イッシュンカン
正直彼女に出会った日のことを僕は覚えていない。
それは僕が健忘症という訳じゃなく、物心つくずっと前から彼女は僕の日常に浸透していたのだ。
そばにいるのが当たり前で、僕にとって空気のようなものだったからだ。無くてはならないけれど手を合わせて礼を言う訳でもない、寧ろあって当然。友達でもなく恋人でもない言わば友達以上恋人未満な兄弟に近い関係だった。もちろん僕が弟で彼女が姉。
幼稚園や小学校の頃を思い浮かべても僕は彼女の背中しか思い出せない。弱かった僕はいつも彼女に守られて彼女の強さと優しさに甘えた。
中学生になり恋心でも芽生えるかと思いきや、やはり彼女は僕にとって"小春日和ひより"以外の何者でも無く、女として認識する以前に姉に近しい感情を抱いていたような気がする。
「雫、今日スーパーで卵の特売だから2パック買ってきて」
「へいへい」
こんな具合にメールのやり取りも、とても青春真っ盛りの10代とは思えない、結婚10年目の夫婦かよ!と突っ込まれそうなくらい簡素なものだった。と言うのも僕の両親も、彼女の両親も共働きで起きたらもう出勤で寝てから帰ることが多かった。だから僕がスーパーで買い物をして彼女の家に向かい、彼女の家で晩御飯を食べるという事が中学になってからはよくあった。
だけど高校生になって日常は一変する。
彼女が病気になった。
彼女の生活が変わったということは即ち僕の生活も変わったという事だ。彼女が入院して以来、僕は学校帰りに毎日病院に寄った。
日に日に痩せて変わっていく姿を見るのは、辛かったけれど彼女に比べれば僕の辛さなんて取るに足らないレベルに違いない。そう思うことで何とか通えた。
そうでも思わないと、とても病室に足を踏み入れる事なんて出来なかった。
いつまで経っても僕は弱いままで、彼女が病気の時でさえ僕は助けられていたように感じる。あの優しい笑顔に僕はいつも救われた。
百度参りと言う言葉を知っているだろうか?
願いを叶える為に神社に100回お願いをしに行くのだ。
100回目に願いが叶うとか何とか…
それに準えて僕は密かに彼女の病院に行く回数を数えていたのだ。今日は65回目。
「今日も来たの雫、帰って夕飯の準備をしないとお腹すくでしょ?」
そう言って見舞いに貰ったであろうフルーツバスケットからリンゴを1つ取り僕にくれるのだった。
まあ素のリンゴにかじりつく訳にもいかず、ポンポンと上に投げる。
「今日は満月みたいだよ、一緒に見ない?」
丸いリンゴをみてふと思い出した僕は、それとなく聞いてみることにした。
すると彼女は片目を瞑ってふう、小さくため息をつく。実はこれが照れ隠しで実は内心とても喜んでいることくらい僕は知っている。
可愛くないやつめ、素直に喜べば良いものを…
と思わなくもない。
「でも雫、帰らなくても…」
帰らなくていいの?と彼女は言おうとしたのだろうけれど途中で気が付いたのか彼女はその後に続く言葉を言わなかった。
帰ったって誰もいない。
2人で夜にぽっかりと浮かんだ丸い月を何を言うでもなくただぼんやりと眺めた。ちらりと月明かりに照らされた彼女の横顔を見ると目が合って、僕は慌てて目を逸らした。
クスリと彼女が笑い、何か言い返そうとも思ったが何も言い返さなかった。静寂が心地いい。
言葉にならない想いも全部吸い込んで優しく僕達を包み込む。
時間よ止まってしまえと心から願った。
目が覚める。そして彼女のベッドに突っ伏す形で眠っていたのかと理解するのに数十秒かかった。
どうやらあの月見の後、僕はそのまま眠ってしまったらしく残念ながら時間は止まらなかったみたいだ。
すよすよと眠る彼女の寝顔をみて学校をサボろうかと5.6度悩んだが結局"彼女に怒られたから"と我ながらなんとも情けない理由で登校する事にした。
「行ってきますー」
と病室を出ようとすると"行ってらっしゃい"ではなく
「ばーか」
と見送られた。なんだそれ…
学校に来てみるとどうも様子がおかしい。
すれ違う人がみんな僕を凝視する。ある人はクスクス笑い、ある人はギョッとする。
なんだ?寝癖でも付いていたかな?
ぺたぺたと髪を触るがそんなに笑われるようなヘアスタイルでも無いはずだ。オシャレかと言われると悩ましいところではあるけれど…
ガラリと教室のドアを開ける。
「なんだぁ?色取、お前今更自分がバカだと気が付いたのか?」
入るや否やアホ友達の日吉が僕にそんな事を言った。サッカー部っぽい顔のサッカー部っぽい髪型をしておきながら帰宅部だ。そこが一番気にくわない。
「バカなのはお前もだろ」
「お前…さては、こはるちゃんの病院で夜を明かしたな?」
「……」
なんだコイツ、もしかして見ていたのか?
そして思い出す。
病院を出る際彼女が言った言葉、そして日吉の言葉。
「まさか!」
顔を抑えて僕は教室を飛び出しトイレへ駆け込んだ。
鏡を見ると額に大きく"バーカ"とペンで書いてあった。
ちくしょう!僕はこんな恥をぶら下げて何食わぬ顔で学校に来たのか!
慌てて顔を洗い教室へ戻る。朝からとんだ災難だ。僕が学校で恥をかいているのを想像して彼女が笑っている姿が目に浮かぶ。あー、やっぱり今日は学校に来るんじゃなかった…
明日からはちゃんと鏡を見てから登校しよう。
「まったく色取はいいよなぁー。イチャイチャ出来る彼女がいて、しかも可愛いし」
席に戻ると日吉がまた話しかけて来た。
「はっはっは面白い冗談だな、何なら代わろうか?」
日吉もきっと彼女の私生活を見たら失望するに違いない。グータラで、ズボラで、怒りっぽくて、泣き虫で、イタズラ好きで、口ではなく拳と背中で語る彼女の姿を。
「そりゃ代わりたいのは山々だけどみんな知ってんだ、ひよりちゃんはお前じゃなきゃダメだかんなあ」
そして小さく"あーあ、素敵な出逢い落ちてねぇかな"と呟いた。もしも出逢いが落ちていたとして、そんな犬のフンみたいなので彼は良いのだろうか?
「はーい、朝礼始めるぞー」
担任の天元先生が教室に入り、クラスはザワザワとしたまま各自 自分の席に着く。
「まず出欠確認、えーと流は今日は休みか?」
先生は彼女について最近聞かなくなった。
二学期に入ってから1度も学校に来ていないクラスメイトを毎日呼び続けるのはどうかとも思うが、呼ばないという事は、来ていない=普通 みたいに感じてその度に胸がチクチクと傷んだ。
「それじゃ早速、来週の体育祭についてだが…」
そんな具合に今日も一日が始まり、そして何事もなく帰路につく。
帰り道、虫でも捕まえて見舞いがしらに投げつけてやろうかとも考えたがベッドから落ちて骨折したら元も子も無いのでそれは病気が治ってからすることにしよう。
「あ、雫おかえりー」
「おかえりじゃねえよ、よくも僕の額に落書きしたな」
彼女はくくく、と布団に顔を伏せて笑う。
その姿を見て僕は"可愛いから許してやろう"ではなく"見てろよいつか絶対に仕返ししてやる"と心に誓った。プリントを渡しノートを見せて、はいお勤め終了〜と帰ろうとしたら彼女に呼び止められた。
「ねえ、そう言えば体育祭ってそろそろだよね」
「うん、一週間後」
「一週間か…長いようできっとすぐ来ちゃうんだろうな」
そう言って窓の外を眺める彼女はなんだか今にも消えてしまいそうに儚くて少し恐ろしく感じた。
「来週参加とは行かないだろうけれど来年があるじゃないか」
僕はフォローのつもりでそう言った。
「うん、そうだね」
そう言って彼女はまた優しく笑うのだった。僕は彼女の笑顔に陰りがあることに気付けなかった。
「じゃあ、また明日」
と僕は病院を後にした。




