トナカイが空を舞う日に[セリフ無]
これ以降、悪役令嬢ものではない最終稿。
2019年
≪クリスマス用短編≫
どうしてかは分からないけれど、この国ではクリスマスに合わせていつからか恋の魔法が降りかかるようになってしまいました。もしかすると本来ならばこれはバレンタインやホワイトデーまで続く魔法かもしれません。
そんな恋の魔法にあやかった、とある男女のクリスマスにまつわるハッピーエンドのおはなしです。
どうかお楽しみいただけますように。
◇
クリスマスイブの夜のはじめだった。私は土曜のお休みで、付き合いはじめの彼は仕事だった。
私はおしゃれをして、駅前のからくり時計の下で同じようなたくさんの人間とともに彼が来るのを待っていた。それは息が白くなるような寒い日で、コートの下は薄着だった。かじかんだ手を忘れるように、気をそらせるために人間観察に励んでいた。
黒ずんだ雪は足もとをやたらと冷たくした。使い捨てカイロを買えばよかったなと考えたときに、隣からいきなり伏せ字が相応しい声が聞こえたものだからやけに驚いたのだった。
冬至から間もないときの夜の訪れは早く、イルミネーションは待ち合わせ場所すら波蝕していて、私たちの色をほんのりと変えていた。
いくつかの色を交互に纏って、光の角度で違う様相を見せる人間を私は見るともなく見ていた。
たしか一瞬だけの隣人は、廉価品ではない眼鏡をかけた柔和そうな男性だったはずだ。たしか長い濃色のコートを着ていた。そのひとよりも長生きしていそうな、きっちり手入れされてきたウールのコートだった。留め具は本当の動物の角を使っていて、長い年月が角をつやつやにしていた。
しきりにスマホで時間を確認しながらそわそわしていたから、待ち遠しく思うような待ち合わせなのだろうなと微笑ましく捉えていた。
だからそれは物珍しいわけでもない、ほんの些細でありふれた悪態ではあったけれど、その豹変に驚いてしまったのだ。あらためて見やれば、携帯を手にしたその肘から下がぶるぶると震えていて、表示されていたスタンプまで見えてしまった。
気の抜けるような軽く謝るスタンプの上の、別れを告げるシンプルな文字まで、無駄に良い動体視力が捉えてしまった。こんなに品の良さそうなひとでも、悪態ってつくんだなんて思った。
そのまま視線を外そうとしたのに無理だった。視線を感じてしまった。つい見てしまったことを本人に気づかれてしまったのだった。
顔を上げた私はただ気まずげに束の間の隣人となった男と目を合わせるしかなかった。男のガラスの色がイルミネーションに合わせてくるくると色を変えた。その奥にある瞳に浮かんだ怒りと恥ずかしさには、ほんの少しの悲しみが見てとれた。
それはきっと気づいてはいけないものだった。
だからあっという間に男に訪れた悲しみという滲みはほかの感情を凌駕して眼の内を覆い、メガネ越しの瞳は涙でいっぱいになってしまった。
先に眼鏡を取るか、それともまずはしゃがむか、男には逡巡があったように思う。
でも涙腺の崩壊のほうが速くて、とにかくしゃがもうとする男のコートの裾がやたらと気になってしまって、普段なら絶対にしないのに思わず他人の裾を絡げてしまった。
だから、そのままワンピースの裾にすがりついて泣かれてしまったのは、自明の理みたいなものだろう。
私は家族のように男の髪や背を撫でて慰めたわけではなかった。
ただ困惑した顔を露わにしたまま、ただ絡げた裾を膝に乗せそこない、縋りつかれながら、嗚咽による振動が伝わってくるなかで所在なく立ちつくしていただけだった。そんな足もとを、黒ずんで残る雪ごといろんな色の光が染め変えていっただけだった。
だけど、そんなことはあのひとにとって言い訳にもならなかったのだろう。
ともかくその日、私は公衆の場で泣く男性という存在を生まれて初めて目の当たりにした。そして世のなかの日の浅い彼氏というものはそうやって見知らぬ男に縋りつかれて困っている彼女を見ると、声もかけずに立ち去り別の女をナンパしても当然なのだという現実を知ったのである。
繰り返しになるけれど、その日はクリスマスイブで、この国では紛れもなく信仰よりも恋愛の日として認められる日だった。
昨日まで降って降った雪はホワイトクリスマスになりそこねて、そこかしこで黒ずんだまま残っていた。
スカートだか脚だかに絡みつきながらようやく泣きやみかけた男性をよそに、震えたスマホを見たらもう待ち合わせ時刻は随分と過ぎていた。冷えた脚は思いもよらぬものが温めてくれていたが、肩や手はひどく冷えが進んでいた。
たしかに視線を感じたのに、見つけた人ごみのなかの明るい色の頭はたぶんあのひとだったのに、さらに待っても彼氏は現れなかった。これはもう碌でもない予感しかしない。
そばに来てくれていたなら、困り顔の私に気づいたと思う。
元々助けてほしいなという声にならないメッセージを伝えても頼りにならない男性なのだろうとは想像がついていたけれど、それでもいい意味で期待を裏切ってほしかった。頼りになる男性なのだというところを見せつけて、惚れさせてほしかったような気がした。
覚悟を決めてラインを開こうとすれば、アイコンがついていた。
もう別の女の子を見つけちゃったよ。
その男とつきあっちゃいなよ。
ハッピークリスマス
&
バイバーイ!
どことなくまた軽いメッセージだった。もちろん彼氏からだった。たった今、元彼氏となったひとからだった。そんなメッセージさえも華やかな色とりどりの光が彩った。
いつ震えたのだろう。
私はアイコンにつく数字の通知しか使わない人間だ。
メッセージの着信からはすでに十分も過ぎていた。
私はため息をこぼすべきか、ちょっと笑うべきか迷った。
予感はあった気がする。
ただこの先はクリスマスにバレンタインと続くから、シーズン的に別れ話が出なかっただけだ。このひとと何年もつきあうのは無理だろうなとは気づいていた。
数ヶ月前の、大学時代の友人の結婚式の二次会で口説かれて、周りに囃し立てられるという形で始まったおつきあいだった。
新婦の顔を立てなければならない場で断るのは難しく、縁なんてこれくらいの些細さからタイミング次第で形作られるものだと知らないほど子どもでもなかった。
ただ断れない展開ではじまってしまったおつきあいだから、あちらだって引っ込みがつかなくなっただけなんだろう。会うたびに違う気がするとは私だけではなく、お互いに感じていた気がする。
ノリだとかイベント用だとか、そのくらい軽いものだったことがこれで証明されたに過ぎない。
私も追いかけて縋りつく気にはなれなかったのだから。
誤解したのかもしれないし、ただただ歩いていたらもっとかわいい娘がいたのかもしれないし、端から私とは過ごす気がなかったのかもしれない。
でもそんな殊勝な人間ではないと信じていたのに、私もクリスマスを特別視していたみたいだ。
他の日に振られるよりもなんだかみじめなのも、クリスマスマジックというものなのかもしれない。
横に同じような敗者がいなければ、私だって役に立たない涙を流すこともあったかもしれない。
いまだ足もとから見上げる泣き虫な初見の男にメッセージを掲げてみせた。イルミネーションとのコントラストが男の顔色を分からなくさせた。それでもせめて、これでプライバシーにふれてしまった借りは返せたはずだった。
男は眼を見開いて、それから申し訳なさそうに眉を下げた。だいじょうぶ、泣けないくらいの相手だったのと伝えると、どうやら涙は引っ込んだらしく、今度こそお互い気まずさで笑った。
そう、我々は同じ振られ穴の狢だったのだから。
ほんとうにツイてない。
でもちょっと愉快でもある。
横に振られ仲間もいるからひとりではないところが、共感相手がいるところがさすがクリスマス。
あまった幸福の欠片を配られてしまったようだった。
だからこそ、あんな彼氏にホテルに放り込まれてはたまらないなと思うことができた。そんなに簡単に見捨ててナンパに励んでしまうひとに、もしも病気でもうつされたら困る。
こういう感情は途方もない気持ちになったときの、自衛本能めいたものなのだと思う。あとからそんな風に相手を悪くとらえてしまった己の悍ましさに、後から自己嫌悪に陥る類のものだとは経験上分かっていた。
そうでも思わなければやっていけなかっただけだけれど、でもそう思うことでそのときは楽になることができた。
それなら、なしくずしで付き合うよりも、奇妙な今の哀れさの共感のほうがよっぽど味があって安全ではないかとそんなふうに考えたのだ。
立ち上がった男の裾を離すと、念のため件の結婚式の新婦に、説明メッセージをしたためはじめた。元彼となった人間に、万が一これが浮気と誤解されて広められてはたまらないなと思ったから。そう思ってしまう自分の性分は嫌いだけれど、必要悪な処世術だと割り切るしかない。
それでも誰にも非がないような感じのよい説明を模索していたら、隣の男に声をかけられた。
ディナーの席が空いてしまったので、それでこのお詫びとお礼になりませんかというのである。
奢りだという。なかなかのフレンチだという。ワインを奮発するという。
別に彼氏彼女ではないので割り勘でよいのだけれど、こんな難関な日を勝ち取ったせっかくの予約も、せっかくの着飾った姿も、無駄にするのはもったいない気がした。
たぶんふだんの私なら乗らなかった。
だけど、ごはんに恨みはないと行くことにしたのは、やっぱりクリスマスの魔法とやらが成した技だと思う。
どうやら今からだと男が予約していたディナーの時間にはちょっとだけ遅れるらしい。でもまあ遅れてもなんとかなるでしょうと、こんな繁忙期にのんきなことを言う男を私は急かすことにした。
私がつきあってきた歴代彼氏はみんななぜかチャラチャラした感じだけれど、でも女性を走らせるような真似をした男は誰もいなかった。それは誇ってもよいことだったのかもしれない。
もちろん今だって走ることにしたのは私だ。
休日クリスマスイブの今日は、決して薄着でキメる女性を待たせるべからずといったところの、ワンピースに決め髪にピンヒールだったけれど、とにかく走った。
結局は電車のなかで、いきさつを説明するメッセージなんて、新婚のイブにそれもどうなのかなとやっと気づいて送信を取りやめた。
やはり動揺して冷静さを失っていたみたいだ。
窓に映った髪は当然ながらもう乱れていた。お化粧だって直したい。おまけに踵の保護シールがストッキングを巻き込んで縒れてしまっている。
全然素敵な女性ではなくなってしまっていて、笑いそうになってしまった。
そのまま全くスムーズではない獰猛な慌ただしさでお店に駆け込んだのは、まだ予約10分前のことだった。
走らなくてもどうにか間に合ったような気がしてきた。もうどうにでもなれの気持ちで、くさくさしていたらしかった。あとから思えば走ったのだってただの鬱憤晴らしのようなものだったのかもしれない。
結局は店内超回転のクリスマスのこの日、前の客が粘ったのか、結局二十分遅れで席に腰をかけた。先に化粧室を使わせてもらえたので、身綺麗なおねえさんスタイルには戻れたし、実際には私自身はそんなに待っていないけれど、泣かれてしまったのと同じくらいの迷惑をかけてしまったなとは思う。
キャンドルが作りだす揺らぎの光のなか、男はスマートに椅子を引いてくれたし、スムーズに飲み物を選んでくれたから、走らせても文句ひとつなく走ることを選んでくれたことや泣き虫なことのアンバランスさが際立った。
アンティークなコートの手入れができるひとだから、そのスマートさこそが元々彼の自然なあり方なのだろう。
少なくとも大学まで公立を貫いた私にはワインの銘柄なんて全くわからない。
私にわかるのは、せいぜいそれがブルゴーニュを目指しているのか、ボルドーを目指して作られたかを示す、瓶の形の見分け方やぶどうの品種名くらいである。
私は赤ならボルドー系が好きらしいし、白ならブルゴーニュ系が好きなようだ。辛口が好きだけれど、ドイツやイタリアのような甘い白ワインにだって美味しいものがあるとは知っている。
お酒は詳しくないからこそ、誰かが単純に未知の世界を見せてくれようとしていることは、楽しくて嬉しい。
泣き虫のくせして、意外にも眼鏡をくいっと上げながらワインリストを見て、お店のひとと二言三言話しては選ぶ姿が手慣れているだなんて、泣き虫のくせに生意気だぞなんて嘯いてみるしかない。要するに私が不慣れな席に尻込みしていただけだ。
読む本がないと喚けば百科事典を渡される、そんな家庭で育った私だ。
これだけの格式の席は、結婚式しか知らない。
どうせ一期一会だ。
名も知らない男の夕飯にご相伴にあずかっただけ。
走ったりして恥をかかせてしまったかもしれない。でも今は服もメイクも憂いなしだから、見逃してほしい。
かわいく媚びたりできるわけでもないし、そういうのが似合う系統の顔でもない。
私はそれならまだ妖艶なお姉さんになるほうが簡単な顔立ちをしていたし、そういう意味ではたぶん連れ歩けないほどではないと思う。尻込みを隠して微笑むことができるくらいには大人だ。
これはビジネスでもない。
そして男には、なんだか悔しいけれどフォローするだけの余裕がある。
それなら必要なのは、男も女も状況を楽しむ度胸だけあればいい。
前菜は見慣れないゼリー寄せで一口目から美味しかった。
ポタージュも冷えた身体にはとても優しく染みわたる。
ポワソンを待たずに食べたクロワッサンはあまりにもサクサクだった。
市販品よりはるかに重厚な層となったそれからは変わったバターの香りがした。焼きたてだった。発酵バターを練りこんだ自家製なのだそうだ。
続けざまの魚料理はムニエルに似たなにかだったけれど、それが驚くほど男が選んだ銘柄のシャブリエワインと合った。
ボトルの文字を見て男に訊けばシャブリとは地区の名前だという。ブルゴーニュの北のほうに位置し寒さが強いのだという。
シャルドネというぶどうの品種名だけは知っていた。シャブリの古い土壌の石灰質には、牡蠣の貝殻などが堆積しているため、ミネラルに飛んだ大地の土壌がこの味にするという。
甘くなさすぎないところが素敵だった。
後味もとても素敵で言うことがない。
牡蠣つながりでオイスターバーの話をした。
私は無難に三陸と広島の牡蠣しか知らず、男は厚岸の牡蠣や隠岐の岩牡蠣の味や触感の違いの楽しみを語った。
これは予想通りに全く違う生き方をしてきた人間だと思いながら、私は代わりに庶民的な牡蠣小屋の話をした。焼けすぎないように食べるには、次から次へと投入される牡蠣をいかに捌ける人員を配置するかが問われるとかそんな話だったように思う。
なお、男の蘊蓄は大変面白かったけれど、そのあとに続いた雲丹の話のほうが印象深かった。雲丹は昆布が主食なので、昆布が美味しい産地のものを選べば、それだけで確約された最高の美味しさがもたらされるというのだ。なかでも利尻島や積丹半島での旬は夏なのだそうだ。
名前も知らない男はyouと呼んでほしいと言ったので、私もまたこの場ではsheでもmeでもお好きなようにと応えて、フォカッチャにも手を出した。
これがまたバターと合わせると大変に美味しい。家で作るようなものとは違う。
口直しのシャーベットは柚子で、すっかり暖まった身体には美味しかった。
名も知らない人称だけの呼び名で交わす会話は、鴨肉など食べ物のことに終始すれば意外と困ることもなかった。
満腹感とともにお互いに無言となってもさして苦痛を感じないまま、揺らめく光のなかで、流れる音楽に耳を澄ませた。
くちくなった腹に幸福の吐息をこぼした。
吐息は予想外にいろんな感情を代わりに連れてきた。
邯鄲の夢から、現実に戻ってきたかのように、彼氏と会うはずの日に、よく知りもしない男性と食事をしてしまっていることへの驚きと、無言でも気にならない相手は貴重だという囁きと、相反する例えようのない罪悪感が時とともにないまぜになってくるのを感じていた。
せめて名前さえ知ることができれば悪者にだってなれたけれど、それは二人ともがそう感じていないと成り立たない世界だから、私たちは席を立った。
預けたコートをお互いに着ながら、その素敵な年代物のコートが大切に受け継がれていきますようにと勝手に願った。それから決して払わせてはくれなさそうな男性にごちそうさまでしたなんてお礼をいって、そしてそのまま店の前で別れた。
かえすがえすも不思議な夜だった。
腕を組んで歩く恋人たちの間を、忍び寄る寒さに襟をぎゅっと寄せながら縫うようにして歩いたけれど、くちくなったお腹のせいか、不思議な体験のせいか、ちっとも惨めな気持ちにはならなかった。
移り気な彼氏とつきあい続けなくてよくなったのだ。私は貞操を守りつつも美味しいものをたらふく奢られて食べられるという幸運にあずかったのだから。
きっとこれは、もしかしなくてもサンタクロースが無造作に振りまく幸福の一環だった。
だから束の間の夢でしかないんだと、服を脱ぎ捨てながら思った。まるであの男の涙腺の緩さがうつったみたいだと風呂場でやたらファンタジックなことを考えながら、寒さに身を震わせて布団に包まれたのだった。
ところがである。
袖触れ合うのも他生の縁とはよく言ったもので、一度会えばよく会うもの。
これはもう認識していなかっただけで、これはきっとこれまでだって視界に入っていたに違いない。そのくらいの邂逅率で私たちは電車のなかでお互いを見かけた。
もしかすると、視覚情報を処理する脳のどこかではきちんとその存在を知っていたから、私はすんなりあの夢のような気さえしているクリスマスイブの日にあっさりついて行ったのかもしれなかった。
そんな気がするほどに見かけた。
その間にも私の周りではいつの間にかクリスマスの出来事に関して、勝手に玉虫色なストーリーが作られていた。
元彼氏がつくりあげて広めたらしいストーリーには、驚くことにひとりの悪者もいなかった。
あの状況をうまく味方につければ、男はいかにだって私を糾弾する話を作れたはずだ。だけど元彼氏はそうしなかった。
元彼氏の人間性を誤解していたなと私は深く反省しながらも、電車で男を見かける度にこの顛末を伝えたいような謝りたい気持ちに駆られはじめていた。
なぜなら、その玉虫色ストーリーでは、元彼氏が待ち合わせに駆けつけようとしたところ、私には年季の入った恋人志願者が泣いてすがりついており、その男のあまりもの情熱に絆されて、自ら身を引いたことになっていたのだから。
混雑した通勤電車のなかで、まるで天の川のようにひしめき合うひとのなかで、もう十度目を超えて数えるのをやめてしまった軽い会釈をしあう。
混みあった車両のなかを泳いで渡ることなんてできないから、それ以上会話することなんてないまま、近くて遠いようなそんなひとだと思いながら、さらに会釈を重ねるうちに半年が経った。
夏至を過ぎたばかりのはじまりたての夏の蒸し暑さにまだ身体が馴染んでいないような、そんな平日だった。
月曜日でも金曜日でもなかった。私は珍しくもすんなりことが進んだ仕事終わりで、ワンシーズン前のブラウスと新作のスカートを身につけていた。襟の詰まったの首すじに汗をうっすらと浮かばせながら、その日は帰りの電車に乗り込もうとして、その眼鏡姿を無駄に良い動体視力が滑り込む車窓越しに捉えた。
あの冬の日と似たような時刻でありながら、まだ明るい夕方のうちだった。
街灯さえまだ点いてはいなくて、あえていうなら電車の灯りは点いていたかもしれないけれど、そんなものに関心はなかった。
私は乗る車両を一両変えて並びなおした。
帰りの電車で見かけたのはたぶんはじめてだった。
ほぼ最後に乗り込む形になったから、ドア近くに落ち着いて、ひとの隙間から見えるドアのガラス越しに髪やお化粧の乱れがないことを確認しながら、この衝動とどういう折り合いをつけるか考えた。
次の駅で、後ろから乗るひとたちに合わせて中へ進んだ。だけどその先はどこにだって移動できる程度の混み具合だ。
それは七夕ではないけれど、もう泳げる天の川だ。
硬派な書店のカバーをかけた文庫本を片手で読んでいた。痩せたかもしれないし、冬のあのころは着ぶくれしていたのかもしれない。
吊り革をいとも簡単に持っていた。見つけることが簡単だっただけあって、薄着だと背が高いことがよく分かった。
立ち止まるべきか進むべきか、逡巡は一瞬で止めた。
なにより私には支払わせるだけではなるものかという言い訳があった。
私はもうあの日の食事がどれだけ高価だったか理解しているし、話したいことだってあった。
元彼氏が広めたストーリーがまかり通っていると知ったら泣くだろうか。訂正しなかった私を怒るだろうか。笑うだろうか。
そうやって、仕立ての良いしつらえには似合わないあの悪態をもう一度引き出してみたい気がした。
浮いたコートのクリーニング代とは全然釣り合いそうもない差額を埋めたかった。
要するに、ここまで見かけるならせめてちゃんと知り合いになりたかったのだ。ただそれだけ。
たぶんこの段階では、それ以上のことなんて思ってもいなかった。
混んでいるとはいっても移動しやすい程度の電車のなかを私はあっという間に泳ぎきって横に潜り込んだ。乗り換えまではまだ数駅あったから余裕もあった。
でも横に並んでその穏やかな香りをそういえばそうだったと吸い込めば、何度もあの風変わりな夜を思い返すたびに、もしかしてと気づきはじめた勘違いを正したい気持ちが一気に膨らんだ。
それは驚くような急激な変化だったけれど、嗅覚ってそういうものなのかもしれない。
だからカバンから名刺を取り出して、本の隙間から覗くアンティークの時計を視界に捉えながら座席に腰かけているひとたちを観察して、気づくまでそ知らぬふりで待った。
電車がちょっと揺れて顔を上げた男は、まじまじとこちらを見てから、あれ嘘と零した。
ぽかんとしたまま顎で眼鏡の位置を直して、それから急いで本を閉じようとした男の、その本の読みかけのページにすかさずぱっと名刺を挟んだ。
男は本を開きなおし、椎岡味佳と書かれた名刺を見て、数秒固まった。
ぷっと吹き出すと、これもらっていいのかなと訊いてきた。
しおりがわりにどうぞと澄まして告げると、ありがとうと本当にそのまま本をしまいながら、代わりの社用名刺をスムーズに一枚抜き取っては、ビジネスぶって渡してきた。
作法通りにずらし置かれた名刺入れの上で博戸裕翔と書かれた文字を見て、声を潜めて二人でくすくすと笑ってから受け取った。
悪態をつかずになんだと小声で男は言ったし、私も指先を震わせながらまさかのと呟いた。
私があのクリスマスの席で、目の前のひとが二人称で名乗ったと思い込んだのは、普段から私が一人称や三人称で呼ばれがちだったからだ。そして、目の前のひとが私に知り合いになる気がないと勘違いしたのは、彼だって三人称さえ持つ男だっただけだった。
それだけのことだったのだ。
笑った瞬間にはわだかまりでもないけれど、懸念はすっと晴れた。
近寄れない邂逅を繰り返しながら、じわじわと発酵するように膨らんでいたなにかが、あとは決められた形に吸い寄せられるように収まったように感じたのは、きっとお互いに同じだったみたいだった。
想像していたよりもはるかにずっと綺麗にハマったそれは、好みの匂いと相俟ってしっくりとなじんだ。
次に目を合わせた瞬間には、お互いに名を呼ぼうと開いた口を閉じて声にするのをやめてしまったほどだった。
まもなく男の眼鏡越しの目のうえに滲み出てはあっという間に膨らんでしまった涙を見てしまえば、言葉にしなくても夕飯を一緒に食べるつもりにしていることがもう分かっていたから、泣き崩れる前にと空いた肩をぽんぽんと叩いて差し出した。
もちろん何を食べるかだって言わなくても知っていた。
それどころか、たぶんおぼろげながらもそこからああでもないこうでもないと、積みあげたり減らしたり、裾を持ったり眼鏡を外したり時には悪態だって聞きながら、知らない景色をつくりあげるのも楽しくて素敵かもしれないと、あのときお互いに考えていたことだって理解したように思う。
肩に届いた固い髪がこそばゆくて、遅れて震えが伝わってきたから、今度はそっと眼鏡を取り上げて肩に押しつけるとその後頭部を撫でた。
あの日を振り返るうちに、あの日の行動をなぞるうちに、あのときそうしていたらなにか変わったかなと想像してしまったように、私はそこを撫でていた。
嗚咽までには至らなかった男ともう一度言葉なく笑いあったときには、もうこのあとに辿っていく今年のクリスマスより先の未来のことだって瞼裏に浮かんでしまったけれど、それは預言のように確かなものだったから、取り出したハンカチをそのまなじりに当てて眼鏡を返した。
電車を降りれば外は汗が貼りつくような夕方すぎで、イルミネーションどころか街灯ひとつ点ってもいない明るい街並みへと向かう階段を並んで降りながら、偶然ふれ合った指さきをそのままからめて私たちは手をつなぎあって歩いていった。
クリスマスの魔法の残り香にやられたわけでもないけれど、ビルの隙間から差し込む夕焼けを浴びながら手をつながれたその瞬間には、さ来年のクリスマスはあのコートにどんないたずらをしてこのひとを驚かせてみようかなだなんて、もうこのあとのずっと遠い未来のことも瞼裏には見えはじめていたのだった。
■ キャスト
――博戸裕翔 [ひろど ゆうと]
Do you go by You or He?
I prefer Yuu.
そこそこ成功した両親の下で生まれ、幼稚園から私立お受験お坊っちゃまコースを歩んできた。育ちが良くても悪態くらい使ってみたいお年頃だってあったから、まれに出る。
クリスマスの段階では社会人五年目。大学生になるにあたり、祖母から投資目的で持っていた郊外の一軒家をもらったが貸すこともなく、生涯未婚のまま仕えたじいじとばあやを連れて、そこにそのまま住んでいる。ゆえに通勤時間は長めだが、寝坊しない限りは元々運転手をしていたじいじに送られての通勤。クリスマスのときの女性を見つけて、はじめて定期券を買ってみた。イケメンというよりは品の良さがにじみ出る男性。イエベ系ワンコ系男子。ゆう。
ベタ惚れな女を泣きすがって落とした男だと、彼女の周りではまことしやかに語られている。本人はそれを人間観察と言っているが、好奇心旺盛に輝く瞳が好きだから、あながち泣いてすがったという話も的を得ているのではないかと思っているし、いざとなれば泣き落とそうと思っている。実はどんな手段だろうと欲しいものは最後には引き寄せるタイプなのだが、本人にはあまりその自覚はない。ただその気があれば時間をかけて元カノを自分の元に戻すこともできたのはわかっていたがそうしなかったあたり、ビビッときたアレだったのかもしれない。
――椎岡味佳 [しいおか みか]
You can just call me, Me... or she.
Oh, she is so clever.
公立受験を積み重ねてのいわゆる国立大卒。働きながら、劇団の音響係もしていたりする。少子化のあおりを受け管弦楽部を廃部になっていたので、演劇部の音響をやっていたことに由来する。ブルーベース系のハッとするような雰囲気系黒髪美人。同時に実は柔道黒帯のネコ系女子。下町の学区ながらも汚い言葉は使わせてもらえない家で育ったので、質の良さそうな男から聞こえたありふれた悪態には、そうは見られないが大層驚いた。みい。
その後の話をするなら、要領は良くないけれどマイペースなため、割とブラックな職場に平然といた彼女は、その後男に最適な道を上手に提示されて転職する。ホワイト天職に導いてくれた恩人には深く感謝しているが、男としてはデートしづらいのが嫌だからという理由だったらしい。幸いにもお互いに身分違いなるものは特に気にならない性格だったのでやがては結婚したものの、彼女自身はやりたいことはゼロから手探りして身につけるものだという方針の父親に育てられたため、子どもの習い事方針では揉めた。
夫曰く、ときおり妻のことを非効率的だとは思うものの、妻がいると世の中の広さを感じるそうである。
――名もなき元カノ。
She looks like evil woman for you.
If I had to choose, Go-getter girl.
Yes! She is go getter, maybe.
血統書に惹かれたのになんか違うとお乗り換え。ぐいっといくけど、ぐいっときてほしいタイプ。実際に裕翔とはあまり合わなかった様子。最後はちゃんと俺様系男子とつき合いきっちり玉の輿をつかむに違いない。
――名もなき元カレ。
Well, Perhaps he is entertainer, like a jester at that party.
I think It is not true. You are just out of his league.
ちょっと毛色の違う猫を綺麗だと思い手を出そうとしたら、なんというかオーラというかクラスが違うと感じていた。手ごろじゃない感じ。のめり込む前だったし、泣いてる目の前の男の方がよほどこの女には合うような気がした。
これなんてラブコメなの? こいつら最後は収まるとこに収まるんじゃね?
むしろだれかくっつけてやれよ。
ささ、お邪魔虫は退散して早く次へ行こうと思っての善意による優しさで、仲人候補に破局と、あいつら誰ぞくっつけたれよのご連絡をした。当然ながら世話焼き心で広まる優しい世界の結果、周知の事実として知れわたり、結婚式ではあれが噂の泣いて取り縋った男となった次第である。
軽い調子が玉に瑕だけれど本当はとても良い男なので、絶対に幸せになる。相手の女性が心を開いてくれさえすれば、とても大きな心で包み込むに違いない。
◇
お読みいただきありがとうございました。
次回作は来年、4月1日に投稿いたします。
もう投稿予約は済ませています。
『ヒロインよりも悪役ご令嬢が一途で萌えるんだが』
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(2020年4月1日公開――全7話)
作風はそこそこ違っていて、絶対に自分が書きそうにないものを目指してみました。
2万字程度のエイプリルフールのおはなしです。
クリスマスを描いたこのおはなしの作風は、どちらかといえばムーンで発表させていただいているおはなしの系統になると思います。
私のなかでのムーンの定義は、子どもに読ませたいとは思わない思想の小説を置く場所ということになっているので、このおはなしもわりと真剣にムーンに置くことも考えたのですが、一般的な考え方ではないためかえって叱られそうな気がしたので、こちらで発表させていただきました。




