約束1
今まで過ごしてきた人生というものが嘘だったかのように思える。それほどまでに、今の僕は充実した幸福を得られていた。
友達のいなかった自分はもうここにはいない。
「おはよー、月影君!」
「あ、おはよ。神梨」
こうして神梨がいてくれる限り。
これまで友達を作ることさえ拒絶していた僕が、友達の存在に幸福感までも感じるのだから、神梨の存在は偉大なものだ。
僕はどうしてもっと早く友達を作ろうとしなかったのだろうか。
一度人生をやり直したいくらいだ。
そんなことを考えながら、神梨と並んで学校へと向かっていた。
「本当にありがとな、神梨」
そう小さく口ずさむ。
「え、今何か言った?」
「いや、何も」
「いやいや絶対何か言ったよね?」
「気のせいだって」
何気ないありふれた日常会話。こんなことでさえも心が浮き立ってしまう。
「……そういえばさ、なんか月影君話し方変わったよね」
「え?」
感慨に浸っている僕に、神梨が話を切り出した。
「昨日の屋上のときからなんだけど。前まではちょっと暗い感じだったのに、なんか明るくなったなって思って。と言ってもまだ出会って数日だけど」
そうだったのか、自分じゃ気付かなかった。
「変かな?」
「いや、全然変じゃないよ。むしろ印象良くなったし。これならきっとほかにも友達できるんじゃない?」
「そうかなぁ」
「きっとできるよ」
もう六月も終わるし今更どうにかなるものなのかと思うが、逆に考えればまだ六月とも言える。入学式から三ヶ月も経ってないのだからチャンスはあるはずだ。
それに、今のうちに友達を増やしておけば夏休みが充実したものになるかもしれない。
前向きに考えておこう。
やがて学校につくと、僕は神梨と別れて自分の教室に入った。
(うっ……)
入ると同時に、中にいた人たちの視線が集まる。ひそひそと話す者もいた。
この状況は何となく予想できていた。
きっと、昨日の放課後のことがもう広まっているのだろう。
神梨はあんな風に言っていたが、これはちょっと厳しいかもしれない。
僕はいそいそと自分の席へつき、気付かないふりをして本を読み始めた。
前向きになったとはいえ、さすがにこれはキツイぞ。
○●○
放課後、僕は一人で帰っていた。
今日は噂話をされる以上のことは何もなく、普通に授業を受けて、普通に学校を終えることができた。
神梨は委員会の仕事があるらしく、僕は特にすることもないのでクラスの人たちから何か言われる前にさっさと退散してきたというわけだ。
「はぁ……」
こんな調子で本当に友達が増えるのだろうか。
(まあ、あとは成り行きに任せるしかないか)
それから家に着くと、カバンから取り出した鍵を使い中に入る。
玄関元にある時計を見ると、時刻は六時過ぎくらいだった。
日も落ち始めており、電気が点いていないと少し暗い。
二階に上がり自分の部屋へ入ると、カバンを適当な場所に置いてベッドへ飛び込む。
「静かだなぁ……」
俯けに倒れこんでいた体を半転させ、天井を見つめながら呟く。
この家に、もう両親はいない。
僕が小さいときに、事情は分からないが二人とも失踪してしまった。
それから五年経っても帰ってくることはなく、見つかってさえいないらしい。
なんとも不思議なことだが、これが事実なのでどうしようもない。
――ガチャ
ふと、一階の玄関の方から扉の開く音がした。
「ただいまー」
そこから誰かが声を上げる。
『誰か』といっても、声の主が誰なのかはもうわかっているわけだが。
ベッドから起き上がり、部屋から出て玄関の方へ行くと、そこには一人の少女がいた。
「おかえり」
その少女に向かって返事をする。
「いやぁー、ちょっと遅くなっちゃったよ」
てへっ、と軽く舌を出しながら少女は言う。
身長は一三〇cmくらいで、シンプルなデザインの黄色いリボンで結ばれてある藍色がかったツインテールが特徴的だ。髪を下ろすと肩辺りまでの長さになる。
そんな、近所の小学校に通学する四年生、九歳の少女の名前は『水奈』。僕の妹だ。
「何やってたんだ?」
「えーとね、なんというか友達とついつい話し込んじゃって」
反省してますと言わんばかりの顔をしているが、口調からしてあまり反省してなさそうだ。
「まあ、そんなことだろうと思ったが。気をつけろよな、最近物騒な世の中だし、夏の間は日が長いから少しくらい遅くなってもいいかもしれないけど、暗くなると危ないぞ」
「はーい」
説教気味に言う僕に対し、水奈は能天気な返事をした。
本当に分かっているのだろうか。不安だ。
さっきの話の続きだが、両親が失踪した後に残された僕と水奈は祖父母の家へ預けられ、それまで通っていた学校を転校して育てられることになった。
あまりに急なことで戸惑いを隠せなかったのだが、当初まだ四歳だった水奈に頼りない兄の姿を見せてはいけないと思い、何とか平静を装った。
転校後しばらくは普通に通学出来ていたのだが、やがて僕が中学校の卒業を間近にしたときに問題が起こる。
祖父母の家が田舎にあったのと、僕が入学することになった高校が遠く離れていたのが相まって、家を離れなければならなくなった。
その高校には学生寮があり、家を離れることに対する問題は特にないと思っていたのだが、水奈が僕と離れて暮らすことを強く拒絶したのだ。
もちろん、何とか受け入れてもらおうと祖父母が言い宥めていたのだが、まだ小学生の水奈にとって僕という唯一の兄――家族との別れは言葉で済まされるようなものではなかったらしい。
水奈の気持ちを一番に理解していた僕は、できるだけその気持ちを尊重したいと思った。
だからといって簡単にいく話ではないのだが。
どうしようかと悩んでいる祖父母に対して、僕は一つ聞いた。
その高校の近くにある、僕たち家族が住んでいた家から通うのはどうか、と。
偶然というわけではなく、僕が行くことになっている高校は昔僕たちが住んでいた街にあった。元住んでいた街に戻りたいという気持ちがあった僕は、意図的にその近くにある高校に行くことに決めていたのだ。
あれから五年も経っているのだからとっくに売り払われているだろうと思うかもしれないが、祖父母いわく、確信がない以上まだ僕達の両親がどこかで生きているかもしれないので家は残してあるとのことだった。
そこから高校に通えるなら、水奈を引き連れて二人で暮らすことはできる。
そのことを祖父母に伝えたが、当然反対を受けた。
学生寮でもない普通の一軒家で、子供二人だけで、しかも一人はまだ小学生の妹なのだから生活していくのは難しいだろうと。
ただ、それはあくまで『難しい』ことであって、無理なことではない。
小さいときから両親の家事を手伝い、祖父母と暮らしていく中で料理もできるようになった僕にとって妹一人の世話をするくらいなら可能な範囲だ。
それは祖父母も十分に承知していた。
しかし、それでも不安だったのだろう。
そこで僕は言った。
『絶対に大丈夫だ、責任をもって水奈を預かる』と。
大丈夫だという保証も根拠も無かったが、意志はしっかりと持っていた。
その気持ちが伝わったのか、祖父母は不安を残しつつも二人で暮らすことを認めてくれた。
それから水奈は再び転校することになったが、先程『友達と話し込んで遅くなった』と言っていたあたり、新しい学校での生活に問題はないようだ。
というか、転校したばかりの水奈でさえ友達ができているのに、僕ときたら……。
……いや、でも今は違うか。
「なあ、水奈」
一つ、水奈に伝えなければならないことがある。
「んー? なに、おにいちゃん?」
モグモグと口を動かしながら返事をする水奈。
あれから少しして、二人で夕食をとっていた。
僕は箸を置き、真剣な眼差しで言葉を発する。
「僕、友達ができたよ」
――刹那、まるで時間が止まったかのように水奈が固まった。
「どうした?」
「……え、あ、ごめん……よく聞こえなかったんだけど」
無言で固まっている水奈に声をかけると、水奈は我に返ったかのように聞き返す。
「いやだから、友達ができたって――」
ガララッ、ドン!
椅子を一気に引き、立ち上がると、テーブルに両手を叩き付ける水奈。
「お、お、おにいちゃんに、友達ぃー!?」
魑魅魍魎の類でも見たのではないかというほどに驚きの声を上げた。
「そんなに驚くことないだろ……」
「い、いやだって―――嘘でしょ!? 人見知りでろくに人と話せないうえに根暗な性格してるせいで友達いない歴=年齢の万年ぼっちとまで言われているおにいちゃんに友達なんて!」
信じられない気持ちはわかるが、そこまで言うか。
というか、『友達いない歴=年齢』って言ってるのお前くらいだろ。
「本当だって。僕がこんな嘘つくわけないだろ」
慌てふためく水奈に言う。
「確かにそうだけど……うーん」
嘘ではないと信じようにも、その目で確かめてみないと受け入れがたいといった感じで唸っている。
「あっ、そうだ!」
頭を抱えていた水奈が唐突に顔を上げ、何かを思いついた様子を見せた。
そして、ニヤリと口を吊り上げて小憎らしい笑みを浮かべる。
「その友達の人、明後日の休みにうちに連れてきてよ」
「えっ」
神梨をこの家に!?
「いやいやいやいや、それはさすがに厳しいって!」
咄嗟に答える。
「えー、なんで? 友達なんでしょ? 別に遊びに誘うくらい何も問題ないじゃん」
「そ、それは、そうだけど……」
「もしかして、やっぱりウソだったのかなぁ?」
煽るような上目使いで僕の顔を覗き込みながら言う。
「それとも、おにいちゃんが勝手にその人のことを友達って思ってるだけとかぁ?」
「――――!」
その言葉に、思わず押し黙る。
友達と、思ってるだけ? 神梨が優しいからって僕が一人で舞い上がって、勝手に友達だと思い込んでいるってことか?
……いや、それはあり得ない。
「……わかったよ」
嫌味たらしい表情で僕を見つめる水奈を真剣な顔で見返し、口を開く。
「明後日、連れてきてやる。僕の友達ってのをな」
絶対に証明してやる、と心中で決意してはっきりと伝えた。
「うああああああ!」
食事を終えた後、部屋に戻った僕はベッドに蹲った状態で一階にいる水奈に聞こえないように枕に向かって叫んでいた。
「なんであんな約束してしまったんだ! 神梨をこの家になんか連れてこれる訳ないだろ!」
水奈の挑発に上手く乗せられてしまったことに後悔を覚えながら自責の念に追われる僕。
いくら神梨が優しいといえど、友達になって二日目に「明日僕の家に来てください!」なんて言ったら通報されること間違いなしだ。
ああ、これは由々しき事態になったぞ……。