#042 モラトリアムⅠ
――怖いという思いは確かに心の中にあった。
「……だけど」
――怖いという思いよりも、守りたい、という思いがあった。
生まれた時から暮らしてきた、故郷の街。
家族、友達。
そして、想い人。
ミーファ・リレイズはそれらを、心の底から守りたいと思った。
彼女は司令室を飛び出して勝手知ったる廊下を疾走する。
リレイズの戦闘区域なら、ミーファは東西南北、何処でも戦場に立った事があった。だから司令基地の内部構造も、まるで自分の家の事のように知っている(現在は学生寮に住んでいるが彼女の家は他にちゃんとある)。
目当ての扉を見つけ、ミーファはセンサーが反応しドアが開くまでの時間ももどかしく、司令室を出た時のように腕力で抉じ開けた。
通常、こんな事をすればアラームが基地中に響き渡るが、今はそんな事はなかった。基地内部の不審行為になど構っている暇も無いという事だろう。
彼女が飛び込んだ部屋は、司令室とは比べるのが無駄な程の狭い部屋だった。ただそれは司令室が広いからで、この部屋も学院の寮にある個人部屋に比べたらかなり広い。
左右の壁際には細長いロッカーが並んでおり、ミーファは手前の一つに手を掛けた。
腕の筋力を創造術で強化。
ボギャッ、という不気味な音を立てて鍵を破砕する。勢い良く開いたロッカーの扉は蝶番が外れて吹っ飛んだ。
中にある綺麗に畳まれた黒い戦闘服を確認すると、ミーファは一気に学院の制服を脱いで着替える。肘、膝、肩、胸に衝撃吸収素材で作られた上に軽量化もされたプレートアーマーを付け、部屋を飛び出す。
扉の外れたロッカーに突っ込んだ衣服――まぁ下着は無いのだが――が丸見えになっている事も気にしない。いや、今の彼女はそういう事に一切気が回らないだけだ。
エレベーターホールに到着、だがエレベーターを待つ時間は無駄になると判断する。ミーファはホールの端にある階段に足を向けた。
一段目に右足を掛ける。
「……」
今まで一瞬たりとも行動を止めなかったのに、ここに来て彼女の足がピタリと停止した。
――怖い。
彼女の額には脂汗が浮かんでいた。
確かに、彼女には《堕天使》との交戦経験がある。だが、それはミーファが一人で戦った訳ではない。《堕天使》を弱体化させる結界を創造する結界師がいて、支援をする後衛の創造術師がいた。戦友と呼べる仲間がいた。
通常なら、自分の他に二十人から四十人は戦友がいる状況で彼女は戦ってきたのだ。
しかし今回は、彼女一人。ルイサは来てくれるだろうが、彼女は前衛。結界や支援が無いといった意味では、一人で戦うのと同義だ。
ルイサと自分以外、戦える者はいない。
晴牙とノイエラは《堕天使》との交戦経験が無い。幾ら何でも、初戦でこの《堕天使》の数は無理だ。上位個体がいて、下位個体も群で堕ちてきている。創造術師の初戦とは、下位個体一匹を相手に数人の結界師と後衛が付いて戦うのが普通なのだから。
セレンはそもそも創造術師ではないし、レゼルは《堕天使》と交戦経験があるといっても、《雲》という鎖によって戦場に立つ事を阻まれている。それに、これはミーファの我儘だが、彼にはあまり危険な事はして欲しくなかった。
今までとは全く違う状況、死ぬかもしれないという恐怖。――そして、守りたいと強く願う心。
それらが鬩ぎ合い、ミーファの足を止めさせていた。
ともすれば震え出す己の膝を彼女は見詰める。
――迷っている時間なんてあるの?
そして、自問自答する。自分の中にある筈の、いや、あると願っている回答を求める。
――守りたいんでしょう、ミーファ。
多分、もう心の中にある答えを求める。
――忘れたの? 迷っている時間なんて無いのよ。
答えに、意識の、感情の手を伸ばす。
――私の猶予期間はもう、あの日に終わっているのだから。
指先が、答えに触れる。
立ち止まれる時間は、既に終わりの鐘を告げているのだ。
ミーファは一瞬とも言える速度で、階段を駆け上がっていった。
そして彼女は戦場へと、足を踏み入れる。
◆
スライドドアが、何故かややぎこちない動作で両側に開く。
創造術師が戦闘装備を整える為の更衣室に入ろうとして、
「……は?」
聖箆院晴牙は、ルイサ・エネディスと目が合って、間の抜けた声を上げた。
彼女は更衣室の中で、黒スーツのパンツに手を掛けていた。チラリと紫色の下着が覗いている。シャツも開けた状態で、これまた紫色のレースが覗――
「馬鹿者ッ!!」
「うわぁぁぁぁッ!?」
何故か床に落ちていたロッカーの扉――手前のロッカーが何故か壊れているのでそれの扉だと思われる――をルイサに投げ付けられ、晴牙は悲鳴を上げて飛び退いた。
と、同時に更衣室の中に背を向ける。
彼の背後で、スライドドアがやはりぎこちなく閉まった。頬を掠めて飛んでいったロッカーの扉が向かいの壁に激突するのも見ずに、ルイサに声を掛ける。
「……あの、エネディス先生――」
『何をしている副代表! 男性用更衣室はこの部屋の向かいだぞ!』
「えっ?」
担任の女性に言われて顔を前に真っ直ぐ向けると、確かに後ろにあるスライドドアと同じ扉が視界に入った。扉がぶつかったからか、一箇所だけ窪んでいたが。
「ッ!? す、すみません!」
『後でたっぷり仕事押し付けてやるからな!』
扉越しの声と拉げた扉――つまり本気で彼女は彼を殺す力を込めて投げた――に、晴牙は気分が憂鬱になるのを感じながらも男性用更衣室に入ろうとする(そもそも元を辿れば悪いのは彼だ)。
『……副代表』
「え? あ、何ですか?」
呼び止められて、晴牙は素直に立ち止まった。
『お前は何故、戦おうとしている?』
ルイサの問いは、今の晴牙には簡潔過ぎる程簡潔なものに聞こえた。
だから彼も、簡潔に答える。
「……俺は、強くなりたい。誰かを守れる力が欲しい。そう思ったなら、俺の猶予期間はもう終わったんだ」
妹を守れなかった昔の自分。それは、弱い自分だ。
変わりたい。強くなって、誰かを守りたい。
まるで少年漫画の主人公のような感情だが、彼は心からそう思うのだ。
「……それに、大切な奴もいますから」
『……そうか』
背後から聞こえるくぐもりがちな声は、これから戦争をするというのに楽しそうに弾んでいた。
――まるで、我が子の成長を喜ぶ母親のように。
◆
ノイエラ・レーヴェンスは階段を駆け上がっていた。
彼女は『能力創造』がまだ出来ないから、スピードは平均的な女子のそれより少し速い程度だ。
もうミーファは戦場に立っているのだろうか。
そんな事を思いながら、彼女は制服のスカートを翻し走る。
ノイエラは、自分が本当の戦場――前衛の創造術師がいる場所に立とうとはしていない。彼女がそこにいたところで足手纏いになるのは誰より何より、彼女自身が理解している。
『モニター越しじゃ分かるものも分からないだろ』
レゼル・ソレイユは彼女にそう言った。
その時に思ったのは、「気が付いていたんだ」という事と「流石だな」という事。
ちっぽけかもしれないけれど、彼女は自分に出来る事を理解していた。
だが、一歩足を踏み出す決意が固まったのは、レゼルのお陰だ。
『ミーファのところに行ってあげてくれ』
晴牙でもルイサでもなく、ミーファ。
彼がそう言って、彼女に明確な「出来る事」を示してくれたから。
――ノイエラは、思う。
確かに、学生でいる内は私に与えられた猶予の期間です。――だけど、猶予期間の内は進まなくて良いなんて、誰が決めたのですか?
――と。
だから彼女は、出来る事を精一杯やり遂げる為に戦場をこの眼で見るのだ。
忌々しいと思った事もあるこの感覚が誰かの役に立つのなら、それは彼女にも嬉しい事なのだから。
◆
「創造術師協会の部隊が来るのに後何分掛かる!?」
「はっ、……ッ、後十五分は掛かるかと!」
「くそ、持つか……?」
司令官の男は部下の報告を受け、モニターを見ながら苦々しげに呟いた。
モニターに映るのは、砂煙を上げて此方へ向かってくる《堕天使》の群だ。後二分もすれば司令基地に雪崩れ込んで来る事は目に見えていた。
ミーファやルイサが《堕天使》の侵攻を抑えてくれれば協会の戦闘部隊が駆け付けるまでの十五分間くらいは持つかもしれないが、それだってギリギリだ。小さな事でも何か一つ崩れれば、容易に状況は再起不能なまでに悪化するだろう。
「……大丈夫でしょうか?」
レゼルの隣に寄り添う小柄な少女が、モニターを眺めながら心配そうな声で、だが無表情に囁いた。
「大丈夫だろう。ミーファにエネディス先生、晴牙とノイエラもいるなら十五分くらい耐えられるさ」
「……そうですね、レゼル。彼らは強い」
「ああ。それに、学院長やウィスタリア様もじき戦場に駆け付けるだろ」
リレイズの街には《暦星座》が多い。実に創造術界の頂点である人間の三分の一がリレイズにいるのだ。戦力的には何の問題も無い。
「……問題があるとすれば、時間、だな」
ミーファ達四人が《堕天使》の侵攻をどれだけの間抑えていられるか。迎撃部隊がどれだけ早く戦場に駆け付けられるか。
問題はその二つだ。
「司令、民間人の避難はどう致しますか」
タッチパネルを操作していた二人の部下の内一人が、振り返って司令官に指示を仰いだ。
司令官はほんの僅かな時間に考え込むと、きっぱりと言った。
「今回は流石に拙い。騎士団の誘導で地下シェルターに避難させろ!」
「はっ! では、騎士団本部にその旨を……」
彼らの会話を聞きながら、レゼルは「パニックにならなければ良いが」と考えていた。
確かに、人命を優先するならば人々を地下シェルターに避難させるのが一番の得策だろう。だが、今は創造祭を一週間後に控えた、大事な時期。そんな時に《堕天使》が急に堕ちて来たとあっては、パニックになる者も多いのではないだろうか。しかも今回は《誘導結界》による結界師の事前感知が無かった。それはあまりにもイレギュラーな事態で、パニックを引き起こす要因にもなる。
因みに地下シェルターは、全ての街に四つの戦闘区域があるように、全ての街の地下にある。街の地下には地下通路が張り巡らされ、その通路はシェルターや地下栽培室を繋げているのだ。地下栽培室がある事で、暫くの間は避難中も食糧には困らないシステムに何処の街もなっている。
「……出よう」
レゼルの唐突感のある言葉に、セレンは全く躊躇わず頷いた。
出よう、とは司令室から出ようという事。司令官やその部下二人はレゼルの事など気にしていないが、「お前は戦わないのか」と言いたげな雰囲気は多少漂っていた。
身体を預けて凭れ掛かっていた壁から背を離す。
――その時だった。
「「……!」」
二人は同時に上を見上げた。
当たり前だが、視界に映るのは白い天井だけだ。
「……堕ちる」
赤髪の少女の、澄んだ可愛らしい声が、今ある状況を簡潔に示した。