休日4
「あー、お腹いっぱい!」
水奈が腹部をさすりながら言う。
「おいしかったねー。ね、初花ちゃん」
「は、はい! とても!」
水奈に続いて、神梨と初花ちゃんも満足そうに声を上げた。
僕が作った料理は思っていたよりも好評で、三人の前には綺麗に平らげられた後の皿だけが残っている。
「やっぱおにいちゃんの料理が一番だなー」
ご機嫌の水奈が感慨深く頷いた。
「水奈ちゃんはいつもこんなご馳走食べられて羨ましいよ」
神梨や初花ちゃんも僕の料理を気に入ってくれたようで、喜ばしいことだ。
「それで、おにいちゃん」
ふと、声質を変えて水奈が話を切り出した。
「なにか忘れてない?」
「なにか?」
唐突な水奈の発言に覚えのない僕は首を傾げる。
「大事なことだよ? 聞かなくても分かるでしょ?」
「大事なこと……」
どうやら、肝心の内容をあえて隠しながら僕が自分で思い出せるような誘導を仕掛けているらしい。
記憶を辿り、水奈の言う『大事なこと』が何であるかを探す。
(ほら、やっぱり覚えてない)
(えー? おにいさんなんだから絶対覚えてると思ったのに……)
熟考する僕を他所に、水奈と初花ちゃんがテーブル越しに顔を寄せ合って何やら小声で話している。昼頃にも同じような光景を見たが、そのとき初花ちゃんが『水奈ちゃんの』と言っていたのが関係しているのかもしれない。
「――まさか、今日が水奈の誕生日だってことじゃないだろ?」
「「!」」
途端、二人が反応を示した。
「……あれ? もしかして合ってる?」
とぼけたような態度を見せる僕。
「そ、それですよ! おにいさん!」
あの控えめな初花ちゃんが声を上げた。
「なんだ、そんなことだったのか。大事なことだって言うから別のことかと思って考え込んじゃったよ」
「……そんなことって」
僕の発言があまりにも無頓着だったのだろう。声のトーンを低くした水奈が小震いしている。どうやら冗談が過ぎたようだ。
「ちょっと待ってろ」
無言の水奈を放置し、席を立ってキッチンへ行く。
そんな僕の態度に神梨も怪訝な表情を浮かべていた。
だが、心配することはない。すぐに誤解は晴れるだろう。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。そして、その中の最上部。夕方に僕が帰宅したとき確認していた場所から一つの箱を取り出した。
一辺三〇cmくらいで、両手いっぱいに持てる程度の大きさの四角い箱。
それを傾けないようにそっとテーブルへ運び、水奈の目の前でその中身を取り出した。
姿を見せたのは、大きな丸いスポンジに純白の甘いクリームが塗られており、上には弧を描くように苺が並べてある食べ物。真ん中を見ると、短い文章が書かれた楕円形の白い板チョコが乗せられてあった。
「水奈」
目の前に座る妹に優しく声を掛ける。そして、僕は書かれてある文字を読み上げた。
「『十歳の誕生日、おめでとう』」
忘れるわけがない。
たった一人の可愛い妹の誕生日が、兄にとってどれだけ大切なことか。
パチパチ。と、神梨と初花ちゃんが祝うように両手を合わせて何度も音を鳴らす。
「おめでとう、水奈ちゃん」
「お、おめでとう」
二人が水奈に祝辞を述べた。
「……」
そのとき、不意に一滴の涙が落ちた。それが誰のものであるかは言うまでもない。
「……覚えてて、くれたんだ」
「もちろん」
涙交じりに声を漏らす水奈に、躊躇うことなく答える。
やはり、まだまだ子供なのだろう。
誕生日を祝われること、それだけで心から嬉しいと思えるのだ。
まあ、それで泣く子供は珍しい方なのだろうが。
「そんなに泣かなくても、僕が今までお前の誕生日を忘れたことなんて一度も無かっただろ?」
水奈の顔を覗き込むようにして言う。その発言が蛇足であるとも知らずに。
「…………いや、あるし」
「え?」
返ってきたのは、予想外の答えだった。
「去年とか、その前の前の年とか、何度か忘れてたときあったじゃん!」
服の袖で涙を拭い、不服を全面に押し出す水奈。
「えぇっ!? まじか!?」
「ホントだよ! 水奈が七歳になったときはおばあちゃんに言われてから思い出したように慌ててプレゼント買いに行ってたし! 九歳のときはもっと酷くて、おめでとうの一言も言わずに次の日の朝まで寝てたじゃん!」
息継ぎもせずに文句を垂らす水奈に呆然自失する。
「そ、そうでしたっけ……?」
そのあまりの気迫に思わず敬語で返してしまった。
「そ、う、で、す!」
素っ頓狂な態度をとる僕に不満を込めて返事をする、今日から十歳児。
声から察するに別に怒っているわけではないようで、単純に駄目な兄に呆れ驚いているといった感じだ。
その覇気に圧倒されつつも、水奈の言う『以前の誕生日』のときのことを思い出してみる。
まずは三年前について。
「…………あ、そうだった!」
案外あっさりと記憶をおこし、そのときのことが頭に蘇った。
「三年前は誕生日自体は覚えてたんだけど、うっかりプレゼントを買うのを忘れてたんだよ! それで、ばあちゃんがプレゼントはどうしたのかって聞いてきたから慌てて……」
真相を告げ、水奈を見返すが、それでも納得がいかないといった様子で疑り深い視線を絶やさない。
「……じゃあ、去年は?」
「去年……」
僕が中三のころ。
確かあの時は学校で何か重大な事案があって、それで帰りはかなり疲れていたはず。
そこまで昔のことではないからすぐに思い出せるだろうと思ったのだが、なぜかほとんど記憶にない。
「……すまん、思い出せん」
「ほらやっぱり! これだからおにいちゃんは」
「いや、何か理由があったのは憶えてるんだが、それがなんだったのか思い出せなくて……」
「はいはい。言い訳ばっかしてないで素直に認めたら?」
いつもの生意気さを取り戻したご様子の水奈さん。
「くっ……」
反論できない自分が憎い。どうしてあの時のことだけ思い出せないのか、と。
「さて、こんなダメダメなおにいちゃんは放っておいて早くケーキ食べよ?」
そんなことを考えているうちに水奈が神梨と初花ちゃんに声を掛け、いつの間に取ってきたのか、子供用包丁でケーキを三等分して皿に乗せ始めた。
「私も食べていいの?」
「わ、わたしもいいのかな?」
神梨と初花ちゃんが嬉しそうに問い返す。
「いいよいいよ。どんどん食べちゃって!」
僕が買ったケーキを我が物顔で二人に渡した。
「ちょっと待て、僕の分は?」
「おにいちゃんにあげるケーキなんてありませーん」
「……そうですか」
まだご機嫌斜めなようだ。
「ってか、お前さっきお腹いっぱいって言ってたよな? ホールの三分の一も食えんのか?」
「女の子には別腹があるから問題ないですよーだ」
プイッ、とそっぽを向いて、フォークを手にとりケーキを食べ始めた。
満腹からホールケーキの約三割を収納する空間がどういう原理で作られるのやら。
「……」
もの凄いわがままぶりに返す言葉もない。
「ふふっ」
唐突に、神梨が笑いを溢した。
「どうしたんだ?」
「私、この家に来た時からずっと思ってたんだけど、月影君と水奈ちゃんって本当に仲良しなんだなって」
本心からそう思ってくれているのだろう。心温かな目で僕と水奈を見つめていた。
一方の水奈はといえば、無心にケーキを頬張り、こちらの声に気付いていない様子。
妹が美味しそうに食事をする光景は、なんとも微笑ましいものだった。
「ああ、確かにな」
神梨の言ったことを理解し、相槌を返す。
「ほら、神梨もケーキ食べなよ」
まだ手がつけられていない一二〇度サイズのそれを勧める。
「いいのか?」
「それがね、私あんまりお腹空いてないからちょっと多いかなって思って。月影君、手伝ってくれる?」
答えの選択肢が一つしかない質問を言い放った。
つまり、一緒に食べようということだろう。
「ああ」
神梨の向かいに再度座り、包丁でさらに分割されたケーキを受け取った。
ちなみに、初花ちゃんは結局食べきれなかったようで、残りは水奈が平らげた模様。
○●○
時計を見ると、いつの間にか午後九時を回っていた。
ケーキを食べ終えた後、いい加減解散しようという話になり、夜道は危険だからと僕が付き添いで家まで送ることになった。
「結構遅くなったな」
「そうだねー」
街頭が明るく照り、足場を可視化させている。
「おにいちゃんが余計なサプライズなんかするからだよ」
「それあんまり関係ないだろ……」
水奈に関しては、家で待っていろと言ったのに付いて行くと聞かないので仕方なく連れてきた。つまり、結局また四人で外を歩くことになったわけだ。
「それより、初花ちゃんは大丈夫なのか? こんなに遅くなって」
よくよく考えたら、神梨が親に連絡を取っていたのは知っているが、初花ちゃんが連絡しているのは見ていない。
「大丈夫、です。わたしのパパとママはそういうことに寛容なので……あっ」
「パパとママ?」
中高の間あまり聞かなかった単語だったのでつい繰り返してしまった。
「ち、違います! お父さんとお母さんです!」
恥ずかしかったのか、必死に弁解を試みる初花ちゃん。
「いまさら言われてもな……」
「うう……」
「初花ちゃんはまだ小学生の女の子なんだし、別に気にしなくてもいいと思うけどな」
失言をフォローするように言ってあげる。
「というか、寛容なんて言葉を知ってるほうが驚きだ」
「そ、そうですか?」
暗がりでよく見えないが、褒められたと思って喜んでいるのを感じた。
やがてそれぞれを家に帰し、水奈と二人で帰路に就く。
今日はほとんど一日中四人一緒だったので、いざ二人きりに戻ると少し寂しくも感じた。
そんなことを考えながら、家までの道を歩く途中。
「よかったね、おにいちゃん」
水奈が主語なく話し始める。
「ん? なにがだ?」
「明祢さんと初花ちゃんの家の場所が分かったから」
「……ああ、そうだな」
これ以上聞き返すとまた「これでストーカーしやすくなるね」とか言われそうなので適当に流しておいた。
――別れ際、初花ちゃんが言っていた。
「今日はとても楽しかったです。また遊んでください」と。
また、家へ送り届けたときに神梨がこう言っていた。
「久しぶりに友達と遊べて嬉しかった。迷惑じゃなかったら、また時間作って今度は私の家に遊びに来てよ。水奈ちゃんと初花ちゃんも一緒に」と。
お互いに、最後に見せたのは素敵な笑顔だった。
今日一日を本当に楽しんでもらえたのだと、心から嬉しく思った。
そして、二人が言っていた「また遊ぼう」という言葉。
友達のいなかった僕にとって、その言葉はかけがえのないものだ。
誰かとこんな風に仲良くなる未来なんて想像したこともなかったが、気付けば僕はその未来にいた。
友達という存在が、自分にとって何にも代えがたいものだと思えるようになっていたのだ。
その夜、僕は興奮してあまり寝付けなかった。
今日は普通に話せていただろうか。
何か変な行動はとっていなかっただろうか。
不安の入り混じった感情が身体中を巡る。
だが、その不安はいつしか安心へと変わった。
不安があるということは、友達を友達と思えている証拠になるからだ。
初めて友達という存在を持った僕でさえ、その原理を理解できた。
――やがて、すべての不安が安らぎに包まれたとき、僕はそっと意識を閉ざした。