Everlasting Summer
■『晩夏の凝り』―intro―
子の手を引く父らしき姿。黄昏の濃い紅い光が丘に射して。父の影になり子の表情は見えず、ただ、その瞳、子の相貌の美しさを物語って。
二人は丘の中央の遊歩道へ。不思議な、エスカレータ式の遊歩道で、歩かずとも頂上まで。
頂上へ至り父はなお歩を休めず。立ち入り禁止、と書かれた柵。頂上の奥には崖。決まり事のように手をかけ柵のてっぺんに登りきる。手を差し伸べて、やや危うくなりながら子を抱えあげ。一瞬子を紅い光が照らして。子の顔一面の皮膚がぶよぶよと爛れている、彼岸の墓石に立てられた蝋燭のように、とろとろ溶けているようで、遠景に落陽浮かんで。
晩夏の夕暮れ、紅の空暗くなり。柵を越え足取りやまず、のし、のしとふたつの影奥へと遠ざかり。
▲『とある夏の記憶』―Ⅰ-A―
石畳の長い階段道を登りきった向こう側に墓場はあった。7月。丘は濃密に茂って。古の風習に従えば少し早すぎる先祖参りは後ろめたいが、10年以上訪れなかったこれまでからすれば上出来だろう。
丘の裏手の広大な麦畑の景観が記憶に刻まれるが、今では巨大なショッピングモールが建つという。ここまでの町の様々も整然として美しく、しかし洗練されない田舎の様々がごっそりと奪われたようで寂しい。いずれも遠ざかった長い時を実感させた。
墓の入口。さすがに時を凍結したような記憶どおりの印象。少し綺麗に舗装された墓場の階段を昇る、凍結された時は溶け、現在へ戻されるようで。曖昧な記憶で一段ずつ確かめ先祖の墓を探し歩く。
記憶と風景が重なりかけた瞬間、先祖の墓の入口に少年が見えた。夏休み前の平日の午前、どうしてぽつんとこんな所へ立っているのだ、と不信がり、極力表情変えずに彼の背後の目的地へと近づくが、不思議にも怪訝な表情はむしろ彼。少年は、うつむき加減の私の顔をじっと見すえてそらさず、「どうして今、こんな所に訪れるのか?」とでも言いたげなこわばった顔をこちらに向けるのが、そらし気味の私の視線からでも確認できた。思いきって声をかけてみる。
「やあ。君、どうしたの? 今日は学校、お休みかい?」
少年は答えずに見つめ返していた、すると、思い当たったように「そうか……」とつぶやき途端表情を和らげ返答し始める。
「墓参りなの? 時期はずれだよね?」
君こそな! 言いたい気持ちを抑えて。
「ああ、サービス業だから夏休みやとくにお盆の連休は忙しくて8月には来れないんだ。せめて早めに、と思ってね」。10年振りだ、とか余計なことは言わない。
「じゃあ毎年この時期に訪れるの?」
「……ああ、そうだよ」
答えると少年は再び口を閉ざす。返答につまずいたせいで嘘がバレたか? でもこのくらいの年齢はそんなこと頓着したり疑ったりしないだろうに……なんというか、歳のわりに老人みたいに落ち着いていて気味が悪い。
「そうじゃないんだろ?」
「……えっ?」
無言で見すえてくる。
「本当は久しぶりじゃないの?」
なんてことだ! 彼には嘘がつけない、ついてはいけないのかも。大したことじゃない、正直に白状しよう。
「よくわかったね。実は10年以上来なかったよ、久しぶりってもんじゃないよね」
「だろう? そんな顔しているもん、すぐわかっちゃうんだから」
「そうなの?」。正直、怖い……。
「10年以上前か……この町も立派になったろ?」
その前に君、産まれていないだろ……? この違和感、やっぱり老人にしか思えないぞ。
「うん、驚いちゃった。丘の裏手にショッピングモールがあるらしいね」
「ねえ、後で行ってみない?」
「えっ? モールへかい? 君と僕とで?」
少年は少し黙り込む。
「……うん。実はね、どうしても一緒に来てほしい所があって。ダメ?」
「いや……ダメってことはないけど」
「じゃあ、お願い!」。真剣な眼差しで。
●『Eternal Goddess』―Ⅰ-B―
「マサカこんな所であなたと会うなんて夢にも思わなかったわ」
公園は休憩所、売店、軽食スペースが合わさった高速のパーキングエリアのような施設だ。
「君こそ! どうしてこんな所に?」
美人がいるな、とは思っていたが、彼女だったなんて! 化粧を落とし、金属の装飾を着けないこざっぱりとしたスポーツウェアは、普段見せてくれる異国の王女然としたエキゾチックな風貌とは似ても似つかなかった。
「私案外アクティヴなの、コースには度々訪れるわ。あなたこそどうしてよ?」
「ツアーのオプションさ。追加料金を払って参加したんだ」。異国の地、ビーチでの美女散策の成果に見切りをつけ、こちらに一縷の望みを託したのだ。
「それくらい知ってるわ、じゃなくてあなたがわざわざサイクリングに参加するようには思えないって言ってるのよ」。嘲るような口ぶりに正直腹が立つ。しかし、次の瞬間思いも寄らぬ幸運の女神へ様変わりした。
「せっかくだから一緒に走る?」
エキゾチックな異国の女神。ビーチの屋台で働く彼女に一目惚れした僕は、何度も口説き失敗した。なのに、彼女から誘ってくるなんて! コッチで正解だった。
「しかし気づかなかったなぁ」
「どうして? ほとんど毎日会ってた気がするけど。しかも一日のほとんどウチの近くをうろついて……」
「その、なんていうんだ……これまでより少し地味な感じだった。というか、フツーな感じ?」
「へぇ~フツー……か」。不満げな返し。散々フッといて……これだから女は扱えねえんだ!
「……もちろん美人がいるな、とは気づいてたけどね?」
「イヤだ、あんたってやっぱりスケベね!」
打ち解けた。あれほどビクともしなかったのに、挨拶程度のこれしきの冗談で通用するとは。
「どう違うの? ちゃんと説明しなさいよ」
「いや、その……もっとゴージャスというか……メイクだって、その……」
化粧は色味を抑え、装飾品も大人しいものに替えている。
「いつもは厚化粧だって?」
押されてドギマギしてしまう。
「ホント馬鹿! 確かにノーメイクだけど、日焼け予防クリームは塗ってるのよ、普段より厚いくらい……」
「へぇ、常夏の女性も日焼けを気にするのか」
「うん。少しなら焼いてもいいけど、もう黒くしたくないってラインがあるのよ」
「だけど小麦色の肌がとっても素敵だよ。異国の美女って感じで」
「バカ。筋金入りかしら? 目に写るすべてが性的対象になっちゃうんだから」
言い返せない僕を見て彼女は大笑い。明らかに距離が近い。
駐輪所にはたくさんのマウンテンバイク。
「あ」
僕のバイクを見て無言になった彼女に代わり僕が、
「すごーい。お揃いだね」
「イヤだ。買い替えよっかしら」
そんなにイヤかよ!
「どうしてだい? そんな風に言われるとショックだな……」。精一杯明るく努める。
「ゴメン。あなたに言ったわけじゃなくて。観光用のバイクと同じなら恥ずかしいと思っただけ」
「それなら心配ないよ。これは1台だけ特別モデルだから。ほとんど選ぶ人はいないって。レンタル料も5倍の値段だよ」。つまりまた見栄を優先させた結果だ。「でも皆からするとお揃いのバイクだね……まるでカップルみたいじゃん!」
「まあいいわ、まるっきり他人じゃないし、お揃いのほうが気分がいいよ。でも安心した、だってとても高かったのよ、コレ」
起伏の多いコース、風を切り同じ速度で駆け抜けた。楽しいひと時はあっという間だった。
「ふうっ。ね、あそこを見て?」
指差した先、いつものビーチを反対に見下ろす。ここから見る夕陽も素晴らしかった。赤く濃厚な光に包まれた彼女を焼きつけようと見つめ、そして、しばらくギュッとつぶった。
瞼の奥に赤い残像が宿り、それから彼女のシルエットが黒く浮かぶ。フラッシュバック、彼女と過ごした映像が次々と生まれ、最後に今日見せてくれた最高の笑顔が脳裏に焼きついて、簡単には離れなかった。目を開く、強烈な赤、憂いを帯びた彼女の表情が序々に輪郭を顕していく。
「ねえ」。彼女が道沿いの山吹色のコテージを指差す。ひと目でとてもおしゃれな家だ。
「あそこが私のお家なの」
洗練されたコテージのセンスと彼女の愛おしい存在感が神がかり的に相まって、僕は得も言われぬ心境をくらっていた。
「今日は楽しかった。お礼、と言うのも変だけど、よかったらこれから我が家へご一緒しない?」
イケル! 異国、常夏の夜、美女。ヴァカンスは近づいているのかもしれない!
▲―Ⅰサビ―
墓参りを終え少年にうながされて墓場の最上段へ。中央の墓へ侵入する少年、あろう事か墓石へ手をかけ足をかけしてよじ登り始めた。
「いけない、ダメだよ!」。しかし真剣な顔で無言の懇願。突如遠い記憶が甦り、半ば無意識に少年を追って他人の先祖を拝借していた。
墓石を土台に背後の石垣を掴み登りきると、記憶の正体が判明した。石垣の裏に太く古い縄がかけられていた、つたい降りれば裏手への近道になる、少年時代そうして遊んだ、ずっと忘れた記憶だった。
「ここを進めば開けてくるよ」。一挙に開けてモールを見下ろすカタチ、少年は急な斜面をいとも簡単に下っていく、私は必死に食らいついた。
丘を下りようやく舗装された道路。少年はモールの駐車場へ。玄関へ向かわず車の間を縫って、迷いなく目的地を目指すような足取りで。
「よかった、まだあった」。白のセダン。ポケットから耳かき状の金属の棒と小さなペンライトを取り出し、鍵穴を照らして瞬く間に施錠を解いてしまう。
「なにしてる!」
「大丈夫、監視カメラの死角だから」
「そうじゃなくて……」取り乱す私をよそに少年はまったく冷静だ。
「……どうして?」
「うん。実はこの車はうってつけで、ずっと狙っていたんだ。よかった、間に合って」
「そうじゃない! どうしてこんなことをするんだ」
少年は耳を貸さず今度は墓場の石を取り出し運転席のハンドルの下部あたりを叩く、内部から垂れ下がった2つのコードを接触させ、キーもなしにエンジンを発動させてしまった。こんなの、映画だろ……
「さあ、行くよ」。もはや抵抗の余地もなく私は助手席に掛けると、彼はアクセルを踏んだ。
「何者だ、君は一体……」。ずっと抑えていた質問をとうとう口にせずにいれなかった。
●―Ⅱ-A―
1986年8月。大学生活の思い出に思いきって海外旅行を。常夏の王国ニヴァイ。夏の空気、異国の風、植物……そして、オンナ。思えば4年間の交際関係はどれをとっても満喫するほど芳しいものはなく、悶々とした苦い後味ばかり舐めた。ニヴァイでの甘いヴァカンスをモノにするため一切の生活を切り詰め、その空白をバイトで埋めつくす、溜め込んだ旅費。質より量の作戦で日本人に最も人気のニヴァイ島ではなく列島の最西端、格安のニブ島を選択し10日間の長期滞在を敢行する。
それでもビーチには世界中の美女たちが悩ましげな肌をこれでもかと露出して群れていた。幸い、英文科の成果が僕にはある。そして……僕はこのビーチで永遠を見つけた。屋台で現地の料理を焼きドリンクを売りまわる、彼女をひと目見た瞬間に……
長身ながら可憐さも備えたボディ。小麦色の肌、露出の高い民族衣装に金色の装飾品を腕や足首のそこかしこにまとって、へそにさえグサリとピアスなるものを貫通させて。青々と長い巻き毛、ターコイズの瞳は、時を止める魔法のような殺傷力だ。彼女に永遠の王国を見た。
▲―Ⅱ-B―
西暦3017年。地球環境悪化により人類は新たな居住世界を月の裏側へ築いて久しかった。人々の意識をアップロードすることで拓いた新たな種の保存。
電脳世界といえどもそれまで世界を培った秩序の究極的な踏襲を前提とした。永遠の生などなく、人々には平均100年の寿命があてられ、性行為と分娩という普遍的な基礎を使って。文明自然都市の様々な細部も物理法則を極限までコピーして。意識において、地球時代と何ひとつ変わらぬ環境で人類は暮らした。
「君は何者だ? どうしてこんなことができる、君はいくつなんだ」。一度鎮まった車内、平然と運転を続ける少年に私は再び質問を始めた。
「僕が何歳か? 理屈抜きに答えるなら少なくも僕は4万日……軽く100年以上は過ごしたよ」
少年を見すえる。
「そして僕は13歳だってことも真実だ」
「100年以上過ごして13歳のまま……解らないよ」
「うん。僕は電脳世界のバグに囚われたのさ。つまり3017年7月3日、という日を僕だけが何万回も繰り返しているんだ。他の人々も同じ一日を変わりなく過ごすけど、彼らは別の時間軸では意識が次の日を迎えているはずだ」
「バグ……」
「そう、バグ」
「それが本当なら、君だってパラレルな世界へと正常に移行しているよね?」
「違うよ。断言できる。この電脳世界は日常的にいたる所でバグが確認されている、同じ時間をループしたり意識にリセットをかけられてね。そうやって世界の秩序は保たれてる。しかし僕は今日という日に取り残され、明日の世界では謎の行方不明事件の被害者として名前だけが存在していることと思う」
「そんなことって……」
「あるみたいだよ。今日の被害者は僕だけかもしれない、だけど記録には同様のバグが過去に複数件。調べたからね」
「相当調べたのか?」
「延々。幸いショッピングモールがあった、知識を深めるには書店がある、他にもかなりの経験ができる。でなきゃこんな田舎町だよ? 僕は永遠に少年の檻に閉じられていただろう。それでも相当な悪事に手を染めた、絶望の末自殺だってした。だけど同じ朝はやって来る」
「そういうことか……」
「ああ。経験も知識も100年物だよ。バグは落下運動に似ている。床に落下したボール。正常な落下ならバグが起きても数回でやがて収まる。ところが僕の場合なぜか永遠にバグのバウンドを続けている」
「永遠のバウンドか……」
「ねっ? 面白いでしょ」。少年の抱えた悲劇を思うと興味本位だけでいられず、しばし黙ることしかできなかった。
●―Ⅱサビ―
コテージはエキゾチックな気配にむせ返った。何気ない家具や小物、生活用品、投げ捨てられた衣服、放置された食べかけの料理まで、未知なる生命力と崇高な異国情緒を発散させていた。硬く閉ざしたガードが嘘みたいに、彼女は身を包む一切を蒸発させたように自らはぎ取り、迷いもなくベッドへと僕をいざなう。数回の行為。汗を流した彼女はスケスケの、局部が強調された民族ドレスをまとい、持ちうるすべての貴金属を集結させたようにギラギラ、ジャラジャラと音立てて現れ即座に唇に吸いついて、英語ではない、先祖から伝わる現地語を囁いた。
絶頂の間も彼女は現地語で喘ぎ、それがまた淫靡で。
「永遠……愛……」。彼女に教わった現地語を、何度も喘ぐ彼女につられ僕のほうこそ繰り返す始末で。
ヴァカンス。永遠をくれた彼女を見つめたら、ターコイズの瞳から涙が溢れ出す。
「喜び……情熱……粘着……摩擦」。枕元、彼女はそう現地語で僕に囁いた。永遠の夜は朝まで覚めなかった……
■―interlude―
もう5年経つな、と思う。妻の膣口から吐き出されたのは、バラバラになった未熟児の体組織の寄せ集めで、ひと目で怖気が走った。瞬時、冷酷な父だ、と自ら非難した。しかし妻はさらに残酷だった。排出した我が子になり損ねた残骸に、悲鳴を上げるや嘔吐を始め、血反吐を吐いてすら果てしなくて。
なり損ねの遺体には名が付けられ戒名、墓まで建てた。
1年後、晩夏、長男の初盆が過ぎた。吐き出された時分と同じ紅い黄昏が印象的な季節。妻はわずかに心の恢復の兆しを見せ、手料理を作る日もあった。私の好きなアラの煮付けがその前日の献立だった。ひとり外出もした。休日だった私はビールを片手に煮付けの残りをつつこうと鍋を開けた。
蘇る悪夢。ゼラチン質の煮 凝りは、長男の、あのおぞましい光景を彷彿とさせた。いたたまれずに私は外出する。
晩、帰宅することはなかった。自宅は燃えた、出火元があの鍋と判り真相はいやでも洞察できた。
それから2年、次男の誕生。天使のような可愛い子で。火事以降妻は完全に情緒を狂わせて何度も入退院を繰り返す。妊娠後むしろ心は安定し、産まれたらどうにか、と期待した。
しかし、あんなに可愛い次男を妻は認識することはなくて。美しい笑い顔にも愛おしい泣き顔にも、「煮凝りめ!」、と罵倒するのみで。妻が苦しまぬよう、生後半年にもならぬまま託児所に預けて。
一年前のあれも晩夏。仕事帰り託児所に寄り、「もう奥様が来られました」と告げられた。悪い勘が働いて急ぎ足で帰宅。誰もいない。が、奥から泣き叫ぶ次男の声。ゾッとして駆け込み。風呂場は湯気で見えず。
「煮凝りめ!」、叫ぶ妻、次男絶叫、沸き立つ湯気。
「煮凝りめ! 溶けてなくなってしまえ!」
熱湯に沈んだ次男、不幸中の幸いで一命をとりとめて。しかし全身、特に顔面に大やけど負って、あの美しさはもう還ることなくて。
▲―C―
すっかり夜、眠る私。
「ここは……」。目覚めて少年に訊く。
「もう着くよ」。5分ほどで停車。「さあ、ついて来て」
丘。中央に奇妙な遊歩道。頂上、さらに進む。奥は崖。見下ろす少年の顔、鮮烈に赤く光って。
「ほら、あそこ……やっぱり」
強烈な光に目を慣らすまでしばらく。地形には唐突な謎の人工物。凝視する。崖の底、巨大なハッチは少しずつ閉まっている様子。内部から濃密な赤い光漏れて。
「あれは電脳世界の核、メインCPUだよ。この世界のへそだね」
「えっ? ここは……外国……?」
「そんなわけないだろ。県境すら越してないのに」
「何だと! 聞いたことがないぞ!」
「ま、世界の機密事項だからね」。やはり老人のような狡猾な笑み。
「様々な情報を調べ上げた。これもそう、究極のテーマだよ。僕は今日という絶望に慣れ、やがて謳歌した。墓場にいたのは大した理由じゃない。墓石に刻まれる戒名などのコードを解析していたんだ、老境の成れの果てみたいだろ? そこに運があった」
「僕?」
「そう。君だから重大だったとは言わない。でも老人以外誰も来ない短調な場所。そこに顕れた違和感は即座に見抜いた」
「……僕はそれまで現れなかった?」
「そうだね」
「どのくらい経って現れたの?」
「……うん。20年さ」
「20年! そんな……まさか毎日じゃ?」
「……もちろん毎日さ。老境の成れの果て」
「なんてことだ……じゃあ、君が見せた表情は、決して大げさじゃない」
「だいぶ抑えたよ、年の功だね? 新たな経験自体に飽きがきてなにもかも失ったとき、墓石の奥深さに行き着く。そして、君と……」
「とことん凄い……まるでニーチェの永劫回帰じゃないか」
「まあ、どうとでも言える。でも、君のお陰で100年の眠りを解くことができるかもしれない……」。少年の得も言われぬ憂愁。ハッチは閉まりかけている。
「君、どうしようと思っている?」
答えず、一瞬、表情を崩したような気がした。笑うような、悲しいような、複雑な深みのある表情で。
崖の底へ投身していた。閉じかけのハッチ、世界の中心、メインCPUの内部へ、少年は赤く強烈な渦中へ、吸い込まれ消えた。
完全に閉まる。落陽の残り香のような切ない後味だけそこに漂って。
●―大サビ―
朝。彼女のいない部屋で目覚めて。
深呼吸して「桃源郷……」と独り言。部屋には走り書きで「お仕事に行きます、愛をこめて」と。その瞬間僕は、大きな決心をしていた。
「やあ」
「おはよう、早かったじゃないの? 昨日は楽しかったわ」。なんとなくサラっとした物足りない印象。それでも気を取りなおし、奮起した。
「コレを君に」。僕は赤く大きな花の束を彼女に捧げた。
「まあ。シャンディね……ニヴァイの象徴だわ」
少し間をおいて彼女の瞳を見据え、「ああ。花言葉は、『愛』」。簡単な演出、余計なものはいらない……と。昨夜、あんなに燃え、愛し合ったから。
「僕はこの島で永遠を見つけた。イザベラ。君を愛している、僕と結婚してくれないか?」
憂いを帯びた表情、ターコイズの瞳で僕を見つめ返す。が、意外な答え。
「うふふふっ、可愛い子だわ。後で話をしよう、夕方、早じまいするから、夕陽を眺めながらビーチで飲みましょうよ」
一世一代の告白を拍子抜けするほどの脱力感でかわした。「イエス」とも「ノー」とも告げずに。
約束まで遠ざかる。昨夜の永遠がちっぽけに思えるほどの長い長い永遠のアンニュイ。
「お待たせ? 乾杯しよ?」
ピンクとターコイズのカクテルのそれぞれに、赤い花弁が浮かぶ。
「ねえ……私っていくつに見える?」
「えっ……」。考えもしなかった。学生くらいで自分よりは年下だろう、と思い込んでいた。もし年上にしても、年齢の差を感じさせぬほど彼女はとても若々しい。
「僕が22歳だから、20か21歳か……」
「まあ、嬉しい。オンナってね、歳より若く見られるのがイチバン嬉しいものよ、ハハハハハ」。急に下品な笑い方! 興ざめだ……
「僕より年上……かな」
「うん。あなたより……ずっと、ね?」
「ずっと! 20代半ば?」
「ハハハハハハハ!」。また下品に!
「あのね、私、とっても婆あよ」
「ええ! なら30歳過ぎてるの?」
「ハハハハハハハ! そうよ!」
ええ~~! 見えないし!
「嘘でしょ? とても30過ぎに見えないって!」
「ううん、本当よ。それでも貰ってくれる?」。そうか! 僕をフルための口実だな。酷いな、ダメならハッキリ断ってくれたほうがマシなのに……。
「嘘ウソ、冗談よ……」えっ、なんに対しての?
「貰って欲しいなんて思ってないわ」。ええー! 一番ショック!
しかし次の瞬間、真剣な表情。
「とても深いわけがあるのよ」
なにも言えなくなった。張りつめてさえいた。
「私ね、こう見えて100歳を越えてるの。婆あだってのは本当なのよ」。とても本当とは思えない冗談のような話、しかし僕は真剣に受けた。彼女は真剣だった。
「おかしな体質よね、きっと重い病気。確かにあなたの言うとおり、20を越えたあたりから私全然老けなくなったの。嘘みたいだけど、事実よ」。嘘でもいい、真剣な口ぶりの彼女の話をずっと聞いていたい、ただそう思う。
「病院に通ったり色々した。でも悩まなくなったの。老けないんだから。数えきれぬほどのオンナたちから妬かれたわ、でもそれさえ気にならなくなった。神様がこの上なく喜ばしい体質を与えてくれた、タダでおくなんておこがましいと考えた、そして決心したわ」
「決心?」
「うん。私はこの島で、永遠の娼婦になろうって」
「……えっ?」
「そう! 文字通りの娼婦、男たちに肉体を売るの、それも無償の愛を、ね」
言葉にならなかった。
「あなたに捧げたように……だから、あなたひとりの物にはなれないの」
「君は真剣だ。信じられないが、でもきっと本当なんだろう。僕は君を独占できる資格はなさそうだ」
「ううん? 昨日あなたはとっても愛してくれた、私、とても幸せだった。このままあなただけの物になりたいって、本気で思ったわ……嘘じゃない。だけど私は罪滅ぼしとして、誰の物にもならないの……ただでさえ、若さというオンナの最大の幸福を手にしているのだもの。私は、それ以上幸せになってはいけない」
この瞬間を永遠に心に刻みたい、と思った。滞在の期限はもうそこまで来ていた。
「君は、数えきれない男たちを、相手にしてきたんだね?」
「……うん」。娼婦とは思えぬ、少女のような恥じらい。
「君はこの島の女神だ。そして、この上ない奇蹟だよ……」
「ありがとう。私は誰とも一緒にはならない、そしてなれない」。僕たちはしっかりと、無言のまま見つめあった。プロポーズの返答をくれた、と実感して。
「でも……化け物じみた私だってオンナであることは事実。独占欲だってある。だから、私を通り過ぎた男たちには、せめて、ずっと忘れてほしくないの。もちろん、あなたにも……」
「きっと忘れないと思う、燃えるような夜、そして夕景のこのビーチで、今夜話したこと……」
「ありがとう、本当にありがとう。私、とっても欲張りだからね、私のこと、永遠だって感じてほしい、永遠の記憶のなかで、ずっと愛し続けてほしいの……」
■―outro―
晩夏の夜の始まり、落陽の残り香切なく漂う空の黄昏。薄闇の今でさえ、紅の強烈な熱が残像のように漂う気配で。悲劇は時を経ていつしか繰り返すという。崖の底を見下ろし凝視していた。男は、自分が父であるのか、それとも子であるのか、わからなくなっていた。
崖の底は紅い沈殿が漂っていた。
男は、妻を突き落とす夫を見ていた。
子を突き落とす母を見ていた。
自分は何者か。ここに誰が存在しているのか?
夏の終わりの渇いた、湿った空気。あの紅い沈殿は、黄昏の残り香であるか。暁の産声であるか?
父はこの子の子孫のいずれかが、それは遠い遠い未来かも知れないが、いわれのない罪を負わされて奈落の底のような果てのない世界を延々と漂い続けるのだ、と着想しそれは、きっと現実のものになるのだろう、と深く実感していくのであった。
3つの短編をポップスのように配置してひとつの物語に仕上げました。
書くよりも削るほうが時間がかかったぞい。