もう恋なんかやめてしまおう(鶴)
日が落ちると雨が降り始めた。それでもわたしは、飛ぶことをやめなかった。
傷ついた羽は雨がしみる。でも、じっとしていると心が痛んだ。飛んでいる方がずっと楽だった。
わたしが作る織物が高く売れたので、夫は金に執着するようになった。でも、それはまだいい。元はと言えばわたしが始めたことだ。でも彼は、わたしと交わしたたった一つの約束を守ることができなかった。
『機を織るわたしの姿をのぞかないで』
わたしはあの人のことが好きだった。だからあの人にだけは、毛の抜け落ちた鶴の姿など見られたくなかったのだ。きっと今頃、「あんな醜い鶴を妻にしていたのか」と後悔しているに違いない。
恋なんてしなければよかった。罠から助けてくれた恩だけを返して、とっととねぐらに帰れば、こんなことにはならなかったのに。
―わたしはもう二度と、誰かを好きになったりしない。
飛び続けていると、急に雨が激しくなった。翼が重い。羽ばたいても羽ばたいても、少しずつ落ちていくのがわかる。
―もう、いいわ……どうなっても……。
眼下には、一面に黄色い茅の茂る野が広がっている。
わたしは目を閉じた。一瞬だけ、黄色い残像が目の奥に広がる。おひさまのような黄色はゆっくりとかすんでいき、わたしはそのまま意識を失った。
トントン……トントン……。
その音は、ずっと頭の奥で鳴っていた。
―……機を織る音……。
これは夢なのかもしれない。わたしはそう思った。毎日毎日機を織っていたわたしは、夢の中でもこの音を聞いているのだ……。
ガタン。
突然機の音が外れた。わたしはこれでも機の名手としてならした鶴だ。こんな音をさせたことなど一度もない。
わたしは目を開け、がばりと身を起こした。
「あっ、ねえさんごめんなさい。起こしちゃったんですね。でもまだ寝てなきゃだめですよ。ずいぶん長いこと雨に打たれてたみたいだから」
突然目の前にいた娘に話しかけられて、わたしは目を白黒させた。どうやらこの娘がわたしを助けてくれたらしい。
「面倒かけたみたいだね。ありがとうよ」
わたしはとりあえず頭を下げた。
「別にお礼なんていいですよ。この家に一人で暮らしてると、夜は寂しくて仕方なかったんです。誰かがいてくれるだけでずいぶん心強くて……」
「あの……ちょっと聞きたいんだけど……」
「はい?」
「わたし、どんな恰好で倒れてた?」
「どんなって……真っ白な着物を着て……。お山詣りに行く途中だったんでしょう?たまにいるんですよ、途中で倒れるお人が」
わたしはどうやら、知らないうちに人型を取っていたようだ。長い間人として暮らしていたので、この姿が身についていたのだろう。
娘はまだ若く、なかなか可愛らしい愛嬌のある顔をしていた。機の前に座っているので、夢で聞いていた機の音は、この娘が鳴らしていたのだろう。
「ちょっと待っててください。機が一区切り付いたら、きのこ汁をよそいますから」
娘はわたしに断りを入れると、また機を動かし始めた。
トントントン……ガタン……トントン…ガタンガタン……。
音が外れる。それも頻繁に。横糸の通し方が悪いのか、踏み込む足の力が弱いのか……。もう我慢できなかった。わたしはよろよろと立ち上がり、娘のそばに立った。
「……あの……ねえさん……?」
「ちょっとわたしに代わってちょうだい。いい?機っていうのは、こうやって織るの」
トントントン。トントントン。
わたしがやってみせると、娘は目を丸くしてぴょんぴょん飛び跳ねた。
「すごい!!ねえさんって、機の名人なんですねっ」
それはそうだ。毎日毎日、何年も機を織ってきたのだ。しかもこの身を削って。
わたしが少し誇らしげな顔になっていると、突然娘が正座をして、両手を床についた。
「ねえさん、お願いです。わたしに機を教えてください」
「えっ!?」
「二年前に両親が亡くなって、わたし、よくわからないまま機を織り始めたんです。でも、この辺りで機をやるのはうちくらいだったから、誰にも聞けなくて……」
ついさっきまで、機なんて二度と織るつもりはなかった。もちろん助けてもらった恩は返すべきだろうが。わたしは迷いながら、ふと作りかけの織物を見た。それはどう見ても男物の生地だった。
「これは、自分のために織ってるんじゃないの?」
「いえ、これは……」
娘は見る間に顔を真っ赤にした。
「隣の家の松蔵さんにあげるんです」
「松蔵って、若い男なのかい?」
「はい。とっても……優しい人なんです」
いや、この話は断ろう。わたしはそう思った。もちろん恩は感じているが、恩返しならほかの事でもできる。今のこのわたしに、他人の恋の橋渡しをしろと言う方が無理だろう。そもそも恋なんて、ろくでもないものだ。相手と心が通ったと思っても、それは一瞬の夢でしかない。
わたしの心の内など知らず、娘はさらに言い募った。
「ねえさん、お願いします」
「あのね……」
「もうすぐ松蔵さんの所にお嫁さんがくるんです。そのお祝いだから、急がなくっちゃならないんですよ」
「はあ?」
わたしは思わず、すっとんきょうな声をあげた。
「お嫁さんって、あんたじゃないのかい」
「やだ、もう」
娘は顔を赤くしたまま、わたしをばしばしとたたいた。
「そんなわけないじゃないですか」
「いたた……でもあんた、松蔵って人のことが好きなんだろう?」
「……好きです」
娘はそう言うと、もう一度きちんと座りなおした。
「松蔵さんとわたしなんかじゃ、ちっともつりあいませんよ。ただわたしは、松蔵さんが幸せになってくれたら、それでいいんです」
―そんなもんかねえ……。
わたしは、毒気を抜かれたような気がして娘の顔をしげしげと眺めた。いつのまにか、一人で一生懸命頑張っている娘を応援したい心持ちになっていた。
「わかったよ。命を助けてもらったんだ。あんたがちゃんと機を織れるように、教えてやろうじゃないか」
「ありがとうございますっ!!」
しかしそれは、思ったよりもずっと骨の折れる仕事だった。娘―名前は『うめ』だとわかったが、うめはひどく不器用で、わたしの言っている事がわかっても、手が思うように動かないようだった。
トントントン……ガタンガタンガタン。
「うめちゃん。引っかかったと思ったら、そこでとりあえず止まる。がむしゃらに進んでばかりじゃいいことないよ」
「はい、ねえさん」
トン……ガタガタ……。
「それじゃ力が入り過ぎだよ。もっと肩の力を抜きな」
「はい、ねえさん」
それでも、うめに機を教えるのは楽しかった。うめは素直で努力を惜しまない。
―でも、その目的は『報われない恋』なんだけどねえ……。
そのことを考えると、わたしはいつも胸の奥がきゅんと切なくなった。
うめが機を織り終えたのは、松蔵が嫁を迎える前日だった。うめが出来上がった織物を持っていく時、わたしもこっそり後ろからついて行った。
「ま、松蔵さん。これ、婚礼のお祝いです」
うめはこれ以上はないほど顔を赤くして織物を差し出している。うめの前にいる松蔵は、なかなかに顔立ちの整った優男で、どことなくわたしの元夫に似ていた。
「うめちゃん、これ自分で作ったの?」
「はい」
「がんばったね。ありがとう。大事にするよ」
松蔵がにっこりと笑う。それを見たうめの顔が、一瞬きらきらと輝いて見えた。
―ああ、そうか……。
わたしはうめの顔を見つめながら、いつのまにか涙を流していた。
―わたしも、あの人が笑ってくれるだけでうれしかった。ほかには何もいらないって、そう思えた。わたしはあの人に恋をして、きっと幸せだったんだ。
わたしは結局、うめが嫁に行くまでうめと同じ家で暮らした。万事につけ不器用なうめが心配で、なんだか放っておけなかったのだ。
でもうめが嫁いだその日、わたしも大空に飛び出した。行くあてはない。でも、また恋をしたいと思う。
―今度はもっと、いい男を探さなくちゃね。
わたしはすっかり癒えた羽を大きく羽ばたかせた。光り輝く月にさえ飛んで行けそうな気分だった。