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旅人がその店についたのは、日も落ちてだいぶたってからだった。
古くくたびれた扉が音もなく開かれたことに、酔いの回った客はもちろん、店の主人ですら気がつかなかった。
旅人は無言のまま体についた水滴を払うと、店内に目をむけた。
均等におかれた丸い木のテーブルは、すでに仕事帰りの男たちでうまっている。
「おっと、ごめんよ」
不意に旅人の横で声があがった。
どうやら店の主人らしい。旅人より頭二つ小さな男が、上目使いに旅人を見ている。
「おや、お客かい。泊まりだね。すまないね、気付かないで。・・・ちょっとまっててな」
主人はそう言うと店の奥へ行き、しばらくして分厚い帳面を持って戻ってきた。
「待たせたね、なんせこんな山奥だからね、旅人が来るなんて滅多にないのさ。ああ、部屋なら空いているよ。言うまでもないが」
何事かを書き込みながら、主人は早口にまくしたてる。
「1人でいいんだろう? 食事はどうするね? 明日の朝なら、家内自慢のシチューだが」
筆先を軽くなめながら、主人は旅人を上から下へ不躾に眺めまわした。
汚れたマントを肩からぶら下げ、深く三角帽をかぶった旅人は、茶の大きな布袋以外の荷物もなく、いかにも旅なれた様子で主人の方を向いている。
「そうですね。お願いします」
主人の問いにようやく答えた旅人の声は、そんなに大きなものではなかったにもかかわらず、深く高くのびやかに店内に響き渡った。
客たちの口が自然に閉じ、その場は一瞬に静まり返る。
「部屋にはすぐ入れますか?」
人々の視線が集まっていることを、知ってか知らずか旅人はそう続ける。
音楽を極めた者と物語る声音に、主人は慌てて首を降った。
「申し訳ありませなんだ、楽師様。すぐに準備しますんで・・・」
店の主人は体を小さくして、そう旅人に頭を下げる。
「・・・夕食はいかがいたしましょうか?」
「・・・では、一杯だけ頂きましょう・・・ああ、それと、私は楽師ではありません」
すっかり畏まってしまった主人にそう言って、旅人は静まった店内を見回した。
客は息をひそめて、旅人の動きを見守っている。
旅人はテーブルの間をすり抜けて、窓際の一番暗い席に近づいた。
「座っても?」
旅人は椅子の背もたれに手をかけて、闇に聞いた。
向かい側の深い闇の中で誰かが身じろぎした。
「おい、その席は・・・」
「すみません、楽師様。この席は先約が・・・」
客の誰かの声を遮って、追いかけてきた主人が影の落ちた方を気にしながら、そう旅人を止めた。
「私はかまいませんよ、一杯だけですから」
旅人は持っていた布袋を丁寧にテーブルに置くと、席に滑り込んだ。
「・・・飲み物は、何にします?」
渋々といった表情のまま、主人はそう尋ねながらも、その瞳はちらちらと闇の方へと向いている。
「ここはテオテ産の飲み物はありますか?」
「テオテ産ですか?」
「ええ、『月の夢』です」
「あいにくですが、テオテ産のものは・・・。戦いのせいで、殆んどがカトリに流れてしまってて。家にあるのはビガの『西の風宮』とロルカの『情熱』、それとオメーテ産のものだけで」
「では、オメーテ産の『目覚め』を頂きましょう」
主人が下がるのが合図だったのか、店内の客がようやく旅人から視線をはずした。どこかよそよそしいままで。
「主人が注意したろう」
旅人が落ち着いたところで、闇から微かな声が届いた。強い酒の匂いの混じった声は、抑揚もなく陰気な湿っぽさがあるだけだ。
「あんたの座ってる席は、指定席だ」
闇の中の声に旅人は答えない。ただ闇の中に座る男を見ているだけだ。
沈黙が流れる中、主人が銀の液体の入った器を持ってきた。
旅人は細い手で器を受け取ると、鼻先に近づけた。
甘い柔らかな芳香がふわりと周囲に広がる。
「『目覚め』か、軽い酒だ」
「貴方のは『眠り』ですね。・・・正反対で丁度いいと、思いますが?」
ふっと笑って、旅人が言った。
「ああ、・・・そうだな」
気のせいか、闇の中にひどく粘ついた笑いが広がる。
「『目覚め』を好む楽師に、『眠り』は重すぎるな」
「私には『目覚め』でも重すぎます。私にとってこの世で飲むに値する酒は、テオテ産の『月の夢』だけです」
男は粘ついた笑いをさらに広げ、そして酒を煽る。
「やけにテオテに入れ込むじゃないか? あんたフェジュの者か?」
「・・・デーアですよ」
旅人は短くそう答えた。
「デーア!! あのニーセル山脈の向こうの? あの『幸福の王国』からか?」
初めて男の声がしっかりと「耳」に届いた。
驚きと嘲笑に満ちた声だった。
何年か前から始まった戦乱のせいで、ニーセル山脈を越えて大陸の東にやってくる旅人は殆んどいない。まして優勢を誇るカトリではなく、いまや滅してるに等しい小国に訪れるものなど、よほどの事情がない限りいないのだ。
「一体何のために?」
興味深々の声音で男がそう尋ねる。
「テオテ産の『月の夢』ために・・・」
旅人は揺るぎない歌人の声で答えた。
「たかが、酒のためにか?」
「そうです」
旅人は立ちあがった。
「滞在はいつまでだ? 明日は嵐が来るぞ?」
男の問いに旅人は答えなかった。
店の主人が酒瓶を持ってよってきたのだ。
「楽師様、部屋の準備ができましたんで・・・すぐにご案内しますだ」
「いいえ、案内はいりません」
荷物を置いたときよりもさらにやさしく持ち上げ、歩き出した。
暗闇から男がもう一度、旅人の背中に向かってつぶやいた。
それは、まるで預言者の言葉のように、店内に響いた。
「嵐がやってくるぞ」




