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旅人は十分に暖まり整えられた部屋に満足し、雨に濡れたマントと帽子をとった。
つやつやと光る頭部には産毛ひとつ生えていない。
白い肌に、瞳は薄い紫。鼻筋の通った美しい顔。
喉仏がなければ、もし、女と言われても誰も疑いはしないだろうと思われるほどだ。
旅人は濡れた衣服を暖炉のそばの椅子にかけると、今度は荷物を解いた。
布袋の中から、白い布で包まれたそれを大事そうに取り出す。
白い包みの中から出てきたのは、細かな彫刻を施された弦のない竪琴だった。
トゥラトゥルコという動物の牙と毛皮から作られたそれは、この世で最高の『竪琴』だ。
「どうやら、無事のようですね」
あの雨に当たってもそれほど濡れてはいないようだ。
こんな山奥で雨に出くわすなど考えもしなかった。ここらあたりは雨が降らないことで有名なのだ。
この宿に出会えたのは、幸運としかいいようがない。
旅人は丁寧に『竪琴』を元のように白い布で包むと、寝台脇の机に置いた。
暫くその包みを見つめ、静かに息を吐き出す。
旅人にとっては、唯一の持ち物で誇り。彼の存在を認め、確かめるものだった。
「長年の習慣は抜けませんね」
頭を軽く振って、旅人は1人微笑む。
その瞳は何か懐かしいものを思い起こしているように、優しい。
旅人は本当に楽師ではないのだ。
しかし、人々に誤解を与えるこの声も『竪琴』も、今の旅人には必要なものだった。
楽師になることを諦めたときに、すべて捨ててしまえばよかったと思うこともある。
だが、捨てなかったことが楽師としてはかなわなかった夢をかなえてくれた。
故国・デーアを旅立つとき過度な信頼とともに与えられた『竪琴』―――この世にただ一つしかない最高の楽器と、やがてこの大陸に舞い降りる『幸福』を見つけ出すための鍵を、楽師という称号と引き換えに手にいれたのだ。
もし旅人が楽師になることを諦めなければ、それらは間違いなく他の誰かのものになっていたろう。
たとえ、楽師として名が残ることはなくとも、『幸福の唄人』の1人として誰かを救うことが出来れば、今の旅人が満足できることを知っていた。
「そういつか・・・」
旅人はそうつぶやいて、天井を見上げ、祈るようにその瞳を閉じた。
どうやら、嵐にはならなかったようだ。
屋根を打つやわらかな強弱に、旅人は目を覚ました。
窓を開けると、昨夜よりは小雨のようだった。
旅人はしばらく外を見つめていたが、身支度を整えると部屋を後にした。
「おや、どちらにいかれるんです?」
階段を下りきったところで、主人に声をかけられた。
旅人は足を止め、振り返った。主人は旅人がすでに旅姿なのを見て、肩をすくめた。
「外は雨ですぜ、お発ちになるなら、せめて午後になさった方がいい。午後は晴れると家のばばあが言ってましたよ」
「まだ、出発するつもりはありません。まだご自慢のシチューも食べてないですよ。少し村を見て回ろうと思ったんですが・・・」
「荷物を持ってですかい?」
「・・・これは、手元から離してはならないのです」
旅人は困ったように深くかぶった三角帽をさらにひいて、話題を変えた。
「それより、この村には神殿はありますか?」
「神殿、ですか? そりゃあありますが・・・一体なにしに?」
あからさまな好奇心に旅人が固まっていると、主人は申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、すまんです。ついいつもの癖で・・・この村に神殿は2つありますが、どちらのがお望みで?」
「両方あるのですか?」
主人の言葉に旅人は聞き返した。
「ええ、あるんですよ。『選聖』と『幸福』の神殿が・・・まあ、今はどちらも廃れてしまってますがね」
神殿といえば大抵『選聖』と呼ばれる信仰の神殿を意味する。戦いと共に大陸全土に波及され、子供から大人まで、誰でも知っているのがそれだ。
逆に『幸福』の方は、今や聖地があるデーアでさえ知らぬ者がいるような小さな信仰で、こんな山奥に神殿があるのは驚きだった。
「こんな山奥に『幸福』の神殿があるなんて、驚きでしょう?」
「ええ、デーアから遠く離れた地で『幸福』の信仰にめぐり合えるとは」
「ははは、でしょうでしょう。なんでも昔この村から『幸福』の巫女がでたことがあるんだそうですよ。ホントかウソかはわかりませんがね」
主人は嬉しそうに笑った。
『幸福』の巫女が生まれた地というのは、神に守られた恵まれた場所であるという伝説があるのだ。
忘れられつつある信仰とはいえ、人々の間に何かが残されたのは間違いない。
「それは、神殿はどこにあるのですか?」
「『幸福』の神殿ですか? ・・・行かれるんですかい? それはやめたほうがいい」
あれだけ嬉しそうに『幸福』の神殿を語ったのに、今度は顔をしかめて首を振った。
「行くなら『選聖』にした方がいい。安全だし、何より近い」
「何かあるのですか?」
「・・・いやぁね、『幸福』の神殿はここからかなり遠いんですよ。それに、山道をかなり登らなけりゃならない。だからですよ」
主人のあからさまな態度の変化に、旅人はますます興味を持った。
「教えてください。『幸福』の神殿の場所を」
旅人は勢いに任せて主人に詰め寄った。
主人は旅人の語気の荒さに驚いてまじまじと旅人を見た。そして、その先の旅人の顔にさらに驚いた。
目深くかぶった帽子の下に隠された、その声にも負けないほどの美しさに。
主人の表情に旅人は慌てて身をひいた。
「神殿はどこにあるのですか?」
ごまかすように旅人は早口にのう一度聞いた。
主人は、瞬きも出来ないまま、神殿の場所を呟いた。
聞き取れるかという小さな声を旅人の耳は捕らえ、主人が何か言うより先に身を翻す。
主人はその背中が扉の向こうに消えるのを見送り、さらにしばらくの間立ちつくしていた。
そして、どれだけの時がたったか、深い溜息とともにうめいた。
「ありゃあ、本当に男なのか?」
と。




