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ほんのひと匙  作者: 遠津汐|和田貫
海岸線漫遊 記録ノ書――Ⅰ 外海をみたかばん ≪途中まで≫
6/15

志帆、ぶんすいれいに立つ。

元気いっぱいの志帆ちゃんのおはなし。性格的にはしずくちゃんに似ている。

 白線だけを踏む遊び。志帆はこれが好きだ。もう中学生なんだけど、この年になってもついやっちゃう。止まんない。

 この日も白線だけを踏みながら帰っていた。それで、横断歩道の白線を踏み外したら、なんかこうずぶずぶずぶと沈んで、落ちちゃった。


 どこへって、どこなんだろう異世界かな。


 ぐんぐんと、落下する。志帆は慌てて手に持っていたスクールバッグを背負う。

 アスファルトみたいに真っ暗な宇宙空間から、たくさんの光の欠片。地球の太陽よりも赤い太陽をしゅんと超えて、そのまま惑星を四つ超えて、月を超えて、地球と同じような海の青と雲の白と、見慣れない形の大陸が見えて、ぐんぐんと近づいていく。鮮やかな昼と濃淡の夜が何度も繰り返されていく。

 息苦しさはない。ただただ腕を真横に伸ばして、落ちていく。

 海上には台風の目のような大きな雲もあった。それはあっという間に通り過ぎて、大きな大陸が近づいてくる。緑もあれば湖もあり、砂漠もあるみたいだ。夜は街の明かりがなく暗い。

 スピードが落ちてきた。山脈があった。ナスカの地上絵にも、今の志帆の姿勢にも似た、両腕をうんと広げてオアシスに向かって飛ぶひとのような大きな絵が描かれた荒野を横切って、草原を超えた。大きな川も斜めに超えて、森を超えた先の山はもう高度的に超えられそうになかった。


 このままだと、ぶつかる。


 降り立つには、まだ速すぎる。志帆は大慌てで足掻いた。羽ばたいた。

 その間にもぐんぐんと緑は近づいてくる。

 やがてその緑は何種類もの木で、少しずつ緑の色を変えていることが分かり、そこでぐんと志帆は失速した。失速しながら木の葉を斜めにくぐり抜けて、スライディングしながら、着地することができた。


「やばい。なにここ、海見えないじゃない。海がないなんてどんだけアウェーなのよ」


 空から落ちてきた少女こと真樺志帆が、汚れた両手と腐葉土で濡れたお尻を叩きながら、乾いた唇をひとなめして呟いたのは、そんなセリフだった。

 それから捲れていたプリーツスカートの裾を直した。

 ついてしまった泥は仕方がない。

 幸いなことに体育があったから、スニーカーを履いてきていたし、運動着も持っているので、このまま森は歩けそうだ。

 もそもそとスカートの下にジャージを履く。汚れたスカートを脱いで、くるくると巻く。

 風に煽られて崩れた髪を、サイド編み込みのポニーテールに結い直す。

 今日はお弁当を持ってきていたから、容器はある。空っぽのお弁当箱を振ると、梅干に葡萄の皮と種に胡麻、残したジャガイモとほうれん草の紫のところと、魚姿のしょう油入れがかたころと音を立てた。それからスープジャー、半分くらいお茶の残った水筒もある。志帆はいつもソイしょう油も持ち歩いているから、味付けには困らない。

 もちろんおやつも持っている。おやつには手をつけなかったから、チョコチップクッキーがまるごと残っている。

 携帯には、セクハラ防止の警告音を発するアプリも入っていて、懐中電灯もある。これらは変な人間よりも生き物対策に使うことになりそうだ。

 家族全員がそれぞれ持ち歩いている充電器は、携帯を七回は生き返らせる優れものだから、今しばらくは平気。

 お母さんに持たされたソーイングもあった。ピルケースもある。それどころか、かばんを探せば十徳ナイフも出てきた。完璧ですな。

 だったら、これから歩くための問題はクリアってことでいいかな。


 よしっ。

 目指すは海、待ってろよ、お魚。夕飯はマイソイしょう油で焼くお魚一択だ。

 「われは海の子」をがやがやと歌いながら、志帆は獣道を歩きはじめた。

 歌いながら歩くと、だんだんノってしまうのが志帆のくせだ。

 巨大な昆虫が道を塞げば、歌いながらベリーロールの要領で飛び越え、鳥が狙いを定めて降りてくれば、上段回し蹴りで追い払う。猪突猛進は跳び箱代わりに。

 死屍累々を決して振り返ることなく、志帆は進んでいった。

 いわゆる無双状態であった。



 まもなく、志帆は村に行き当たった。

 よし今晩の宿はここだ。


「頼もー!」


 踊られた。村の入り口で、踊られてしまった。

 ほうほう。ひょうげて楽しい踊りだった。

 真似しようとも腰の動きがなんか違う。掛け声はいけるけど、この踊りが難しいな。

 ひらひらと上手に腰の動きで布がひるがえる。麻か、植物繊維でできた布だ。繰り返された三角の模様が織り込まれた貫頭衣に身を包んで、ひょっとこみたいに口を尖らせて踊る動きは、ポリネシアンダンスとサンバのダンスを足して割ったよう。ほうほう。

 続々と村人はやってきて、踊りに加わった。大きな木の葉を揺らしながら、髪を纏め上げたかんざしを引き抜き、集団となって踊られた。手に持ったかんざし同士を打ち鳴らしてリズムが早まる。そのうちに腰も動くようになってきて、なんだか楽しくなってきた。ほうほう。

 それなのに、踊りながら近づくとかんざしを投げられた。一度投げられはじめると、あとは際限なかった。女の敵はいつだって女らしい。

 身体はちくちくと刺さった程度で痛くはなかったが、心が挫けた。言葉も通じなかった。お手洗いくらい借りたかった。

 志帆は村から逃げた。

 それはもうものすごい勢いで逃げた。

 その後お手洗いをどうしたかは女のコのヒミツだ。

 泥だらけのスカートも脱がなきゃ良かったって思ったよ。



 志帆は間もなく小川に出た。

 われは海の子と同じく文部省唱歌だった「春の小川」を歌いながら、先ほどの村とは逆の川上に向かい、魚をチェックする。清水のようだ。人間と相容れない魚ではない限り、ここの水は安全に飲めるはずだ。

 いざ尋常に、水筒の出番である。

 水筒を川に突っ込んでから志帆は思い出したがもう遅い。

 お茶の色がみるみるうちに水面に拡がっていった。

 見える限りの川下までずっと。振り返った川上もずっと。

 志帆はぱちぱちと瞬きをした。

 魚がプカプカ浮いて流れてきていた。

 志帆はきゅきゅっと水筒のフタを閉めると、現実を受け入れて、せっかくの魚を食べることにした。

 靴を脱ぐ。靴下も脱ぐ。裾をぐいっと腿まで上げると、川に入って流れてきた魚を掴んだ。

 川は相変わらずお茶の色をしている。しかも温かい。

 環境汚染という言葉が頭をよぎったが、志帆は見なかったことにした。


「ほ、報復じゃないんだからねっ」


 かんざし投げの恨みじゃないよ。本当に違うんだよ。


「普通の川に戻ってもいいんだよ」


 どんなに話しかけても、川はお茶の色のままだった。

 後に茶川と呼ばれるようになる、味付きの川の起源である。

 

 志帆は、川への説得を諦めて、アメリカ民謡の「ごはんだ」を歌いながら、カクカクとした手頃な岩を、茶川の水で洗った。まな板代わりである。志帆は岩の上で魚の尻尾を固定して、慣れた手つきでうろこをガシガシとそぎ落とした。

 小さい時分には漁港の余り魚を捌いておやつにしたものだ。おなかにナイフを入れ、くっとエラの後ろから頭を落とすと、内臓を掻き出しては五枚におろし、皮を剥いで、出来上がったお刺身を見て、にっこりほほ笑んだ。

 これだけ上流の、しかも澄んだ清水が湧いているところなら、きっと寄生虫もいないね。

 お弁当箱のしょう油をたらりと垂らして、手づかみでいっちゃう。


「お魚さんありがとう。いただきます!」


 なんか、淡白なんだけど、少し待てばじんわりと甘みと旨みが口のなかで広がっていくよ。熟成させてないのに、旨味が居る。ああ幸せ。ごはんが欲しい。

 志帆はあっと言う間に三匹の魚を刺身で食べ終えた。

 なぁんだ、焼き魚じゃなくてもいけるね! ただし上流に限る。

 川をもう一度覗くと、やっぱりお茶の色だ。汲んだ水を飲んでみたけど、濃いお茶の味がした。しかもさっきよりちょっとあたたかくなった気がする。

 近くにはもう魚はいなかった。

 泥がついた制服も足を拭いたタオルもそろそろ洗いたいけど、川をこれ以上濁らせるわけにはいかない。

 


 それから志帆は上流に遡っては己の所業を絶えず見せつけられた。背の高い木がなくなっても、川は緑のままだった。しばらく松と笹とに苦しめられる区間を過ぎ、高山植物を楽しみながらも茶川がちらちらと目にふれ、それでもしばらく遡ると、うっすらと色づいた水のなかで小魚や沢ガニが動いている姿を見つけられるようになった。ようやく志帆は安心してまた歌いはじめた。やなせたかし作詞の「手のひらを太陽に」だ。

 水脈も地下に潜る岩肌の間を志帆はずんずん歩いた。

 ときおり地上にその姿を見せるたびに、茶川は薄らいでいき、志帆を安心させた。

 まもなく分水嶺を越えて、志帆はようやくダビデに鳥のように逃げよと詠う讃美歌を原曲に持つ「追憶」を歌いながら、念願のただの清水を水筒のフタに汲んだ。スープジャーと悩んだけれど、スープの川がでしたらたまらないと思って止めたのだ。残念、伏流水とは違ってまろやかさが足りない。

 ちなみに分水嶺を跨いで、二つの川を制覇した高笑いをすることは忘れなかった。


 痛いの痛いの飛んでいけ。

 苦しいの苦しいの飛んでいけ。

 笑って笑って飛んでいけ。


 高笑いに森は震撼した。高く飛ぶ鳥が大慌てで旋回して去っていった。

 生態系が狂ったのはご愛嬌だ。


 お母さん、分水嶺に立ったよ!

 ちゃんとおまじないも唱えたよ。


 志帆は、水をくいっと飲み干すと、赤くて大きな太陽が暮れていくのを、小さな達成感を小さな胸に抱きつつ、ただただ眺めた。


 それから急激に冷えてきた周りにびっくりして志帆は周りを見渡した。

 すでに周りは薄暗い。

 雨水が溜まった岩の隙間を見つけると、志帆は制服を洗い、岩に干した。うろうろと周りを歩いて、岩陰におしりをおさめると、志帆は水筒のお茶で、クッキーを食べて、寝ることにした。


 やがて、まぶたの裏に光を感じて、志帆は目覚めた。

 雲海が真っ赤に染め上げられている。赤い太陽の最初の一差しが志帆の身体に注がれたのだ。

 どこまでもどこまでも澄んでいく。

 志帆は手を動かした。足を動かした。

 朝日が粛々と出番を演出するなか、尾根の上で飛び跳ねた。からころと小さな石が落ちていく。

 ここは分水嶺だ。

 新しい朝がはじまったんだ。


 胸がぐんぐん膨らんだ。


「けっぱるよー!」


 志帆は感動していた。

 空が白んでいくにつれて雲海はぐいぐいと垂れこめて足許まで近づいてくる。

 アウェーだけど、アウェーじゃない。遠いけど、向かっていけば近づくだけだ。

 志帆はまだ見ぬ魚を求めるのだ。ホームグラウンドたる海へ、たどり着いてみせるのだ。

 川を下れば必ずいつかは海へたどり着く。

 だから、志帆は振り返らないのだ。

 茶の川なんてなかったのだ。


 またクッキーを一欠片だけ食べると、荷物をまとめて新しい川を下りはじめた。

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