[5]
夜が明け始めるのを待って、旅人は『幸福』の神殿へと向かった。
村を出た時はまだ辺りは薄暗かったが、神殿につく頃には太陽が昇りきっていた。
旅人は迷わず少女のいる小屋の扉を叩く。
「はい、今」
間をおかずに声がして、扉が開く。
「・・・こんな朝早く、何の御用でしょう?」
少女が、旅人の姿に眉を寄せた。
「すみません。少しよろしいですか?」
「・・・どうぞ」
少女は旅人をしばし眺めてから、部屋へと招き入れた。
机と椅子、寝台と祭壇。部屋は昨日見たのと変わったところはない。
旅人は椅子に座り、昨日シチューが入っていた鍋に目をやった。
一人暮らしの少女が一日で食べきれる量ではなかったはずだ。だが鍋の中身はすでに違う物が煮られていた。
「昨日のシチューはどうしたんですか?」
何気なさを装って尋ねると、少女はビクリと肩を揺らした。
「あ、・・・こぼしてしまって」
あきらかに狼狽して少女が答える。
手元が震えて入れかけのお茶がこぼれた。
「ほら、また!」
「すみません、私が突然声をかけたから」
「そんなこと・・・そんなことないんです」
少女は一度大きく深呼吸してから、お茶を注ぎなおした。
リテディアの甘い香が部屋中に満たされる。
「どうぞ・・・それで、一体何の御用ですか?」
いかにも不安げな瞳で少女が聞いてくる。旅人はお茶を一口流し込んで、ほうと息をついた。
「やはりリテディアで作られた物は美味しいですね」
「ええ、そうですね。リテディアの実から作られる品物はどれも良い物ばかりですね」
少女は首を傾げながらも、律儀に答えを返す。
旅人は大きく頷いた。
「リテディアの実さえあれば、よい物が作れる。ですが、出回る品数はそう多くない。模倣品があっても良いはずなのに、誰もそれをしようとはしない。それは何故かご存知ですか?」
「それは、リテディアの木があるのは、『幸福の授け手』がその地を訪れた証であり、リテディアの実より作られた品があるのは、『幸福の授け手』が選んだ巫女がその奇蹟を行うから・・・」
少女が息をのんで、口を覆った。
少女の瞳と、旅人の紫の瞳が絡み合う。
「貴方は一体・・・」
「『月の夢』を探して旅をしているというのは嘘じゃありませんよ。ただ、探し物が一つではないだけです」
旅人は少女から目を逸らさないまま、右手を目の高さまで持ち上げて開いた。
ふわり、と手のひらの上に風が起こる。小さな風は天井へ向かい何かを巻き上げた。
風に混じってくるくると踊る糸。いや、糸よりは幾分太い。
「・・・弦・・・ですか?」
少女が呟くように尋ねた。
確信を得ない疑問の言葉。
「ええ、弦を探しています。ご存知じゃありませんか?」
少女は長い間黙って旅人を見つめていた。
どれだけの時間がすぎただろうか、ようやく少女が口を開いた。
諦めの色を浮かべた瞳が、ほんの少し細められる。
「その答えを差し上げる前に、話を聞いていただけますか?」
少女は旅人が頷くのを見届けて、背を向ける。
旅人の手のひらで踊っていた糸が消えた。
「・・・朝食は召し上がられましたか?」
「いいえ、まだですが」
「なら昨日の寄せておいたシチューが残ってますので召し上がりませんか?」
「ありがとうございます。でもお構いなく。宿の方で用意していると思いますから」
「・・・是非召し上がっていただきたいのです」
少女は、小さな鍋を大鍋の隣にかけた。
漂いだすシチューの香。少女は無言で鍋をかき回し続け、やがて旅人の前にシチューの入った器を置いた。
旅人はゆっくりとシチューを口に運んだ。1口、2口、そして、匙を置く。
「・・・宿と同じ味?」
同じ村の中だ。味が似ててもおかしいことはない。だけど、旅人が口にしたシチューの味は、まったく同じだった。
「お分かりになりますか?」
穏やかな少女の声。同じ味がするのは当然だというように。
「でも宿だけじゃないんですよ。この村の食事はすべてここで作られてるんです」
からかわれているのかと、いぶかしむ旅人に少女は微笑んだ。
「この石をいただいた時、わたしは2つの神託をいただきました」
細い指が胸元の白い石に触れる。
白い石は『幸福』の巫女の証。俗世から離れ、ただ祈ることを許された者に与えられる物。それは『幸福』の神とその人物で行われる契約で、生まれた時から許される者もいれば、年老いてから神託と言う形で得る者もいる。
少女は後者なのだろう。ある日突然巫女に選ばれたのだ。
そして、巫女だけが知るという方法でその石を受け入れた。
「神託は、この村と神殿を守ることの2つでした」
「村を守る?」
「そう。村は戦乱に巻き込まれるだろうから、守れと」
瞳を伏せ、少女は頭を振る。
「ですが私に何が出来ますか? 『幸福』の巫女など祈るだけの存在。何かを与えることも変えることもない、ただ願うだけの存在。小さくともたくさんの人がいるこの村をどうやって守れると思います?」
強く言い放って、もう一度頭を振る。今度は弱々しく。
「それでも私は祈りました。だって、私にできるのはそれだけだったから」
少女は祈る仕草をしてみせた。
ほんの一瞬だけ祈りの光が部屋中に満ちる。
「幸運なことに、『幸福』の神は私の祈りに応えてくれました」
眩しさに目を細めた旅人をよそに、少女は続けた。
「ここにはリテディアの木と・・・かつて『幸福の授け手』が残した奇蹟のかけらが、残されていたんです。おかげで私は村だけは守ることが出来ました」
少女はゆっくりとした動作で白い石を首から外すと、軽く口付けした。
「でも、それは、してはいけないこと。巡っていく幸福を留めるのは、『幸福』の神がもっとも嫌うこと・・・貴方は、だからここに導かれたのでしょう」
「私は罪を裁く者ではありません。『月の夢』と『幻の弦』を探してるただの旅人です」
「でも『幸福』の王国からいらした。ここにある奇蹟を―――弦を求めて」
手から手に、白い石が渡される。
旅人はそっとその石を握りしめた。暖かな何かが手の中に広がり、染み込んでいくのが分かる。
「私の祈りは村の人たちに幸福を差し上げることが出来ませんでした。私がしてあげられたのはほんの少し悲しみを消し、その苦しみを先に伸ばすことだけ」
少女はうなだれたまま、息を吐いた。
「私は何のために、『巫女』に選ばれたのでしょう? 貴方にただこの奇蹟を渡すためだけに選ばれたのでしょうか? 誰も救えない、何もできない。『幸福の授け手』は一体私に何をお求めになられたのでしょう?」
苦しげに吐き出される言葉に、旅人は答えを持たない。
故国・デーアも、『幸福』の信仰も、今は風前の灯火だ。
だが、今も『幸福』を信じる者は、いるのだ。
少女のように悩みながら、苦しみながら、いつかまたこの世界に『幸福』の光が戻ってくることをただ祈り続ける者が。
そして、旅人もその一人だ。
「・・・音楽を差し上げましょうか?」
少女の言葉とともに、弦が体の中に根付いたのを感じて、旅人は気力なく立ち尽くす少女に言った。
少女がただ祈りをささげるように、旅人に出来るのは『幸福』を祈る巫女たちに音楽を捧げる。それだけが楽師にはなれなかった旅人に許されたことだった。
「いいえ」
今にも泣き出しそうな顔で少女は首を振った。
「私はもう何もいらないの・・・。でも、もし願えるのなら、私への音を村の人たちに・・・」
「・・・それが巫女の願いなら、喜んで・・・」
旅人がそう応えると、少女は静かに微笑んだ。この世の誰よりも幸せそうに。
「是非お願いします。神音師様」
その言葉と共に少女が光に包まれた。強い祈りの光は部屋中に広がって視界を奪った。
旅人は立ち上がり、『幸福』の神殿でもっとも高貴な者への礼をした。
膝を折り深々と頭を下げ、長い時間をかけて行う礼を。
そして、旅人が長い礼を終え、紫の瞳を開けた時、そこに少女の姿はなかった。




