男装少女の孤軍奮闘4
四
……がこん、と蓋が開く音がした。
わたしははっとして目線を上げる。久しぶりの光に目が眩む。
襟ぐりを掴まれて、思い切り引っ張り上げられる。
騎士たちによって穴から引きずり出されたわたしは、床に倒れ伏して咳き込んだ。肺に空気が怒涛のように入ってきて、肋骨が痛い。
外気に触れた身体が寒さを訴える。皮膚がふやけきっているせいで、床の石材のざらつきを指が掠めただけで皮がめくれた。
でも、呼吸ができる。ちゃんと意識もある。一晩、耐え抜くことができたのだ!
「殿下、大丈夫ですか」
サファールがわたしの肩に毛布をかぶせ、さする。わたしは何度も頷く。
一度は彼らに殺されることさえ危惧したか、それはなかった。サファールはすぐそこで腰を抜かしているハノンを睨む。
「……ハノン。殿下がこうして無事でいらっしゃるということは、神の裁きはお前の罪を指摘している。何か言うことはあるか」
ひっ、とハノンの顔が引きつる。
そして、次の瞬間には脱兎のごとく逃げ出していた。
「! 待ちなさっ……」
「おやめください殿下!」
追いかけようとするわたしを、サファールと騎士たちが止める。
「外にはあなたの迎えが来ております。逃げられはしないでしょう」
サファールがそう言うと同時に、外から調子外れの悲鳴が聞こえてきた。捕らえられたハノンのものだろう。
わたしはよたつきながらも立ち上がる。サファールが手を差し伸べて、
「肩をお貸ししましょう」
わたしは彼の手をやんわりと拒否する。
「気持ちだけで結構。あなたがたは今すぐにでも、その縦穴を調べたいでしょうから」
彼らの目を見ていれば、わたしの生還に疑いを持っているのは丸分かりだ。穴や蓋にイカサマの痕跡が残っていないか、調べようとするだろう。
サファールはそれを恥じているように目を伏せる。
「いや……、いや。結果が全てです。神のご意志を疑おうなど、あるまじきことでした」
「……では、ハノンの件は」
「私の権限において破門処分といたします」
「感謝します」
サファールは痛みをこらえるように静かに首を横に振った。
わたしはゆっくり歩き、聖堂の外へ出た。昇りきったばかりの朝日が目に痛い。
サファールの言った通り、聖堂前には迎えが待機していた。
びしょびしょのわたしの姿を見て、ゲラーとヤンビーが顔面蒼白で駆け寄ってくる。
「殿下! 大丈夫ですか!?」
「だからお考え直しくださいと申し上げたのです!」
今回の件で最も説得に苦労したゲラーの心労は、やはり相当なものがあったらしい。いつもの陰鬱とした厳しい顔つきがさらに暗くなっている。さすがにこれは申し訳ない。
「大丈夫、心配かけたね」
ゲラーたちと一緒に迎えに来てくれた兵士に羽交い締めにされているハノンが、泣き出しそうな顔で呻く。
「ち……違うんです、俺……騙されてたんですっ」
「言い訳するなら尋問官へどうぞ」
冷たく言って、わたしは周囲に視線を巡らせる。
山の中腹にあるこの大聖堂の周囲は、教会領として認められている森と僧侶たちが作った畑に囲まれている。
ジンの姿はそのどこにも見当たらない。
(どうして……)
「殿下、早く城へ。湯を沸かさせてあります」
ヤンビーが心配そうに言う。わたしは後ろ髪を引かれる思いながら、促されるまま馬に乗り、兵士に轡を取られて城へ戻った。
ゆっくり湯に浸かり、身体の震えが収まると、今度は耐えがたい眠気が襲ってきた。執務室に入ったはいいものの、病人食のような薄いスープをすくう手が止まる。
「無茶をなさるからです」
カーテンを閉めながらヤンビーがちくりと刺してくる。……すごく、怒っている。
「ご、ごめん。心配かけたよね」
「当たり前でしょう。あなたときたら、ここへ来てから無茶ばかり」
下手に出ても効果はない。
冷や汗をかくわたしを振り返り、ヤンビーは険しい表情で言う。
「……こんなことはあまり申し上げたくありませんが、あの騎士の言うことを信用しすぎてはいけません。あの男には何か含みがあります。この世のどこに自らの主を進んで危険に晒す騎士がおりますか」
ヤンビーの言葉は全面的に正しい。わたしは深く頷き、眠気に耐えてなるべく神妙な顔を作った。ヤンビーの愚痴はまだ止まらない。
「本当に、替えられるものなら替えたいです。……そう、指示されていた通り、この一日城内をよく観察してみましたけれど、それもまた腹が立ちます」
わたしが不在の間の部下たちの態度を、ヤンビーに見ていてくれるよう頼んであったのだ。アナベルさまからの言わば借り物の人材に頼りきりの今、この時点で誰なら真に信用していいのか、ある程度把握しておきたかったから。
しかしヤンビーの口振りからすると、結果ははかばかしくなかったらしい。
「どうだった?」
「……ゲラー補佐官は信頼できると思います。自分の首を心配していたわけじゃないのは明らかでした。あなたのことを心から心配なさっていたから。あの生真面目なマッシム隊長も同様です。でも一般の兵卒や文官はろくでもない。あなたが……どうにかなってしまって、フィリップ王子に領主権が移ると睨んで、退去の支度をしている者までいました」
「やっぱりそうか……」
予想通りの結果に、わたしは眉をひそめた。
彼らはあくまで元はアナベルさまに仕えていたわけだから、ユーファウスにそこまでの忠誠心を持てなくとも不思議ではない。ユーファウスに何かあった場合、アナベルさまから咎められるのはどうせ幹部以上の者だけだから、下の者ほどそのあたりはシビアだ。
「やっぱりまだ彼らの待遇は削れないな。ご機嫌取りしないと満足に働いてももらえない領主なんて、情けないよね」
「……そんなことは」
ない、とここで言い切れないのが、ヤンビーの良いところだ。わたしは頬杖をついて笑う。
「ヤンビー、心配してくれるのは嬉しいけど、今は無茶するときだよ。まず成果を出さなければ、誰も本心からユーファウスに仕えてはくれない。病弱な末王子と侮られることが有利に働く場面もあるにはあるけど、それでもそれを払拭しなくちゃ人は離れていってしまう」
「…………」
ヤンビーは返事をしてくれなかった。ただため息を落として踵を返す。
「寝室にお休みのご用意をしてきます。お食事が終わり次第、お早くお休みください。今日は仕事ができる体力じゃないでしょう?」
「ヤンビー」
わたしは抗議しようとしたのだが、ヤンビーにきろりと横目で睨まれて舌がもつれた。
「わ……分かりました……」
「では、失礼します」
ヤンビーは一礼して部屋を出ていった。
わたしは味のしないスープをすすり、目をしぱしぱさせる。
誰だって待遇が良いところで働きたいし、出世だってしたい、自慢できる主の下につきたい。ユーファウスを見限ろうとした部下たちを責める気持ちにはなれなかった。その代わりに焦りが募る。毎日休息を取らなければすぐに調子が狂う自分の身体がもどかしい。
今この瞬間にも、飢えている領民がいるのに。
「……んか。殿下!」
「!」
肩を叩かれて顔を上げると、隣にジンが立っていた。ほんの少し意識が飛んでいたらしい。
「うたた寝するならベッドへ行きな。そんな顔色で仕事ができるもんか」
「どこに行っていたのです?」
訊ねる、というより、食ってかかるような調子になってしまってわたしは口を手で覆った。
ジンはさらりと答える。
「どこって、丸一日あの聖堂を見張ってたんだが。あんたやハノンの口を封じるために、フィリップの手の者が襲って来ないとも限らなかったしな」
わたしは驚いて目を丸くした。
「見張ってた? 見つけられなかった」
「そりゃあ隠れてたんだよ。当然だろ?」
「…………」
ほうっ、と肩の力が抜ける。わたしはどこか呆然とジンの顔を眺めながら、思わず「すみませんでした」と謝っていた。ジンが首を傾げる。
「何がだ」
「……穴の中にいたとき、あなたのことを疑ってしまったから」
「ああ。この薬草足りるんだろうな、とかって?」
わたしは顎を引いて肯定を示した。後ろめたい気持ちが背筋を舐める。
「別に謝ってもらうことじゃない。一晩あんなところに閉じ込められてたら、人間誰だって疑心暗鬼になるだろう。それに、俺は一応あんたに信頼されるような言動をしてない自覚はあるからな。無理もないさ」
「……あの草……魔術師の知識ですよね? あなたは魔術師なのですか」
内心はどうだったのか知らないが、ジンは動揺を見せたりはしなかった。軽く肩をすくめ、
「まあ、そんなもんだ。だが、自分のために魔法を使ってくれと言われても俺は受けられない。そういう決まりでね」
「魔術師には厳しい掟があると聞きます。駄々をこねる気はありません。代わりに質問に答えてください」
ジンがわたしの顔を見下ろして、どうぞ、と瞳で促す。
「あなたは、どうして私に味方してくれているのですか」
「……前に言っただろう?」
「あんな誤魔化しでなく、本心で言ってくれればいいんです」
「…………」
ジンは珍しく口ごもり、目を泳がせた。わたしは根気強く答えを待つ。やがて、ジンは諦めたように口を開いた。
「正直に言えば、まあ……思いつきだな。本当に思いついただけだ。あんたのそばにいるのが良いと、何となく思っただけだった」
「……本当に?」
詰め寄るわたしに、ジンは「本当だよ」と困ったように言った。自分でも自分の言っていることが腑に落ちていないような様子だ。
「だが、あんたにはなかなか分かってもらえないだろうが……俺たちにとって、何かを思いつくってのは貴重でな。自分でも不思議なくらいだ。俺にこんな気まぐれを起こさせたのはあんただけだから」
「……その思いつきのために、どこまで命を張れます?」
意地悪な訊き方をしたが、ジンは至極軽い調子で言った。
「俺ひとりの命なんて軽いもんだ。張って困るやつはいない。俺含めて」
「……そうですか」
引っかかる言い方だったが、嘘を言ってはいないということは分かる。わたしはそれ以上は突っ込まなかった。追及したとしても、少なくとも今はまだ、ジンは正直に自分の事情を教えてくれはしないと思ったからだ。
それよりも、ジンが今後もわたしのために動いてくれる気があるという事実が、今は重要だ。ゲラー、マッシム、ヤンビー、ジン。この四人は頼って大丈夫だということか。
「話はここまでにしよう。あんたは早く休むべきだ」
「スープを飲み終わったらそうしますよ」
と言った直後、悪寒がしてわたしは身震いしてしまった。ジンが呆れた顔でわたしの腕を取り、椅子から立たせる。
「やめときな、もう冷めきってる」
「あ、でも仕事が……」
「あんまり強情なら、姫抱きしてってやってもいいんだぞ」
わたしはぴたりと動きを止めた。不覚にもちょっと想像してしまって、恥ずかしさで汗が出る。
ジンはにんまりと笑い、
「あんたは誤魔化しだと思ってたらしいが、姫君でないのが悔やまれると言ったのは本心だからな」
「よりによって一番不敬なポイントが本心ですか!」
ジンは爽やかすぎて不気味に見える笑顔のまま、わたしの膝裏に手を伸ばそうとする。わたしは慌ててそれから逃げ、寝室へ向かうしかなくなってしまった。