[6]
神殿からの帰り道が、ひどく長いものに感じた。
宿に着いた時辺りはすっかり闇に包まれていた。
旅人は重い気持ちのままで宿に入り、男たちで埋まったホールの前で立ち止まる。
「ああ、ようやくお戻りですかい。朝起きたらいないんで心配しました」
旅人の姿を見てほっとしたように、主人が走りよってきた。
「黙って出かけてしまってすみません。急ぐ用があったもので」
「ご無事ならいいんですがね・・・部屋の準備は出来てますが、どうしますか?」
「支払いをしてもよろしいですか?」
「え? このままお立ちになるんで?」
主人が不思議そうに尋ねた。旅人は軽く首を振る。
「いえ、また明日早くたたなければならないかも知れないので、明日の分も含めて先にお支払いしたいんです」
「・・・そうですか、なら今宿帳を持ってきますんで・・・」
「お願いします。ああ、それと一杯頂きたいのですが」
立ち去ろうとした主人を呼び止めて、旅人はホールの席を指差した。
「わかりました。すぐに『目覚め』をお持ちしますよ」
旅人はまっすぐ例の席にに向かった。闇の中にはあの男が座っている。
「親父が心配していたぞ。宿代を踏み倒されたんじゃないかってな」
「そんなことしませんよ。用があっただけです」
座ると同時に主人がやってきた。
テーブルの上に杯を置き、宿帳をめくる。
「明日の朝までですな、ここにお名前を」
言われたところに名前を書き、袋から代金分の硬貨を出し主人に渡す。
主人は宿帳に何かを書き込んでから、そのページの半分をちぎって旅人に差し出した。
旅人は小さな紙片を袋にしまうと、向かいの暗闇に目を向けた。
「また神殿に行ったのか?」
主人が去るのを待って、男が言った。
旅人は驚いた様子もなく杯を持ち上げる。
「ええ、行きました」
「何か面白いものでもあるのか? 『幸福』の神殿には」
「・・・伺ってもよろしいですか?」
「何だ?」
「どうしてこの村には女性がいないんです?」
旅人の声が大きくなったのか、それとも声色のせいなのか、その言葉はホール全体に響きわたった。
途端に、酒に酔い半ば喚くようなざわめきが消える。
「何を言っている? 女たちなら家に居るだろう。こんな時間にうろつくなんて・・・」
当たり前のような答えだったが、男の声はかすかに震えていた。
旅人はゆっくりと三角帽を脱いだ。
丸い、髪の無い頭部が暗い闇の中に浮かんで、ホールに息を呑む音が広がった。たわいのない会話をしながらも、その耳と目は男と旅人の会話に傾けられてるのだ。
旅人はざわめきをよそに布袋から『竪琴』を取り出した。
弦のない竪琴だ。
「・・・あんたは・・・神音師・・・か」
ため息のように男が言った。『幸福』の神殿に仕える者にもあまり知られていない職名を。
だが、旅人は驚くこともなく頷いた。
「そうです。よくご存知ですね。『幸福』の信仰はすでに失われてしまっているのに」
男の言葉を否定せず、旅人は椅子を下げ竪琴を構えた。
そして、弦のない竪琴を鳴らす真似をする。
「せっかくですから、何かお話しましょう」
旅人は歌うように語りだした。
「遠い昔、1人の乙女がこの地に渡って来ました。乙女は愛する人と共に安住の地を求め長い間この地を彷徨いました」
「幸福の乙女の話か・・・」
闇の中で男が呟いた。旅人はそちらを見て微笑んだ。
男は黙り込んだ。
旅人はもう一度見えない弦をかき鳴らした。
「その乙女は『幸福』信仰をこの地にもたらした最初の―――幸福の授け手と呼ばれる乙女でした。乙女がもたらした物は『幸福』の信仰とリテディアの実、そしてこの竪琴でした」
朗読に近い旅人の言葉は、そののびのある艶やかな声でもって語られるとまるで歌のように美しい旋律となって男たちの耳に響く。それは初めて旅人の声を聞いた時より衝撃的な感覚だった。
「乙女はこの地を巡る旅の途中、リテディアの実と竪琴を使いいくつかの奇蹟をもたらしました。人々が『幸福』を身をもって感じられるように、と」
言って、旅人は右手を伸ばす。
「この竪琴にはかつて7本の弦があったと言われています。ですが、乙女の奇蹟と共に失われていきました」
手のひらから風が起こり、2本の弦が絡まるように浮かび上がった。
静かに息を潜めていた男たちの間に、小さなため息が漏れる。
旅人の手の上に踊る、7色の光を放つそれはこの世のものとは思えない美しさだったのだ。
「リテディアがこの地に根付くためにはきっかけが必要だったのです。乙女は弦を元にしました。そして、この村にも―――」
「もういい、もうやめてくれ」
細かく闇が震えた。男の声が悲しげに、寂しげに響いてくる。
暗い影に隠れて男の表情は見えなかったが、包む空気が揺らいでいるのが分かった。
「あんたはデーアから来た神音師だ。何もかも分かっていてここにいるんだろう?」
「いいえ、私がここに来たのは偶然です」
「そんな筈ない。こんな山奥の村に何故神音師が来るんだ!」
男が立ち上がり、テーブルを叩いた。旅人の『目覚め』と男の『眠り』の器が激しく揺れ、倒れた。
「私は『月の夢』を求めて旅しています。なぜなら、『月の夢』は『幸福』の信仰とともに渡ってきたリテディアの実が、初めてその形を変えてこの地に現れた奇蹟の飲み物だからです」
旅人はそこで一度言葉を止め、ホールの中を見回した。
仕事帰りのはずの男たちは、不思議そうな顔で旅人を見ている。
「戦乱と共に『幸福』の信仰も、その歴史も失われました。今では幸福の授け手がどうやってこの地に『幸福』の信仰を広めたのか、7本の弦がどこで失われたのかすら分からないのです。だから私は『月の夢』を探しているのです。『月の夢』を探すことは、そのまま授け手の足取りになるのですから。そして、この村は偶然にも私の旅の途中にあったのです」
「偶然・・・そうか、偶然か。では、やはり神はいらっしゃるのだな・・・」
男が擦れた声で言うのを聞きながら、旅人は手の中で踊る弦を竪琴に近づけた。
するりと弦は手を離れ、在るべき位置へと結ばれる。
2本だけの見栄えの悪い竪琴。
旅人は手前の1本を爪弾いた。
澄んだ音が響く。
「あの子は俺の娘だ」
男が聞き取れないような小さな声で呟く。
「俺が『聖選』の神殿を建てた時、突然神殿を建てたら駄目だと言って、あの森の中にこもっちまった。どんなにしたって出てきやしない。だが俺は神殿を建てたかった。妻を亡くして暫くぶりの仕事だったし、俺が手掛けた中で一番大きな仕事だったんだ。一生の誇りになると思った」
テーブルの上で2つの酒が混ざり合い、甘い香が漂いだす。
「完成して、すぐだった。あいつらが攻めてきた。祭りの日・・・女たちはみな『聖選』の神殿にいた。全滅だった。祭りを終えて帰った時、残っていたのは数人の兵士だけで・・・でもな、1人だけ無事だった女がいたんだ」
「巫女ですね?」
「そうだ。俺は喜んだよ。ああ、家の子は無事だった。よかったってな」
男はくすくすと笑った。不釣合いなほど朗らかに。
「でもな、ここの奴らはそれを許さなかった。覚えてたんだ。俺の娘が『聖選』の神殿を建ててたとき言った言葉を」
「巫女はなんと言ったんですか?」
「・・・この神殿を建ててはいけない。この神殿は不幸を呼ぶ・・・と。こいつらはそれを覚えてて、残ってた兵士を殺すと『幸福』の神殿に向かった。そして、俺の娘を・・・」
後は声にならなかった。旅人は小さく頷いて、先を促した。
「巫女は最後まで祈っていた。最後の最後まで。そして祈りは神に届いたんだろう。こいつらは皆何も覚えてない、あの時のこと。俺には分からなかった。自分を殺そうと・・・いや殺した人間を助けようなんていうその気持ちが!」
「でも貴方は助けた」
「ああ、そうだ。それが娘の願いだったからだ。俺があの子にしてやれるたった1つのことだった。こいつらを仕事帰りにここで酔わせ、あの子の作った料理を家々に運び、太陽が昇る前から働かせる。家族がもういないということを思い出させない。俺が出来ることはそれだけだった」
闇が深まる。男の感情にあわせるように、その場の空気が変わっていく。
「・・・あの子は消えちまったのか?」
「はい、巫女はお戻りになられました」
「そうか、ならもういいんだな」
心底ほっとしたような声音が闇をほんの少しだけ退けた。薄暗い中に男の輪郭が浮かび上がる。
旅人はもう一度弦を爪弾いた。
「巫女より歌をお預かりしています。巫女のための歌ですが、巫女が是非あなた方にと」
「俺はどうすればいい?」
「歌の間にすべて終わっているでしょう」
「そうか、よかった。―――酒を一杯頼んでいいか?」
男に『眠り』が運ばれるのを待って、旅人は竪琴を構えなおした。
ホールにいた男たちはただ一様に旅人の動きを追っている。
「この歌は『幸福』の神より、ただ1人の授け手に送られた歌です」
旅人はホールをゆっくりと見回してから、竪琴をかき鳴らした。2本しか弦とは思えない幾重にも重なり合った深い音が響き渡った。
男たちの眼は自然とその竪琴へと集まった。
見かけは無骨なつくりの竪琴だったが、細部には模様が刻まれていて、見れば見るほどその精巧な作りに、男たちからため息がもれた。そしてその竪琴の2本の弦は、旅人の細いまっすぐな指が触れるたび7色に輝きさらに輝きを増していく。
光が部屋中に満ちた頃、旅人は唄いだした。
初めて聞く歌だった。
初めて聞く言葉だった。
だが、不思議な旋律を持つその言葉は、意味は理解できないが何故か心に響いた。
竪琴の音より少し高い声がゆっくりと広がる。柔らかで心地よいその豊かな声質は、竪琴の音に合わせるように変化する。
旅人は瞳を閉じ、無心に歌い続けた。
ホールには旅人の声意外の音はなく、男たちは呼吸さえ忘れたように見入っていた。
声は竪琴の音に交じり合い、やがて歌なのか音なのか判断がつかなくなる。
そして、どれだけ時が過ぎたのだろう。
長い歌は終わりに近づいていた。男たちはテーブルの上にふして寝息を立て始めている。
その顔はどれも安らぎと至福に満ちている。
旅人は長い時間をかけて、歌を終りに導いた。
声が止み、重なり合った音を1つづつ消していく。音は拍をとりながら弦の数と同じ2音に絞られ最後には微かな振動を残して消えていった。
指先に伝わる弦の余韻を掌で消して、旅人はようやく瞼を持ち上げた。
歌う前まで暗闇だった場所が、薄暗い明かりに浮かび上がる。そこには粘りつくような男の姿はなく、テーブルの上に『眠り』の満ちた杯だけが残されていた。
旅人は竪琴の前で手を振り弦を外すと、巻き起こる風とともに握り締める。
そして丁寧に布袋に竪琴をしまうと、静かに立ち上がった。
「お立ちになりますか?」
不意に背後から声をかけられ、旅人が振り返ると宿の主人が立っていた。
「いいんですよ。お立ちになっても。彼らも目がさめれば家に帰り、すべてを受け入れますよ」
「・・・貴方は?」
「わしは大丈夫ですよ。宿なんてやってますとね、祭りなんて関係ないもんなんですよ。だからあの日一部始終を見てたんです。おかげで何も忘れなかった」
主人はさっきまで男が座っていた席に腰を下ろした。
穏やかな表情に深い疲れが刻まれている。
「ここに座ってた人も初めは『目覚め』を好んで飲んでいたよ。あの日からは『眠り』しか飲まなくなっちまった。酔うには『目覚め』はあまりに軽すぎるってね―――この村のもんはみんな忘れちまってたけど、あの人は覚えてなきゃなかったろ。一番忘れたいのはあの人だっただろうからね。なんせ恨む相手は昨日まで一緒に仕事をしていた仲間だったんだから」
主人は残された杯を煽った。
「神音師・・・遠い昔に聞いたことがあるよ。まさか、こんな村に現れるなんてね・・・」
主人はそう両手で顔を覆い、うつむいてしまった。
「もうすぐ夜が開けます。どうかお立ちになってください。神音師様」
「ですが」
「あの日から長く時が過ぎてます。わしらは大丈夫ですよ。貴方がいればまた同じ過ちを繰り返すかもしれない。お願いです、どうかお立ちになってください」
主人は下を向いたままそう言った。旅人は躊躇いながらも、帽子を深くかぶると扉へと向かった。
静まり返ったホールに足音が響く。
「神音師様、ありがとうございました」
主人の小さな声が耳に届いたが、旅人は振り返らなかった。
後のことは主人に任せることにして、宿を後にする。それが宿の主人とあの男の願いだろうから。
旅人は昇り始めた太陽に向かって歩き出した。
あの男たちにも旅人にもいずれ望みが叶う、『幸福』を手に入れるその時のために。
終
「幻月酒」はこれでおしまいです。
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本当にありがとうございました。




