#007 編入試験〔実技Ⅲ〕
レゼル・ソレイユ。
彼の名を聞いた時、ドクンと心臓が跳ねた。
彼の声を聞いた時、思わず涙が出そうになった。
だから、赦せなかった。堪えられなかった。
彼が《雲》だと分かった瞬間、みっともなく狼狽え、パニックになる生徒達が、赦せなかった。
こんなに本気で怒ったのは久し振りだ。
頭の片隅でそんな事を思いながら、ミーファ・リレイズは怒鳴った。
「黙りなさい!!」
◆
「……え?」
実技棟がしん、と静まり返る中、レゼルは後ろの少女を振り返った。
最初はセレンが怒鳴ったのか、と思ったが、違う。その証拠に怒鳴った声はセレンのものではなかったし、彼女もレゼルに背を向け振り返っていた。
肩を怒らせ、眉を吊り上げ、頬を紅潮させているのは、金髪ポニーテールの少女だった。
「これから実技試験なのよ! 少し黙っていなさい!!」
いきなり(でもないかもしれないが)激昂した一年代表に学年は関係無く全員がぎょっとしていた。
感情が表情に出ないセレンも、ミーファの剣幕に身体を後ろに引いた。とん、とセレンの肩がレゼルの脇腹に当たる。
ミーファは語を続けた。
「これから試験をする人の事を考えなさい! どんな事情があったって、騒ぎ立てるのは迷惑だわ!」
その言葉はキツいように思えたが、彼女の言っている事が人として正しいという事は殆どの生徒が理解した。
だが、それでもまだ戸惑っている者もいる。
「目の前に《雲》がいて落ち着ける訳ねぇだろ……」
「何であの編入生、《雲狩り》で殺されてないのよ……」
「あの髪と目だったら、問答無用で殺られてる筈なのに」
「……何者……?」
「ヤバいんじゃないの? 学院に《雲》入れるって」
騒ぎが収まった代わりにひそひそと内緒話のように囁かれる。
勿論、レゼルは全て聞こえていた。
内心で、はぁ、と溜め息を吐く。《雲》だという事に対する誹謗中傷には慣れていた。だから、特にこれといって悲しいとか寂しいとか相手が憎いだとかは感じない。ただ慣れたら慣れたで、うんざりするようになった。
観覧席を立って落ち着こうとしない生徒達にしびれを切らしたらしいミーファが再び怒声を叩き付けようと口を開いた、その時。
「あの、皆さん座って下さい! 試験が開始出来ません!」
ミーファの背後の観覧席で、一人の女子生徒が立ち上がりながら呼び掛けるように言った。いや、呼び掛けた。
リボンの色は紫。一年生だ。縁無しの眼鏡にショートカットの真っ直ぐな髪。知的な雰囲気のある少女だった。
「ノイエラ……」
振り返ってその少女を視界に収めたミーファが呟く。どうやら彼女の名前はノイエラというらしい。
ノイエラの呼び掛けに何人か生徒が大人しく席に座った。それに釣られて他の戸惑っていた生徒達も次々に座っていく。
実技棟からは観覧席を降りてからでないと出られない為、パニックになっていた中では外に出られた者はいないようだ。
生徒達が座ってくれた事に安堵したのか、ノイエラは胸を撫で下ろして自分も席に座ろうとした――動作が、ふいに止まった。
彼女は、反対側の観覧席を見詰めていた。
その視線を追う様に、レゼルが、セレンが、ミーファが、晴牙が、ルイサが、振り返った。
ただ、レゼルだけはノイエラという女子生徒が何を見ていたのか分かっていた。
後ろから、一人だけ座る気配が無かったのだ。そして座ろうとしないのは誰なのかも、当然分かっていた。
「ざけんなよ……」
レゼルが予想した通りの人物の口から、呪詛のような気持ちの悪い、低い声が漏れ出た。
投げナイフを放ってきた男子生徒だった。
粘つく様な悪寒のする視線で、男子生徒はレゼルとミーファを交互に睨んだ。
「ふざけてるのは貴様だろう」
男子生徒への怒りが消えた訳では無かったレゼルが、そう言って男子生徒を睨んだ。彼の気持ち悪い目のせいで、セレンが小さくレゼルの袖を掴んできた事が引き金となったのだが。
すると男子生徒は一瞬ビクッと震えた。視線をレゼルから逸らしミーファに固定する。
そして言葉を撒き散らした。
「おい、女。お前、一年代表だからって調子乗ってんじゃねぇよ。黙りなさい? ハッ、偉ぶって何か楽しいですか? 最悪だな、うぜぇんだよ女! 黙ってんのはお前の方だっつーの! あぁ、そうかお前、学院長の娘だっけ? だから先輩の前でも優等生面して偉ぶって良いとか思ってんだろ。益々うぜぇな。どうせ代表になれたのも親の権力を振り翳したんだろ? ずるい奴! 見た目良いからって粋がってんじゃねぇ!」
粋がってんのはお前だ、とナイフ野郎以外の実技棟にいる生徒は思っただろう。
生徒達は皆、長々と続く男子生徒の愚痴に辟易としていた。もうすぐ日付が変わってしまう。実技試験を早く始めて欲しかった。《雲》が試験を受けるのだ、果たして創造術は使えるのかとか、一度落ち着いてしまえば好奇心が膨れ上がっていた。
だが、彼は周りから向けられる非難の眼差しに気付きもしない。
「大体、何だよ、お前。急に怒り出してさぁ? 何? もしかしてそんな汚らわしい《雲》がお好みなのか?」
ナイフ野郎の言葉に、ミーファの顔にかぁっと血が上った。
その様子を見てヒャハハハハッ、と下品に嗤う男子生徒。
実技棟に不気味に反響する狂った嗤い声に、ミーファに憧れを持つノイエラが怒りに震え始めた。それに気付いた周りの生徒が「本気ギレしそうなんだけど……」と後じさる。
一触即発の空気に包まれ、セレンがレゼルの袖を握る力を強くした。
そして、
「えっとね、四年の……誰だっけ、君。まぁいいや、ナイフ君と呼ぶね。で、ナイフ君、独り演説中に悪いんだけど、はっきり言って邪魔だとか皆思ってるよ? さっきから何にキレてんだか知らないけど、大人しくしててくれないかな?」
突然、実技棟に入って来た女性がニッコリと笑って言った。但し、目は笑っていない悪魔の微笑みだ。
毛先がふんわりとした金色の髪に翠の瞳。ミーファによく似たスーツ姿の女性だった。
スーツの中に窮屈そうに押し込まれた胸、スカートから伸びるすらっとした長い脚は黒いストッキングに包まれて艶かしい。大人の色気を兼ね備えた若い美人。
だから、制服ではないが、四年生にミーファの姉でもいるのか、と思ったのだが、
「あ、お母さん」
と、ミーファが何でもない事の様に(実際何でもない事なのだが)その女性を呼んで、
「今は学院長と呼びなさい、ミーファ」
と、女性は軽く自分の娘を窘めた。
「……母ぁ!?」
すっとんきょうな声を発したのはレゼルだった。
「ん? 何か問題でもあるのかな? レゼル・ソレイユ君」
女性が悪魔の笑みを此方に向ける。
若過ぎだろ、今何歳なんだ、という疑問(問題?)を封じて、レゼルは言う。
「い、いえ……別に何も問題なんて無いですよ」
袖からセレンの手が離れる感覚。その直後、彼女に背中を抓られた。
痛い。
「そっか。じゃ、初めましてだね、レゼル君。私は学院長のミーナ・リレイズ。これからよろしくね」
「……え?」
ミーナ学院長の言葉に声を漏らしたのはセレンだった。
その理由はレゼルにも分かる。
ミーナは「これからよろしくね」と言った。レゼルが試験に合格して編入する事を確信している様な言い方だ。
引ったくり騒動の事はまだあまり広まっていない筈だ。そもそもレゼルが顔を晒したのは一瞬で引ったくり騒動を収めたのがレゼルだとはルイサかあの謎のメイドが言い触らさない限り知られる事は無いだろう。
だが、ミーナはすぐに男子生徒――ナイフ君に向き直った。
「ね、ナイフ君。実はね、レゼル君の実技試験の内容は対人戦なの。もう時間無いからね。だから大人しく出来ないんだったら君がレゼル君の相手になれば良いと思うの。最初からここにいる誰かに相手頼もうとしてたし。良いよね、ナイフ君?」
ニッコリ、とミーナは笑った。――極限まで隠された悪魔の笑みで。
◆
レゼルと男子生徒(ナイフ君)は実技棟の中心で対峙していた。
レゼルと男子生徒の間にはルイサが立って試験官を務めている。
セレンやミーファ、晴牙、ミーナはノイエラのいる左側の観覧席で此方を見詰めている。
席は、先程のノイエラの怒気によって彼女の周りで確保済みだった。
最初、男子生徒はミーナの提案に尻込みしていたが、こんなにギャラリーがいるのに断る事は出来なかったんだろう。本当に、意地だけは人並み以上にある奴だ。
ただ、今彼はレゼルを真正面から見て、余裕たっぷりな顔を浮かべた。
「お前、マジで《雲》なんだな。創造術も使えないのにどうやって戦うんだ? お前は馬鹿か?」
何とでも言えば良い、と思った。
これから戦う相手は、レゼルの事を《雲》だと油断している。確かにレゼルは《雲》で、世界の常識なら《雲》が創造術を使えるなどとは誰も考えないだろう。
しかし、《雲》でありながらレゼルは学院に来たのだ。もしかしたら、と思ってもいい筈なのだが。
「随分、戦い易い相手だな……」
ボソリと呟く。
四年だからそれなりに実力はあるんだろう。だが、世界の常識に嵌まり込んでしまっていては、その実力も塵芥同然だ。
「人を睨む事しか出来ない、神に見放された奴が俺に勝とうなんて無理に決まってんだろ。大体、創造術名家の血筋でもない限り、『能力創造』が出来る四年に勝てる訳がない。俺は二年の時から能力創造が出来るんだぞ?」
男子生徒の言葉をレゼルは無感情に聞き流す。感想は、「あぁ、そう」くらいのものだ。
一度口を開けば長々と喋り続ける男子生徒にルイサのこめかみがピクッと震えた。
「あっさり不合格にしてやるよ、この身の程知ら――」
「ルールは一対一の対人創造術戦。創造術による武器の使用及び、『能力創造』による格闘戦を許可する。だが相手を死・重症に至らしめる攻撃をすれば反則となる、くれぐれも注意しろ」
男子生徒の言葉を遮ってルール説明を始めたルイサは、ちら、とレゼルの方を一瞥した。
水色の眼鏡の奥の瞳は、言っている事とは裏腹に「ボコボコにしてやれ」と語っていた。
レゼルの実力を知っているルイサは、既にどちらが勝つのか確信しているようだ。彼女は、レゼルがどうやって四年に勝つのかを楽しみにしている。
喋っていたのを制止させられた男子生徒はルイサを忌々し気に睨んだ。気持ち悪い視線が、対峙しているレゼルにまで届く。
ルイサは小さく眉を寄せたが殆ど無視して五メートル程後ろに下がった。
男子生徒がズボンのポケットに入れていた両手を出して胸まで上げ、腰を低くして構える。
対してレゼルは微かに半身になっただけで、両手はだらりと垂らし、姿勢の良い直立のままで佇む。
一見すると素人同然の構え方だと思うだろう。しかし見る者が見れば、隙の無い構え方だと思った筈だ。
男子生徒は、前者だった。レゼルを眺め、その口元に嘲笑の曲線を深く刻む。
実技棟に緊迫感と静寂が漂う。
そして、レゼルとルイサの耳にだけ、ルイサがすぅ、と息を吸う音が届いた。
「――始め!」
ルイサの号令のほんの一瞬の余韻が終わらない内に、既に訓練場の風景は変わっていた。
レゼルの姿が何処にも無い。
それを認識出来た者は何人だっただろうか。彼の姿が消えたのはこれも一瞬だけ。
殆どの生徒が、消えたと認識出来ず、気付いたらレゼルは男子生徒のすぐ前にいて、青く光る透き通った剣を振り抜いていた。
ガクッ、と意識を手放した男子生徒は音も無く崩れ落ちた。
「まさか、殺した? ん……いや、気絶させただけか」
口調どころか声の質まで変わった声でミーナは言った。それが、静まり返った実技棟の観覧席に意外に大きく響いた。
ルイサが、ゆっくりと右手を水平に上げる。
その時にはもう、レゼルは剣を一閃した体勢を解き、左手をコートのポケットに突っ込み、剣を握った右手は試合(レゼルから見れば試験)が始まる前と同じ様にだらんと垂らしていた。
そして、二人の教師と生徒達は気付く。
――レゼルの髪は照明の光を反射して煌めく銀色に、瞳は濁りなど一切存在しない綺麗な青色に変わっている事に。
銀髪碧眼の少年は、その姿に《雲》の面影を全く感じさせなかった。
ポケットから左手を引き抜き、静かに元の場所に戻る。レゼルは小さく一礼した。
「――勝者、レゼル・ソレイユ」
ルイサの声が滑らかに空間を渡っていった。
◆
ミーファは、知らず知らずの内に観覧席から身を乗り出していた。
彼女の頬は何かに安堵したように緩んでいた。
――凄い。
何をしたのかは、殆ど分からなかった。神童と言われるミーファだが、プロの創造術師に比べれば経験の差でまだまだ未熟だ。
しかし、彼が創造術を使った事は分かった。
――彼は、約束を守ってくれた。
必ず創造術を使える様になってみせる、というミーファとの昔の約束を、ちゃんと守ってくれた。
彼はミーファの事を忘れてしまっている。それを思った時、悲しくも淋しくも感じた。だが同時に仕方ないとも思った。
ミーファとの約束の後に、彼は、姉を失ったのだろうから。
ショックで、記憶が飛んでいてもおかしくはない。
だからミーファは、無理矢理レゼルに思い出させる事もしないと決めた。ミーファの事を思い出させて、彼に嫌な事まで思い出させたくはなかった。
――とても、綺麗な色。
銀髪碧眼の少年を見て、ミーファは眩しいものでも見るかの様に目を細めた。
◆
「今の……創造術、よね……?」
「何が起こった……?」
「瞬間移動……?」
「ち、違う。『能力創造』で身体能力を上げたんだ……」
「は? ……マジかよ、アイツ、本当に《雲》なのか? 灰色の髪に漆黒の瞳は《雲》だってのは絶対だけど……」
「今、銀髪碧眼だし、どうなってるの?」
「何なんだ……?」
「当然だけどあの剣も、創造物だよ。つまりあの子、『能力創造』と物の創造――『物質創造』を同時にこなしたんだ……」
「……つまり、並行創造、だね」
「プロなら当たり前の技術だけど、凄いよ彼」
「しかも、無光創造だった……」
「なぁ、アイツ合格しちまうんじゃないか?」
「ということは、《雲》が学院に……? やだ、嫌よ気持ち悪い!」
生徒達は訳が分からず、目を丸くしている。上級生の中には、驚き戸惑いながらも、冷静にレゼルを分析している者もいたが。
「……レゼル君」
観覧席からミーナが声を掛けてきた。
レゼルがそちらを振り向くと、彼女は周りも憚らずに笑って言った。それは確かに、悪魔の笑みでは無かった。
「合格、おめでとう」
悪役を書くのは苦手だったりします。大分ぶっとんでますね……。