思い出フロー
「雫ー!おっはよー!」
不意に懐かしい声で呼ばれ反射的に僕は振り向く。
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「雫ー!おっはよー!」
"今日も"朝から元気な声でひよりが僕の名を呼ぶ。
親と喧嘩した日も、悔しくて泣いた日も、腹が立って起こった日も、ひよりのこの一言が全てを吹き飛ばしてくれるような気がした。
今日は朝から父さんと母さんと買い物に行く約束だったのに、"ごめんね、急に仕事が"と断られ家を飛び出してきた。
けれど、ひよりのたった一言で抱えていた心の雲が払われるように、心がさっきまでの雲が嘘のように晴れ渡る。
「おはよう、ひより」
軽く手を上げて僕は答える。
「急に呼び出してゴメンね?」
「まあ僕も今日は暇だったから良いよ。それで今日は何するの?」
そう聞くとひよりは口に手を当て"うーん…"と唸った。
「まさか…何も決めてなかったの?」
ひよりは、こくりと頷いた。
「何となく雫に会いたいなーって思っただけ」
別に休日に呼び出さなくたって明日になれば学校で会えるじゃないか。なんて野暮ったい事は言わない。
僕だって勢い任せに家を飛び出して、行くあてなんて特になかったのだから。
「あ!そうだ!いい事思い付いた」
ひよりはポンと手を打つ。
「山に登ろう!」
僕らがいつも待ち合わせをする"雲祓神社"は雲隠山と呼ばれる山の少し登った所にある。
明け方、特に霧が濃い日はこの山が雲隠れでもしているかの様にみえるから…的な話を誰かから聞いたことがあるけれど何もこの山に限った事じゃ無いように思う。
雲隠山の雲祓神社。よくよく考えてみると訳が分からない名前だけれど、そこがいつも僕達の集合場所だった。
「登るって言っても既に何十回単位で僕達頂上に行ってるよね」
息を切らしながら僕は言った。
「今日目指すのは頂上じゃないよ」
息も乱さずにひよりは答える。
「うん?頂上じゃないなら一体僕達はどこに向かってるの?」
「ま、いいからいいから」
うまい具合にはぐらかされてしまった。
何となくこれ以上追求する訳にもいかず、黙って彼女について行くことにした。
ひよりの歩く道はけもの道のような、あるかないか分からない険しい道で途中何度も転んだ。
ただの一度も転ばず、僕の前を歩くひよりの背中を見て流石だと思った。
そんな道を歩くこと30分。
少し開けた場所に出た。そこには誰が何のために設置したのか分からないベンチが1つポツンと佇んでいた。
「もしかして僕達はここを目指して登ってきたの?」
途中で出来た擦り傷を見ながら僕は言った。
「そうだよ」
自慢げにひよりは胸を張る。
「取り敢えず休憩しようよ」
若干コケの生えたベンチに腰掛けようと歩き出すとひよりに止められた。
「まって、まだダメだよ」
座っちゃダメな椅子なんて優先座席か公園の筋トレ機能付きベンチくらいだろうと思っていたけれど、ここもその仲間らしい。
ふうん、ひよりが言うならそうなのだろうと納得し僕はその場にしゃがみ込む。土は微妙に湿っているため腰を下ろす訳には行かなさそうだ。
さらに15分程経った時ひよりは再び口を開く。
「そろそろかな?おいで雫」
ひよりは僕の手を取りベンチに歩いた。
あれ?ダメじゃなかったのかな?
「ちょっと目を瞑ってココに座って」
言われるままに僕は目を瞑り、若干コケの生えた例のベンチに腰掛けた。
「目開けて良いよ」
僕はゆっくり目を開ける。
「……!」
目の前に広がるオレンジ色に、僕は言葉を失った。
このベンチは沈みゆく太陽と向かい合わせに設置されたのだと思った。
僕達の住んでいる街が、学校が、電車が、ビルが、全てオレンジ色に彩られその影と光のコントラストがなんとも言えない美しさだった。
夕日に照らされてキラキラと光るビルを見て、あまり好きじゃなかったビルがこんなにも綺麗に見えるのかと驚いた。
「この場所はね私が小さい頃おじいちゃんに教えて貰ったんだ。この時期の、この時間にしか見れないんだよ」
疲労も擦り傷も全て吹っ飛ばされて、僕はその景色をただただ見つめていた。
帰り際、ふと振り返るとさっきまでコケの生えた少し汚いベンチだったのに何故かあの夕日と同じくらい綺麗な宝物のように感じた。
再びけもの道を通り雲祓神社に着いた頃にはもうすっかり日が落ちていた。鈴虫の鳴き声が聞こえる。
「ねえ雫、この神社に初めて行った日のこと覚えてる?」
賽銭箱の前に腰掛けひよりが聞いた。
「忘れるわけ無いよ。ひよりが学校を抜け出してどっか行っちゃうんだもの」
「そうそう、誰にも見つけて欲しくない。そう思ってたような気がするんだけど多分あれは見つけて欲しかったのかも」
「見つけて欲しかった?」
「うん。きっと私は見つけて欲しかったんだ。他の誰でもなくて雫に」
「まあ僕が見つけたのは2、3時間後だったけれどね」
「自分で逃げておいて変な話だけどさ、ここにいる時すごく怖かったんだ。何だか世界に自分一人しか居ないような気がして、もしかしたら本当に誰も来ないんじゃないかって…そしたら雫が来てくれた」
「ま、本当は探している内に僕も迷子になっただけなんだけれどね」
流石に少し恥ずかしいので僕は嘘をついた。
すくっと ひよりは立ち上がりそしてくるりと振り返る。月明かりが彼女の綺麗な黒髪を照らした。
「ずっと、ずっと大好きだよ雫」
その言葉だけで僕は胸がいっぱいになった。
本当は思い切り抱きしめたかったけれど、僕も大好きだと言いたかったけれど、恥ずかしくて出来なかった。
帰り道、ひよりが流した涙の訳なんて知るはずもなかった。
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