第3話
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洞窟神殿の外には深い森が広がっていた。まだ日の出を迎えたばかりで冷えた空気が漂い、樹々の隙間に差し込む光は弱々しかったが、それでもモヒートは目に映るもの全てに感動していた。
「すげぇ、すげぇぞルイザ! こんなに樹が沢山あるのを間近で見たのは始めてだぜ! これが森ってやつなんだろ?!」
モヒートが暮らしていた旧アメリカ大陸に広がっていたのは崩壊した都市の残骸と、どこまでも続く赤い土と岩ばかり。自然の森林なんてものはすでになく、そのほとんどが伐採され、僅かに残る森林も武装グループによって独占管理されていた。
ルイザにとっては見慣れたサルムの森も、モヒートにとっては過去の食料保管庫を発見したに等しい喜びに満ち溢れていた。
「おいおい、まさかこの実は食えちゃうのか?」
モヒートは自然に植生している花の赤い実に興味を示すと、それを指さしてルイザに問う。
「ペリーの実ですね。食べることが出来ます、噛むと少しだけ甘い汁が出てきますよ」
ルイザはその仕草に思わず頬を緩め、親指ほどの大きさのペリーの実を一つもぎ取ると、朝露を軽くふき取って恭しくモヒートへと差し出した。
「おぉ、わりぃな」
モヒートはペリーの実を指でつまみ上げると、僅かに力を入れて硬さを確かめ、まるで宝石を見るかのように朝日の光に掲げて、その赤色を堪能する――ほんのり漂う青臭さと甘い匂いに鼻孔を膨らませ、ペリーの実を丸ごと口の中へと放り込む――。
「――あぁ、うめぇ……」
ペリーの実からは確かに僅かな甘みが感じられた。その味は、食料プラントで生産されたペースト食品やゼリー状食品、全く味のしない固形食品ばかりを食べていたモヒートにとって、久しぶりに味わう自然食の味だった。
ルイザは目に涙を溜めてペリーの実を噛みしめるモヒートの姿を不思議そうに見つめていた。彼女にとってモヒートは遅れてきた救世主、それが出来るだけの力を内包した勇者のはずだった。
しかし、サルムの森の樹々に感動し、子供のおやつにもならないペリーの実に涙するモヒートに、本当にそれだけの力があるのか疑問だった。
異世界人召喚の儀の成功例は極端に少ない。過去に召喚された人物がどれ程の力を持っていたのか、それで何を成したのかは殆ど記録に残っていないほどだ。
だが、そんな疑問はすぐに消え失せた――もうすでに救うべき国はない。今の自分はこのモヒートの従者、彼が求めれば体を差し出し、彼が求める場所へ案内をするだけ。
「おい、ルイザ。何じっと見てんだよ、お前も早く食え、これすげぇ美味いぞ!」
モヒートはペリーの実を二つもぎ取ると、その一つをルイザに差し出す。もう一つは自分の口の中に直行だ。
「あ、ありがとうございます」
ルイザは差し出されたペリーの実を受け取ると、モヒートと同じように一口にして噛みしめた。
「なっ? うめぇだろ?」
「――はい」
ペリーの実を食べるルイザの姿に満面の笑みを浮かべるモヒートに釣られ、ルイザの表情も自然と優しい笑みへと変わっていた。
ルイザ本人は気づいていなかったが、度重なる儀式の失敗に人間側の敗北、そして迫害される一族の姿に、笑うなどという喜びの感情は彼女の中から消え失せていた。
だが、儀式の成功を目の当たりにし、召喚されたモヒートの一挙手一投足を見ている内に、消え失せた感情の鼓動が再び打ち鳴らされていた。
深い森の景色は、モヒートにとって夢ですら見たことのないものだった。それもそのはず、森林を形成するほどの樹々を見ることが初めての経験ならば、小鳥たちの朝の囀りを聞くことも、薄っすらと残る朝露を照らす神秘的な日の光を見ることも初めてだった。
一歩進むごとに初めて見る自然に感動の声を漏らしていたモヒートだったが、次第にその口数は少なくなり、ついには黙って森の中を進み出した。
モヒートの少し前を先導して歩くルイザは、後ろで騒ぐ声がなくなったことを不思議に思ったが、振り返ることはしない。
異世界人召喚の儀が成功したとはいえ、どのような世界から、どのような人物が召喚されるのかは判らないし、それをコントロールすることも不可能。
召喚される人物の選定条件はただ一つ、魔族に匹敵する――またはそれを遥かに超えるマナの持ち主だ。
モヒートが何故これほどまでに森の自然に感動しているのか、ルイザには判らない。まさかモヒートのいた世界も終焉を迎え、フェイム大陸を遥かに超える大破壊に見舞われていたとは想像もつかないことだった。
だが、モヒートがこの世界で何を思い、何を成そうとしても、ルイザはそれに付き従うだけ。
だからルイザは振り返らない。今はモヒートを一族が隠れ住む村に案内し、この世界のことを――人間のこと、魔族のこと、そして魔族が振り撒いた因子のことを話さなくてはならない。村はもうすぐそこだ――。
前を行くルイザの後姿を見ながら、モヒートは自分が旧アメリカ大陸ではない、どこか別の場所を歩いていることを実感していた。
あの荒れ果てた大地は最悪の場所だった。自然の緑は消え去り、大地は荒れ果て、空はいつも灰色の雲に覆われていた。水は汚染され、科学文明は崩壊し、人の心は腐敗した。
あの地獄から脱出できた。この事実を、心の奥底から溢れ出るこの思いを、どう表現すればいいのか――吠えるように大声を挙げて喜びを言葉にして吐き出すか? あの地獄に産み落とされた時以来の涙を流し、嗚咽と共に幸福に打ち震えるか? 目の前を進むルイザを抱きしめ、人生の新たなパートナーとして命を分かち合うか?
どれも違う――いや、この湧き上がる感情を別の形で表に出すことなんて不可能なのだった。
そして、同時に感じていたのはいくつかの喪失感――荒野をバイクで駆け抜けた自由な日々、仲間たちと共にその日一日を生き抜いた達成感、争いと狂気によって沸き立つ熱き鼓動。
声にならない感動と喪失感に口を閉じていたモヒートだったが、ふと気づくと前を行くルイザの足が止まっていた。
釣られるようにモヒートの足も止まり、ルイザの肩越しに目的の村らしき集落が見える。
「けむりぃー、噴いてるな」
その集落を見たモヒートの率直な感想である。
「そ、そんな……まさかっ!」
足を止めていたルイザが駆け出す。
焼け落ちた家屋から立ち上る煙と残り火が燻るのを見て、モヒートは目的の集落が姿を変えた時刻を、冷静に予想していた。
(標的が寝静まった夜明け前を狙ったか……それに、この鉄くせぇ臭いと焼けた肉の臭い……なんだ、こっちにも溢れてるじゃねぇか……狂気がよぉ)
森を抜けて集落へと駆け込んでいくルイザとは逆に、モヒートは自然の緑を目の当たりにした興奮とは全く別の感情を滾らせ、狂喜の笑みを浮かべながら、ゆっくりとルイザの後を追った。
「ガルム様!」
ルイザは一族の長であるガルムの家屋へと駆け込んだが、すぐにその勢いは削がれて膝から崩れ落ちた。
暗い家屋の中で、ガルムはすでに動かぬ肉の塊となって腰を落としていた。
「ひでぇなこりゃ」
家屋の入り口から声を掛けたモヒートは家屋内を見渡し、膝を落としてうな垂れるルイザの頭に手を乗せると、ガルムと呼ばれた老人の姿を見下ろした。
(こりゃぁ、遊んだな……)
ガルムは体中に痣と切傷が付けられていた。それは明らかに拷問の痕――この家屋に来るまでに他の家屋や焼け落ちた家屋を覗いてみたが、似たような死体がいくつも転がっていた。
どの家屋を見渡しても、ここと同じように荒らされていた。そのやり口には心当たり、というべきか――それとも、この遊び心を理解できるというべきか。
モヒートはこの惨劇を引き起こした者が、どのような者たちだったのかをすぐに察した。
「夜盗の類か、しかし判らねぇな。この集落の破壊具合は人の手に余る。この世界の武器は何だ? ブラスターか? ダイナマイトか? まさか槍や剣なんて古代の武器じゃねぇよな? それとも魔族ってやつか?」
集落の破壊具合は物盗り目的にしてはやり過ぎだ。限られた資源を奪い合う世界で生きて来たモヒートには、家屋を意味もなく焼き落とし、労働力という大事な資源である人間を、ただの遊びで殺すことは無意味以外の何物でもなかった。
だが、終末を迎えたモヒートの世界にも、これと似たようなことをする人間は大勢存在した。
モヒートが身を寄せていたレッドスパイクもそうだ。その誰もが暴力の狂気に溺れ、殺しを楽しみ、生きていく恐怖を忘れるかのように一日一日を駆け抜けた。
そして、それはモヒートとて大して変わらない。生まれ落ちた時にはすでに科学文明が終焉を迎え、生き残った人類は文明再建への第一歩すら踏み出せない暗黒時代を生きていた。
“終末の世代”などと呼ばれた終焉後に生まれた子供たちは、明るい希望や未来を夢見ることはなく、その日一日を生き抜くことで精一杯になっていた。
そのような状況下では、どのような形であれ暴力から遠ざかることは不可能だ。
モヒートも自然の流れに乗るように暴力に溺れ、その狂気に身をゆだねる快楽の虜になったこともあった。
しかし、レッドスパイク内での地位が上がっていくにつれ、モヒートは自分自身の快楽だけを追い求めるわけにいかなくなった。
新しい資源を追い求めて旧アメリカ大陸を駆け抜け、数に限りがあるアルキメデスと四輪バイクを整備する日々。怪我を治療することが出来ずに命を落とす仲間がいれば、生き場を失いレッドスパイクに加入する新しい仲間もいる。
どいつもこいつも荒くれ者の馬鹿野郎たちだが、それをまとめ上げるのがモヒートの役目だった。