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宿の主人に言われた通り街道を戻ること半刻。
なだらかな山道の途中、さらに頂上へ向かうと思われる小道が木々の間に現れた。
案内もないが、見上げると勢いある緑の間に白い屋根らしきものが見える。
どこの町に行っても、白い屋根は神聖な建物の証である。
旅人は荷物を抱えなおすとその小道に足を向けた。
「確かに、何か出そうですね・・・」
小道に一歩入るとともに、小雨でも明るかった街道とは明らかに違う空気が旅人を包む。
旅人は注意深くあたりを見回しながらさらに進む。
宿の主人が言うようにいかにもな雰囲気が漂うものの、動物や人、ましてや怪しいものの気配はまったく感じない。だからと言って、物取りや盗賊の類が潜んでいそうにもない。
少し拍子抜けしながら進むと、不意に視界が明るくなった。
旅人は足を止め。深くかぶった帽子を持ち上げた。
並んでいた木々が途切れ、煙る小雨の中にぽっかりと空いた場所に古びた建物が建っている。
壁は塗装が剥げ落ち穴があき、屋根はかろうじて雨風を防ぐ程度にのっかっているような有様だ。
神殿というにはお粗末極まりない造りの建物だが、あちこちに微かに残る塗装と屋根の色は白―――神聖な建物であることをあらわしている。
―――『幸福』は廃れてしまってますがね
宿の主人の言葉を思い出す。
ある程度予想していたことなので、落胆はしなかった。
旅をはじめて数年、『幸福』の神殿がまともに残っていた国などなかったのだから。
それに比べればまだ形をとどめているだけ、神殿がのこっているだけましだった。
旅人はしばし足を止め、崩れかけた神殿を見上げる。
『聖選』の教えが広まって100年足らずだというのに、この地に国が出来るより早くから人々とともにあった筈の『幸福』は今や見る影もない。祖国にある『幸福』信仰の始まり神殿ですら、すでに修復もできない経済状態にある。
遠きこの地で形だけでも残っているのは奇蹟に近いことだった。
旅人はため息を一つ漏らすと、ゆっくり神殿へと近づいた。
遠くで見るよりも神殿はさらにひどい状態だった。まず入り口に続く階段が壊れている。そして扉がない。剥げていると思われた壁は穴だらけで、塗装と思った白は蔦の葉の色だった。
「本当にあるだけなんですね」
思わずそう呟いてから、旅人は神殿の裏へと向かい歩き出した。
神殿の造りなんてどこに行ったってそう変わるものではない。建物の前の方には総ての者に開放される祈りの場。そしてその奥には力を持つものたちが生活をする居住区。周囲には広場と田畑が設けられ、さらに森か林に囲まれているのが『幸福』の神殿の基本構造だ。
角張った建物を左手に、居住区の入り口を探す。
ほどなくしてそれは見つかった。前面の入り口とちょうど反対の位置に小さな扉がひとつ。
旅人は扉を前にして考える。
とってが錆びつき、扉はひしゃげている。とても中に入れそうな状態ではない。
「どうかしましたか? ここに何か御用でも?」
背後から声をかけられ、振り返ると少女が立っていた。
腰までもある長い黒髪と、同じ色の丸い瞳が何よりもまず目に付く。
「まあ、旅の方ですね。・・・道に迷われたんですか?」
両腕に抱えた大きな籠を持ち直しながら、少女は面白そうに笑う。
一本道が続く辺境の街道で道に迷うなど、あり得ないことだというように。
「この神殿の方ですか?」
白い簡素な服に身を包んだ少女の胸元にかかる白く丸い石を見て、旅人はそう尋ねた。
少女はその声を聞くや眉を寄せた。
「・・・貴方は・・・楽師様ですか?」
こちらが問うているにもかかわらず、そう首を傾げる。
旅人は頭を振って答えた。
「いいえ、楽師になり損ねて旅をしている者です。・・・貴方はこの神殿の方ですか?」
「はい、神託を受け、この神殿に仕えております」
少女は納得のいかない顔で頷いた。
「・・・神託・・・そうですか。では巫女様なのですね」
「一応、そう言うことになってます。で、旅の方がここに何の御用ですか? 見ての通りこの神殿はもう役目を終えております」
怪しい者に対する明らかな不信と牽制に、旅人は肩をすくめた。
「私はデーアから来たのです。この雨でたまたま立ち寄った宿の主人に『幸福』の神殿があると聞いて、懐かしさに立ち寄ったのですが・・・」
「デーア!?」
驚いたように少女は繰り返した。
確かにこの戦乱の中、国境を越えるなど正気の沙汰じゃない。だが、少女の顔は驚くというよりも、怯えているように見える。
「どうかしましたか?」
「・・・いいえ、何でも。・・・よろしければ、あちらでお茶でもいかがですか?」
顔を引きつらせながらも微笑んで、少女はそう背後を指差す。
見ると神殿から少し離れた場所に粗末な小屋が建っていた。
小屋に入るとすぐに椅子を勧められた。見かけの粗末さとは違い、狭くとも手入れの行き届いた居心地のよい部屋だった。
机が一つ椅子が二つ。寝台が一つと一人分調理するには充分だろう大きさの台所。そして神を祭る小さな祭壇。
女性一人が暮らすにちょうどいいものがそろっている。気になるのは、一人分を作るには大きすぎる鍋に、淵までいっぱいのシチューが火に掛かっていることぐらいだった。
少女は籠を台所の隅に置くと、お茶の準備を始めた。
「ここにお一人で?」
「ええ、ああ、小屋に住み始めたのは3年前位からです。それまでは神殿に住めたんですけど」
「災害で?」
「いえ・・・戦争で、です」
少しためらいながら少女が答えた。
「村は被害を受けなかったんですか?」
旅人は一晩を過ごした村の様子を思い出して、思わずそう尋ねていた。
少女は背を向けたままで話す
「ああ、村にお泊りなのでしたね。幸運、だったんでしょうか。たまたま祭りの日で男たちは総て山に入っていた日だったんです。だから村の建物にはあまり被害が出なかったんです。それにもう3年も経ちましたし・・・」
いくらかの蒸らし時間を経て、ようやくお茶が旅人の前に出される。ふわりと昇る香りは旅人に馴染み深いものだった。
「これは・・・」
「分かりますか? リテディアです。青果が手に入った時にお茶にしてみたんです。かなり前に手に入れたものですが・・・いかがです?」
早速口に運んだ旅人に、少女が心配そうに尋ねる。
リテディアの実というのはこの大陸の南にある島になる実で、色は黄緑、形は不恰好。だがその香りと味はどんな果実にも負けない豊かさを誇るものだ。
『幸福』の信仰とともにこの地に渡ってきたという理由もあって、信仰が下火になった今でもデーアではあちらこちらに残る香なのだ。
「この香り、懐かしいですね。でも、お茶にもなるなんて知りませんでした」
「実は、そのままでも美味しいですから。今はもう手に入らないので、手に入った時お茶にしてみたんです。・・・あ、少し、いいですか?」
唐突に少女は大鍋を指差した。鍋はぐつぐつという音とともに小さな泡をあげている。
「ずいぶん大きな鍋で作るんですね。シチューですか?」
「はい。鶏肉が手に入ったので・・・一人分にはちょっと多すぎなんですけど、何度も作るより美味しいんです。・・・もうすぐお昼ですね。召し上がりますか?」
どこかで聞いた台詞に眉を顰めて、旅人は首を振った。
「いえ、宿の主人に昼は食べると言ってきましたから」
「そうですか」
少女は、大きなヘラで鍋をかき回す。旅人は持っていたカップを置いて、その様子をしばらく眺める。
旅の途中でみた炊き出しの鍋よりもまだ大きい鍋。1人分を作るより美味しいからという理由で作る量には思えない。
「お聞きしてもいいですか?」
旅人が疑問を口にするより早く、少女が振り返らずに尋ねてきた。
「どうしてこんな辺境にいらしたんです?」
旅に出て幾度となく聞かれた問い。旅人はいつものように、息を吐き出しながら答える。
「酒を探しています」
「お酒ですか?」
「ええ、テオテ産の『月の夢』を」
少女は手を止め、振り返った。
「『月の夢』ですか。それは、難しい探し物ですね」
「そうでしょうか? たかが酒ですよ」
「酒だからこそですよ。だって、生のリテディアの実がこの状況下で、手に入るなんてことはないでしょうから」
そう、少女は気の毒そうな顔をした。




