第19話
魔族が振り撒く因子による疫鬼化は、人々の生活圏に様々な影響を与えている。
アクマリア湖を防壁で囲んでいるのは、疫鬼が持つもう一つの特性に対応するためだ。
疫鬼は人を襲い、喰らうだけではなく。その生活基盤の清浄さを汚す習性も持っている――飲料水や生活水として利用される水源や農地に侵入し、因子を感染させて人を生きた状態で疫鬼化しようとするのだ――。
これを防ぐためには、因子によって湖や農地が汚染される前に侵入した疫鬼を駆逐するか、そもそも侵入させないかの二択しかない。
アクマリア湖を囲う防壁は、この“侵入させない”の考えに基づき造られたものだ。
だが、それほど大きくないとはいえ、湖を含む砦を囲う防壁が人の手で容易に建設できたわけがない。この防壁は亡きバストラルの能力で造られ、その加護を受ける代償として、街に住む人の手で整備されていた。
「水は何よりも重要だ――俺にはこの湖が黄金色に見えるぜ。防壁の上を人が歩ける歩廊に作り直させろ。それから新たに巡回警備の仕事を作り、監視所に狼煙台、発煙筒や警鐘を作って持たせろ」
「畏まりました」
ルイザはモヒートの背に一礼すると、残った案件について再確認する必要があったことを思い出した。
「元親衛隊や警備隊員についてはどう致しますか?」
ルイザの問いには、モヒートがどんな指示を出しても二つ返事で実行する心構えがあった。たとえそれが捕獲や投獄、暗殺や抹殺であっても、ルイザは何も言わずにそれを実行しただろう。
それだけの信頼をモヒートに寄せ、結果的に家族の仇をとったことに恩を感じていた――だが。
「あぁ、それはほぉっておけ」
「放置するのですか?」
モヒートの返答は“何もするな”だった。
「集落の運営は飴と鞭だ。俺はバストラルを殺って鞭となり、ライデンに運営を押し付けて飴にした――」
モヒートはジッと湖を見つめたまま、メタルコームを取り出して真紅のモヒカンヘアーを整えながら話を続けていく。
「――資源を有効活用するために仕組みを変えさせたが、小僧どもをドヤしつけて飯を食ってた奴らからすりゃぁ、面白い話じゃぁねぇ。巡回警備のこともある、あれもこれもやらせて、更に歯向かえばどうなるか――そんな恐怖で支配しても敵を増やすだけだ」
「さすがです、モヒート様。街の住人のためにそこまで考えて……」
「――いや、飴が足りてねぇだけだ。何を与えりゃいい? 食糧か? 水か? 女か? まさか……男か?」
「飴……ですか? バストラル卿は厳しい食糧制限を課していたはずです。ライデン卿が街のトップになってからは、モヒート様の指示通りに性別・年齢・健康状態によって配給量を変えています。水はアクマリア湖のお陰で、以前からそれほど厳しくなかったはずです」
「つ~ことは……残ったのは女と男か」
モヒートはこれで決定だと言わんばかりに手を打ちながら振り返り、ルイザの肩を抱いてアリオンへと歩き出した――。
「――いえ、それはバストラル卿も考え、数ヵ月に一度はシャープルから移動娼館が来ているはずです」
「移動娼館? そんなものがあるのか……それは今も来るのか?」
ちょっと緩んだ垂れ目で肩に抱くルイザを見下ろすモヒートの視線と、ジト目で見上げるルイザの視線が重なった。
「……モヒート様、移動娼館にご興味が?」
普段のルイザの声色は低く心地よい響きがある。だが、冷たい眼差しと共に囁かれた声色には、モヒートが加入していた“レッドスパイク”の誰よりも深い怖さがあった。
「あ~、う~ん、ほら――それが飴になるのなら、どれくらいの規模や質なのか、確認しておく必要がある……だろ?」
次第に声が小さくなっていき、しどろもどろしていくモヒートの姿が面白いのか、ルイザは視線を外して秘かに口角を緩めていた――だが、モヒートは移動娼館への興味を誤魔化すのに必死で、ルイザの表情の変化には気づいていなかった。
「移動娼館が来るのは、次の満月の夜です」
「……それいつ?」
「ほぼ一ヵ月後です」
「ッかぁ~! 来た直後だってことか!」
「そういうことです」
だから私で我慢してください――などとルイザは繋げたりはしない。自分自身でもモヒートのことをどう想っているのかは正直判っていない。確かに今、嫉妬や蔑みの感情を覚えた――それがモヒートを想うが故なのか、それとも一人の男が抱く愛欲を軽蔑したが故なのか。
だが、モヒートの従者として、アクマリアの真の支配者に付き従う右腕として、その能力を使い過ぎて空腹感が治まらない時のマナタンクとして――そして、アリオンのバックシートに跨る唯一の存在として、モヒートの横に立つことに喜びを感じている――それだけは確かな感情だった。
モヒートとルイザの二人が防壁の視察を終えて砦に戻って来ると、すぐにライデンの執務室へと呼ばれた。
「や~っと戻って来たわね!」
「何の用だライデン、俺はこれから飯にするつもりだったんだが?」
「貴方がアタシに仕事を押し付けたせいで、こっちは食事をする暇すらないのよ~ン? 少しは手伝いなさいよッ!」
ライデンは執務机に化粧品らしき香油壺をいくつも置き、手鏡で肌の様子を確認しながらモヒートとルイザを出迎えていた。
「はぁ、このままじゃ肌荒れが酷くなる一方よ……」
わざとらしく溜息をつくライデンだが、忙しいだの寝ていないだのと不満を垂れ流すだけで、モヒートとルイザを呼んだ本題に中々入らない。
モヒートは執務机前のソファーに座り、テーブルに足を投げ出してライデンが本題に入るのを黙って待っていた。
先にしびれを切らしたのはルイザだった。
「ライデン卿、私たちを呼んだ理由は何ですか?」
「……領主会議よ。アタシはアクマリアを安定させるために、この街から一歩も外には出られないの。だ~か~ら、もうすぐ開催される領主会議には貴方たち二人に行ってもらいたいのよッ」
「領主会議? そりゃぁなんだ?」
モヒートはソファーの上で背伸びするように体を反らせ、後ろに立つルイザへと視線を向けた。
「フェイム大陸に数多くあった国々は魔族によって滅ぼされましたが、広大な大陸全土の街々が全て敗北したわけではありません。中には幻装騎兵の力で猛攻を凌ぎ、このアクマリアのように支配圏を確立した街が多く存在します――」
領主会議とは、その支配圏を確立した騎士たちが一ヵ所に集い、自分たちの支配圏では生産できない物資や食料、大陸や魔族に関する情報、新たに生まれた在野の騎士や人材についての情報など、様々なものを交換し合う場だ。
このアクマリアでは清浄なアクマリア湖という水源を生かした食糧生産が主産業であり、領主会議でも過剰生産した分の食糧を物財として持ち込んでいる。
一応、過去には国々で鋳造された貨幣によって取引というものは行われていたのだが、魔族によって国と言う統治機構は亡くなり、その価値を保証する者はいなくなった。
魔族の大侵攻から三〇年、国を再興しようと行動を起こす者は少なくなかったが、一度滅んだ統治機構を復興させるには、魔族と因子の存在があまりにも大きかった。
生き残った人々は少数で固まり、安全な支配圏を確立させることが精一杯であり、これが国と言う形に統合されるにはまだまだ時間を必要としていた。
「領主会議って奴に出るのはいいんだが、一応――アクマリアはお前が統治する街だ。それなのに俺たちが出ていってもいいのか?」
「だぁいじょうぶよ~ン。バストラルは一回も出ていないし、代理を立てるのは珍しいことではないわ~ン」
「いいだろう。他の集落や騎士にも興味があるし、周辺環境を知っておくことは悪くない」
モヒートはソファーから立ち上がり「さぁ、飯だぁ~!」と背伸びしながら執務室を出ていく。その後についてルイザも出ていこうとしたのだが――。
「あぁルイザ、貴女にはちょっと聞きたいことがあるの」
「なんですか?」
ライデンがルイザを呼び止め、モヒートが執務室を離れていくのを確認してから話し始めた。
「領主会議に行く前にハッキリさせておきたいの」
「なにをですか?」
「モヒートのことよ……彼、本物の騎士じゃないわね? もしかして、一族の悲願が叶ったわけ?」
ライデンは幻装騎兵を具現化することが出来る歴戦の騎士だ。アクマリアから出ることが殆どなかったバストラルと違い、ライデンは対外交渉や盗賊退治など、他の幻装騎兵や騎士と対峙することが多かった。
その経験からすれば、モヒートのアリオンやキャスターが幻装騎兵ではないことはすぐに判った。しかし、ならアレはなんだ? という話になる。
そう考えれば、残る可能性はルイザの一族が長年挑戦し続けていた秘密の儀式だ。
フェイム大陸の国々が魔族の大侵攻に耐えていた頃、ルイザの一族はその戦列に加わることなく、森の奥深くに閉じ篭って儀式に挑戦し続けていた。しかし、その儀式を当てにしていた人は少ない。
それどころか、騎士という最大戦力を持ちながら戦いに参加しない一族のことを――裏切り者、臆病者、詐欺師……ありとあらゆる蔑称で呼び、大戦末期にはその存在や儀式の内容すら忘れ去られていた。
ライデンは大敗戦後の生まれ、ルイザの一族が何かを呼び出す儀式を繰り返していることをバストラルから聞いてはいたが、その詳細は知らなかった。だが、モヒートという騎士ではないライダーを見れば、秘密の儀式の内容も想像がつく。
「なにも秘密にするようなことではありませんが……確かに、モヒート様は私たちの儀式の結果、騎士としてこの地に降り立った方です」
「……それで、降り立ってどうするの?」
「なにもする予定はありません」
「なにも?」
ルイザのあっさりとした返答はライデンが予想していたものとは全く違っていた。「魔族を滅ぼす」、「国を再興する」、「支配圏を広げる」、そういった権力や力への渇望が、まず目の前の目的としてあると考えていた。
そうでなければバストラルを躊躇なく倒し、手に入れたはずのアクマリアを簡単に手放すはずがない。
執務室の外から鈴を鳴らす音が微かに響いた。バストラルが食事を運ばせるときに鳴らす鐘の音だ。もちろん、鳴らしているのは先に食堂へ行ったモヒートだろう。
その鐘の音に、ルイザは優しく微笑みながら執務室の外へと歩き出し――。
「モヒート様のお考えは私が計り切れるものではありません。ですが、あの御方は……支配欲よりも食欲の方が大きいようですよ」
そう言って食堂へと歩いて行った。
「なによ……あの子いつの間にあんな表情するようになったのよ……」
ライデンは今までに見たこともないルイザの表情に、乙女として負けた気にさせられていた。




