草太、昔を思い出す
◎ラジャ
元プロレスラー。現在は喫茶店兼ゲイバー『虎の穴』を経営するオネエ。
にゃあ、と鳴く声がする。草太が顔を上げると、カゲチヨがのそのそと歩いて来た。
「悪いなカゲチヨ、ユリアはまだ寝てるんだ。起こすなよ」
その言葉に、カゲチヨは首を捻る。それでも、彼の言っていることを理解したようだ。その場で丸くなったかと思うと、丹念に毛繕いを始めた。
マイペースなカゲチヨを横目で見ながら、草太は冷蔵庫を開ける。卵とベーコン、それに牛乳が入っている。今日の朝食は、トーストとベーコンエッグでいいだろう……などと考えつつ、時計を見た。
今の時刻は午前六時である。先週までの草太なら、熟睡している時間帯だ。ユリアと暮らしているうち、自然と早起きになってしまったらしい。苦笑いしながら、テレビを点けてみる。
そのとたん、とんでもない映像が飛び込んできた。現在、朝の六時にもかかわらず奇妙なアニメが放送されている。甲冑のようなデザインの強化服を身にまとった男が、ガレキの中を悠然とした態度で歩いているのだ。
さらに、渋い声のナレーションが聞こえてきた。
(たった一つの命を燃やし、力なき者たちを守り抜く。賞賛の声も、喝采の言葉も要らぬ。今の我に必要なのは、戦う覚悟なり!)
このアニメには、見覚えがある。草太がまだ幼い頃に放送していた『サムライ戦士ブシドー』だ。
世界征服を企む悪の宇宙人の野望を打ち砕くため、家に代々伝わる名刀を抜いて、伝説の超人であるブシドーに変身する葉隠士道の活躍を描いた、ヒーローもののアニメである。
当時、幼い草太は夢中になって観ていた。他のアニメとは一味違う主人公のセリフ回しや立ち振舞いが、草太はとても気に入っていたのだ。
しかし、気がつくと最終回になっていた記憶がある。話がまとまらないまま妙な感じで終わり、その後は人々から存在を忘れられていた。
その後、分かったことだが……「ブシドーの外見や発言は前時代的な思想を子供たちに植えつけ、悪影響を与えるものだ」というクレームが、とある市民団体から提出されたらしい。
バカバカしい話である。確かに、主人公である葉隠士道のセリフは時代がかったものが多かった。しかし、物語の根底にあるのは……力無き者のために、体を張って戦うヒーローの姿である。
「我の剣は、武器を持たぬ者たちの代わりに戦うためにある! 富や地位や名誉が目的ではない!」
そう言い放ち戦うブシドーの姿に、草太は心底から憧れていたのである。とはいえ、そんないわく付きのアニメを朝の六時から再放送するとは、このテレビ局はどうかしている。
そんなことを考えていた草太だが……その時、とある知り合いのことを思い出した。
ブシドーとその知り合いには、一つの共通点がある。どちらも、不特定多数によるデタラメな情報により社会から抹殺されたのだ。
・・・
夏目美桜は、ほんの一時の間だが……有名人になったことがあった。とある事件がきっかけで、彼女の名はマスコミに大々的に取り上げられたのである。
その日、草太の母校である桜庭中学の三年生はバスに乗っていた。修学旅行のため、京都に向かっていたのである。
三年B組の生徒たちの乗ったバスが、国道を走っていく。
そのバスの中には、草太と美桜もいた。お調子者の草太はクラスメートたちと騒ぎ、真面目な優等生の美桜は大人しく席に座っている。
バスは国道を進んで行き、やがて長いトンネルへと入る……はずだった。
しかし、バスは途中で停まる。
大人しく座っていたはずの美桜が、いきなり立ち上がったのだ。
直後、真っ青な顔で運転席へと突進していく。さらに運転手に向かい、金切り声で喚きちらしたのだ。
「お願いだから、バスを停めてください!」
運転手は、バスを停めざるを得なかった。当時の美桜の様子は普通ではない。停めないと、何をするか分からなかったのだ。
一方、生徒たちは騒然となっていた。美桜のせいでバスが停まっている……皆、不満そうな表情で彼女を見つめていた。
当の美桜はというと、真っ青な顔で道路にしゃがみこみ、体を震わせている。その横では、担任の教師が困った表情で彼女をなだめていた。
だが次の瞬間、皆の表情は一変する。
突然、何かが破裂したかのような音が聞こえた。それも一度では終わらない。立て続けに、形容の出来ないような恐ろしい音が響き渡る。次いで、国道を走っていた車の流れが一斉にストップしたのだ。
そして、あちこちから声が聞こえてきた――
「早く救急車呼べ!」
「ヤバいぞ!」
「もう死んでる!」
あちこちから聞こえてくる悲鳴と罵声。さらに人々は携帯電話を取り出し、トンネル内や国道の様子を撮影している。
一方、三年B組の生徒たちと教師、それに運転手とバスガイドは……皆、呆然となったまま右往左往している人々を見つめていた。
全ては、後で分かったことである。
まず、トンネルの天井を形作っているコンクリート……その一部が、崩れて落下した。
落下したコンクリート自体の大きさは野球のボールより少し大きいくらい、重さも数キロ程度である。道路に落ちていれば、まだ何とかなったのかもしれない。だが不運にも、落下したコンクリート片の真下を乗用車が通ったのだ。
コンクリート片は、その車の運転席を直撃する。運転手は即死した。
直後、さらなる不運な事態が起きる。その車は死んだ運転手を乗せたまま走り続け、前を走っていた別の車に猛スピードで突っ込んで行った――
結果、十数台を巻き込む玉突き事故となってしまったのである。死者は十人以上、怪我人も三十人を超える大事故となった。
草太たちが乗ったバスも、そのまま進んでいれば事故に巻き込まれていたはずだったのだ。
しかし、美桜がバスを停めたおかげで、皆は事故を免れたのである。
この奇跡的な話は、瞬く間に広がる。生徒たちはSNSを用いて、今しがた見聞きした事件をあちこちに拡散したのだ……中には、夏目美桜が事故を予言したかのような話を広めた者までいた。
そんなネタを、マスコミが放っておくはずがない。やがて美桜の実家には、連日のようにテレビ番組のスタッフが訪れた。無論、事件を予知した美桜への取材のためである。
美桜は仕方なく、インタビューを受ける。レポーターの質問に対し、こう答えた。
「見えたんです……バスが事故に遭い、みんなが倒れている姿が」
そのインタビューの映像は全国に放送された。すると、今度は別の形での反響があった。
「美桜ちゃん可愛い!」
「あの真面目な雰囲気がいい!」
「もっといろいろ聞いてみて!」
バスの事故を予知したこと、さらに容姿の可愛らしさもあり、夏目美桜は一気に有名人となってしまった。もともと人の頼みを断わることの出来ない性格である美桜は、あちこちからの取材にも丁寧に応じ、テレビのバラエティー番組にも出演した。
司会者から振られる全ての話題に対し、敬語を遣い真剣な表情で真面目に答える美桜。バカバカしい話題だろうが下ネタだろうが、彼女は全て真顔できちんと答えた。その天然ぶりが話題となり、彼女の人気はさらに高まっていったのである。
だが、美桜の絶頂期はそう長く続かなかった。
ある番組で、彼女の超能力が本物かどうかを検証するための実験が行われた。美桜は実験に参加したものの、その真面目さが裏目に出てしまった。彼女は、超能力を否定する学者や文化人たちの集中放火に晒され、泣きながらスタジオを飛び出してしまったのだ。
その結果、美桜へのバッシングが始まる。マスコミはこぞって彼女の態度を批判した。さらに、美桜の活躍ぶりをこころよく思っていなかった者たちが彼女をネットで叩く。
それだけではない。美桜のかつての友人たちまでもが、彼女を批判する側に回ったのだ。
発端は、事故当時の美桜を写した画像であった。道路にしゃがみこみ、真っ青な顔で震えている美桜。その画像に、同級生の一人がこんなコメントを添えて拡散させたのだ。
(これさ、ひょっとしたらションベン洩らしてるだけなんじゃねえの?)
すると、それに同調するかのような話があちこちから出て来た。
(俺、あのバスに乗ってたけど、夏目美桜は事故が起きるなんて言ってなかったよ)
(それ間違いない。友だちも同じバスに乗ってたけど、夏目はいきなり騒ぎだしたって言ってたよ)
(じゃあ、ションベンしたくてバスを停めただけなのか?)
(事故を予知したって、後付けかよ)
(ただのお漏らし女じゃねえか)
そんな悪意に基づいた憶測が、まるで真実であるかのように語られていく。
やがて夏目美桜は、とんでもない嘘つきとしてネット上で叩かれるようになっていった。まるで犯罪者のような扱いをされ、実家の住所や電話番号まで無断で公開されたのである。
もともと気真面目な美桜は、そんな環境に耐えることが出来なかった。彼女は、ネットに関するものを全て断ち切り、実家を出てアパートに引き込もってしまう。
以来、世間から隔絶した生活を送っていた。
それから十年近く経つが、美桜は未だに引きこもったままだ。忌まわしき過去の記憶に囚われてしまっている。彼女の覗いてしまった人間の悪意は、あまりにも暗く深く恐ろしいものだった。
美桜は今も、不特定多数からの悪意から受けた傷が癒えぬまま、立ち上がれずにいるのだ……。
そんな美桜の家を、草太は週に一度は訪れている。初めのうちは追い返されていたが、それでも通い続けた。やがてドア越しに美桜と話すようになり、そんな日々がしばらく続き、ついに彼女の方が根負けした。
今では、何とか家に入れてもらえるくらいの仲にはなった。週に一度、他愛ない世間話をして帰る……その程度の関係ではあるが。
美桜が外出する時、サングラスとマスクを着けるのも無理からぬ話なのだ。彼女は見知らぬ者たちから、さんざん傷つけられてきたのだから。人の視線が気になるのは当然である。
むしろ、外出できるようになったのは、大きな一歩だと草太は思っている。これもユリアのおかげだ。
・・・
いきなり腕をつつかれ、我に返った。ふと見ると、ユリアが起きていた。何か言いたげな表情で、草太の顔を見上げている。
「どうしたユリア?」
尋ねると、ユリアはテレビの方を指差し、首を傾げてみせた。
「ああ、これか。これはサムライ戦士ブシドーってアニメだよ。ブシドーは正義のヒーローで、刀で悪い奴をやっつけるんだよ」
草太の説明に、ユリアは了解したようにウンウンと頷いて見せた。テレビに視線を戻す。
(俺は……弱き者、正しき者のために戦う、サムライ戦士ブシドーだ!)
画面ではブシドーが名乗りを上げ、包帯をぐるぐる巻きにしたミイラのごとき外見の怪人と戦っていた。サムライとミイラ男の戦いとは、何ともカオスな光景である……。
もっとも、そんな両者の闘いを、ユリアは夢中になって観ているのだが。
草太の口元に笑みが浮かんだ。自分が幼い頃に喜んで観ていたヒーローもののアニメを、ユリアも楽しんでいる。
微笑みながらも、彼は美桜のことを思った。美桜は、彼女のことをよく知りもしない大勢の人間によってたかって心をズタズタに傷つけられ、挙げ句に引きこもってしまった。
アニメ『サムライ戦士ブシドー』もまた、作品の内容を知りもしない人たちのクレームによって潰され、無理やり終了させられてしまった。
なぜ、こんなことが起きてしまうのだろうか。
ふと気づくと、ブシドーのエンディングテーマが流れていた。三味線の音を強調した独特の音楽である。こういった部分もまた、右翼的だと評価されたのであろうか……そんなことを思いつつ、ユリアの方を見てみた。
ユリアは目を輝かせ、テレビを観ている。どうやら、ブシドーを気に入ってくれたらしい。
「ユリア、ブシドーは面白かったか?」
草太の問いに、ユリアは首をブンブン縦に振る。さらに彼女は立ち上がると、いかめしい表情で刀を振り下ろす動きを始めた。
思わず、プッと吹き出す。ユリアは、ブシドーの動きをカッコよく真似しているつもりなのだろう。もっとも彼女の動きは、カッコいいというよりは可愛らしいが。
考えてみれば、草太が初めてブシドーを観たのもユリアと同じくらいの歳だった。ブシドーのような、弱き者のために戦うヒーローになりたい……本気で、そう思っていた。
だが成長するにつれ、草太は自身の限界に否応なしに気づかされる。
俺は、ヒーローの器じゃない。
俺は、ヒーローにはなれない。
思春期の少年の誰もが受け入れざるを得ない、悲しい現実。草太もまた、それを受け入れて成長していった。
そう、彼はヒーローにはなれなかった。
不意に、ユリアに腕をつつかれた。見ると、ユリアは両手をお腹に当て、困った表情で首を傾げている。
何を言わんとしているか、すぐに理解した。
「お腹が空いたのか。よし、今ご飯を作ってやるからな」
すると、ユリアは笑顔で両手を挙げる。バンザイのポーズだ。草太はクスリと笑い、ユリアの頭を撫でる。ヒーローにはなれなくても、せめてこの少女の笑顔だけは守ってやりたい。
バターを塗ったトースト、それにベーコンエッグの載った皿と牛乳の入ったコップをテーブルに置く。ユリアは嬉しそうに食べ始めた。
正直、味には自信がない。だが、ユリアは喜んで食べてくれている。草太は、不思議な気持ちが湧き上がってくるのを感じていた。これまでは、子供はうるさいものだ……という認識しかなかった。
しかし、今は違う。ユリアと出会い、草太は初めて子供を可愛いと感じた。出来ることなら、このままずっと一緒に暮らしたい……という思いが頭を掠める。
だが、それはユリアにとって幸せなことではないだろう。別れは寂しいが、一刻も早く両親の元に帰してあげなくては。
朝食の後、ユリアは座ったままテレビを観ている。今、放送されているのは、二足歩行の三毛猫とカラス天狗とのやり取りを描いているアニメだ。『天狗さんと、ミケにゃん』というタイトルらしい。
ユリアはこのアニメもお気に入りで、毎回欠かさず観ている。一緒に観ているうちに、草太にも全体のストーリーが分かりかけてきた。
(てんぐさん、順番は守らないといけないですニャ)
カラス天狗をたしなめる三毛猫。観た感じでは、幼い子供に公共道徳を教える番組のようだ。
注意されたカラス天狗は、申し訳なさそうに頭を下げている。そんなやり取りを観ていて、草太はふと疑問を感じた。
「なあユリア、お前はカラス天狗とミケにゃん、どっちが好きなんだ?」
その質問に、ユリアは立ち上がった。テレビのそばに近づいて行き、画面に映っているミケにゃんを指差す。
「おお、ユリアはミケにゃんが好きなのか」
笑みを浮かべながらの草太の言葉に、ユリアはウンウンと頷いた。なぜか勝ち誇った表情で、画面に映っているミケにゃんの顔をチョンチョンとつつく。
その時、草太のスマホに着信があった。誰かと思えば、情報屋の名取淳一である。
恐らくは、中田についての情報であろう。さりげなくトイレに入った。
(よう草太、中田の情報が入ったぞ。本当は金をもらうところだがな、特別に貸しにしといてやる)
何の挨拶も前置きも無く、名取はいきなりそんなことを言ってきた。
その大物ぶった態度にイラつきながらも、出来るだけ愛想のいい声で応じる。ここで名取を怒らせても、何も得しない。
「は、はい。ありがとうございます。いやあ、さすが名取さんだなあ。頼んだ甲斐がありましたよ」
(まあ、当然だな。それよりも、お前は中田に何の用があるんだ? あいつ、かなりヤバいぞ)
名取の言葉に愕然となった。ヤバい、だと? どういう意味だ?
「す、すいません……ヤバいって、どうヤバいんですか?」
(中田の奴、ロシアから女を密入国させたらしいんだよ。しかも、組の方にも連絡を入れてないらしい。士想会の連中も、中田を探してるって話だ)
思わず顔を歪める。ロシアから女を密入国させた、というと……ひょっとしたら、ユリアのことか?
「ええと、その女ってのは歳は幾つですか?」
(はあ? 確か三十近い女だって聞いたけどな……んなもん、お前と関係ねえだろうが)
その言葉を聞き、草太は安堵した。だが、そうなると別の問題が持ち上がる。
「そ、そうですね……じゃあ、中田さんはその女と駆け落ちでもしたんでしょうかねえ」
(知らねえよ。まあ、もうちょっと調べてみるから。だがな草太、この貸しは高くつくぜ)
トントンと、扉をノックする音が聞こえた。
その音で、草太はようやく我に返る。トイレの中で座り込んだまま、じっと考え込んでいたのだ。
不安を隠して笑顔を作り、ドアを開けた。すると、ユリアが心配そうな顔で見上げている。
「ごめんな、トイレを占領しちまって。もう大丈夫だよ」
そう言うと、ユリアの頭を撫でる。だが、その時とんでもない考えが頭に浮かんだ。
三十歳くらい、って言ってたよな。
まさか、ユリアの母親?