼明は先ほどから笑顔でのらりくらりとしている。
初春は居ても立ってもおれず、坊主集団の中に割って入ろうとしている。
それに続く同期が二名、それに晴明が続く形となった。
中央の結界に向かって座っている坊主の集団をかき分けて初春は進んでいく。
不思議なことに誰一人として初春を止める者はいない。呪を唱える者全員が全員、ただならぬ目をして中央に対し座しているのであった。
初春が中央に至ると、五枚ほどに重なる畳の上に玄庵が眠らされ、その周囲を結界が仕切っていた。
「玄庵!玄庵!!」
初春が大声で呼ぶ。
しかし玄庵に反応はみられない。
玄庵の脈をとろうと手を伸ばすも、結界に阻まれそれも叶わない。
追いついてきた晴明を振り返り初春が尋ねる。
「晴明様、いったいどうすれば……」
「この呪を止めるのが一番だが打つ手がない。どうするか……」
晴明は逡巡し、竹丸も夏宮も脇でなすすべなく突っ立っている。
「この声が聞こえなければよいのですよね」
竹丸が問うた。
「なんとか玄庵殿の耳に蓋をすることはできませぬか」
「耳に蓋か……竹丸、この手の呪はそういった類のものではない。呪が本人に聞こえなくとも、かかってしまうものだ。教えたはずだぞ」
竹丸は恥じ入り後ずさった。
「では」
今度は夏宮が発言した。
「我らも結界を張ることは出来ませぬか。先ほどの『人結界』のようなものを玄庵殿にも施して差し上げるのです」
「ふむ、なるほど、二重の結界か。それなら触れずとも可能。やってみる価値はあるか……」
晴明はいまだ逡巡している。
「晴明様、私は二重の結界案を押します」
初春は急いている。目の前で友人の寿命が削られていくのを何もせずにただ見ていられるわけがなかった。
「よし、では結界を張ろう。『人結界』でいく」
しかしこれが果たして功を奏するのか、晴明には分からなかった。
問うてみたい忠行様は廊下で頼明殿と対峙しておられ届かない。
しかし望みがある以上、手を打たないわけにはいかなかった。
「頼明、お主何を考えておる。この者等は何者じゃ」
忠行が問う。
「ご自分でお確かめくだされ」
「妖界にて人身御供の呪を使い何をしようとしておる。博子様の事も無関係ではあるまい」
「それらに応える義理はございませぬ。ただ邪魔をしようとしてしておるのでしたらこちらもそれに応えねばなりますまい」
二人の間に漂う空気がぴりっと音をたててきしんだ。
弟子等は中央に到達し玄庵の救出を試みている。
こちらは一人で済まさねばなるまい。
忠行は意を決して呪を唱えた。
陰陽師同士の喧嘩は滅多にない。
毎年の輩出人数が少ないことと、仲間意識の高さがそうさせている。
ただ依頼主に請われ、結果として相対する事はあった。
今回はそのどちらにも当てはまらない。
双方が己の都合を第一に考えてのやり合いである。
呪の強さで言えば年長の忠行が勝ち、体躯の強さで言えば頼明が勝った。
忠行としては何とか体術に持ち込ませず呪の掛け合いで決着をつけてしまいたかった。
「『人結界』」
頼明も忠行に合わせ人結界を張った。
『人結界』とは、体に纏わせた結界である。物理的な防御も兼ねている。
こうなっては後は呪の掛け合いである。
「『塗り壁』よっつ」
忠行が召喚術を使った。
突如、頼明の周囲を囲むように四枚の塗り壁が出現した。
これで頼明は再び部屋に戻ることが出来なくなった。
忠行は振り返り坊主集団を押しのけ部屋の中央へと急いだ。
その動きに晴明が気づきほっとする。
「忠行様。玄庵殿はご無事でございます。今から人結界を張ろうかというところで」
「なるほど妙案じゃ。急げ」
「はっ」
言われて晴明が急ぎ玄庵に人結界の呪を施した。
これで玄庵の命はひとまず安心となった。
「忠行様、この先いかがいたしましょう」
晴明が問う。
「そうじゃの、とりあえず玄庵殿をこの場より救い出さねばならん。『浮遊術』を使う」
「なるほど、畳に対し浮遊術を使用するわけですね」
初春が言う。『浮遊術』は初春が初出仕の日に習得した技であった。それだけに思い入れも強かった。
「さよう。善は急げじゃ。ゆくぞ」
「はっ」
五名は結界の周囲に陣取り畳一枚目に対し同時に浮遊術を使用した。
一枚目の畳が玄庵を乗せたまま浮いていく。
「そのまま横へ滑らせてまずはこの張られておる結界から外へ出すのじゃ」
忠行の号令に合わせ五名ともが同じ方向へ向かう。
玄庵を乗せた畳が順調に滑ってゆく。
「あと少し」
端を担当している夏宮が報告する。
「ようし、全部が出たぞ」
竹丸が続く。
その瞬間であった。
周囲が急に静かになった。
――坊主等の呪が一斉に止んだのである。
異様な静けさであった。
五名の間に緊張が走った。
「玄庵殿が原因じゃろう」
忠行がつぶやく。
途端、周囲の坊主等が一斉に玄庵を目指し手を伸ばしてきた。
「やはりか」
「忠行様、玄庵殿を起こすにはどうしたらよいのでしょう。このままではもちませぬ」
「既に結界は脱した。揺すれば起きよう。起きたところで歩けるかは分からんが畳一枚より玄庵殿一人に術を使用する方が楽ではあろう。起こすのじゃ」
「はっ」
指示を受けて四名は玄庵を揺すり起こしにかかった。
相変わらず四方から坊主等の手が伸びている。それを制しながらであった。
この時、全員がほぼ同時に気が付いた。
周囲を囲む坊主等の目から涙が滴り落ちていたのである。
その光景に皆の動きが一瞬止まった。
その時であった。
「ううむ……」
玄庵の意識が戻った。
「玄庵殿!」
四方から呼びかけを続ける。
「ようし、意識が戻ればもうよかろう。後は形代代にて動いてもらう」
忠行の判断は早い。
言うが早いか既に胸元から形代を取り出している。
「ごめん」
玄庵に対し形代代の呪が施された。
「な、なんじゃ」
玄庵の意識は思いのほか早く戻った。
「玄庵。初春にございます。ここは物の怪の世界。玄庵は捕らえられておりました。そのため助けに参りました。仲間もこれへ」
初春は手短に現状を伝えた。
「初春か、私は何故ここに……」
まだ意識がはっきり戻ったわけではないらしい。玄庵はうつらしている。
「仕方ありません。形代代にて動いていただきましょう」
晴明が伝える。
と、その時であった。
突然天井が崩れた。
と同時に何やらどさりと落ちてきたのである。
各々が覗き込むと、それは頼明であった。
「ふう。四方を塗り壁に囲まれておったので天井から参上いたしました」
体力には自信のある頼明である。
「『影針』」
忠行が間髪いれず呪を投じた。
『影針』とは相手を影にてその場に縫い留める術である。
しかし廊下からの光で室内の影は長く伸びている。更に大勢の影が絡み合う状態でもあった。
そのため頼明以外の者まで大量に縫い留めてしまっている。
「いらぬ霊力を使うわい」
忠行がひとりごちる。
「晴明、お主等は玄庵殿を連れて先に戻れ。私は頼明を足止めじゃ」
「はっ。ご無事で」
各々が口々に無事を祈った。
玄庵は歩行が困難であったため結局『浮遊術』が使用された。
晴明以下四名と玄庵は坊主等の手をかいくぐって進んだ。
何かに操られておるのか幸いにも坊主等の動きはのろく振りほどくのも楽であった。坊主等の袈裟はどれもが異なる色をしていた。
それを見ていた忠行がはっとし頼明に振り返った。
「頼明、おぬし都の転覆を図らんとしておったのか……」
言いながら忠行は悲しげな視線を頼明に送った。
その『間』が命取りになった。
縫い留められる直前に吐いた頼明の暗器が忠行の首を貫いていた――。
「くっ……」
忠行がその場に倒れた。
声が出ないので呪を繰り出す事が出来ないでいる。
激しい吐息だけが忠行の命をつないでいた。
まだ影針の術は解けない。
忠行は最期の力を振り絞り己が血で呪を投じた。
呪の名を『全解除』という。
発声を必要としない、その場の呪を敵味方関わらずすべて解除するという、秘術のうちの一つであった。
玄庵を連れて逃げ延びていた晴明以下四名に緊張が走った。
忠行が施していた呪が一斉に解けたのである。
つまり『形代代』と『人結界』が同時に解けたのである。
玄庵に施されていた『浮遊術』も効力を失い、途端にその場に崩れ落ちた。
「晴明様!」
初春が叫ぶ。
「分かっておる」
晴明の額に脂汗が浮いている。
「忠行様が……」
竹丸と夏宮の足が止まる。
「こ、この先は己等自力で進めということじゃ……」
晴明のろれつは怪しく、その目は見開いたまま焦点が合っていない。
妖界の最中、怪我人の玄庵を連れての脱出を、自分たちだけで行わなければならない――。
四名はとてつもない心細さに襲われていた。
それだけ忠行の存在は大きかったのである。
一方で屋敷の中にいる頼明は影針の呪も解除され自由の身になっていた。
加えて坊主等も自由の身になっていた。
坊主等には頼明が形代代を用い四肢を操る呪をかけていたのである。
そのため頼明は坊主等により囲まれていた。
「頼明殿。ようも我らをたばかってくれたな」
「この案に乗ると言ったのはそなたらじゃ」
「都が京に移り、日増しに寂れてゆく我らが大和の地を思うてのこと。再び京が大和の地に戻ればよいだけのこと。この身を操ってくれとは一言も言っておらん」
坊主等は皆、大和の地の僧侶であった。
袈裟の色がちぐはぐであるのもそのせいであり、忠行はそれを見やって都の転覆を見破ったのであった。
周囲を坊主等に囲まれるもまったく悪びれない頼明は言葉を継ぐ。
「呪はほぼ完成しておる。後は人身御供の呪のみよ」
「それよ。そのような血なまぐさい呪とは聞いておらぬ」
「犠牲なくして都転覆が成るとはよもや思うておりますまい」
「それは……」
「既に五名の者を手にかけておるではないか。何をきれいごとを」
博子様はそのうちの一人であった。
頼明は更に続ける。
「更に我らは既に全員、顔を見られておる。どのみち奴らをこのまま返すわけにはいかんのじゃ」
「たしかに」
坊主等の中から頼明に賛同する声が上がる。
「ここまで来たのじゃ。あとは今の京に与する坊主の血のみ」
「そうじゃ。ここまで来たのじゃから」
「そうじゃな」
坊主等の変化を見やって頼明は号令をかけた。
「では急がねばならん。奴らはこの屋敷を出ようとしておる。屋敷に施された結界も解かれてしもうた。奴らを返してはならん。奴らを決して返してはならん」