#040 月華
「《堕天使》が堕ちた……だと?」
ルイサが信じられないような瞳で眼鏡のレンズ越しに此方を見た。
レゼルは上に向けていた視線を下ろして、彼女のそれを真っ正面から受け止める。
「馬鹿な……結界師は何をしている!? 《堕天使》が現れる半日前には感知出来ている筈だろう!」
ヴーッヴーッ、と警報が五月蝿く鳴り響く中、ルイサは叫ぶ。
混乱――はしているかもしれないが、情けなく狼狽えている訳ではない。
ただ彼女は理解しているだけだ。
――今の状況が、どれだけ危機なのかを。
通常、《堕天使》との戦争は敵が堕ちて来る時刻を結界師が感知し、それから戦闘部隊の編成を開始する。
世界的に見ても数の少ない創造術師を、ずっと一つの戦闘区域に縛り続けておく訳にはいかないし、大体《堕天使》が街にある戦闘区域に堕ちて来るのは一年に一回程なのだから、そんな時間も人力も無駄になるような事は出来ない。
故に、《堕天使》が堕ちて来る事を事前に察知出来ていなかった――出来ていればレゼル達は戦闘区域に入れなかっただろうし、学院にも報告が行く筈だ――今回は、完全に後手に回った事になる。部隊の編成が全く出来ていない今では、《堕天使》に嬲り殺されるだけだ。
「……《堕天使》が堕ちて来た事は事実ですよ。取り敢えず今は、現状の確認がしたいですね。司令室に行きましょう」
ノイエラや晴牙は勿論、《堕天使》との交戦経験のあるミーファやルイサまでもが顔の色を蒼白にさせる中、レゼルとセレンだけは酷く落ち着いていた。
「……どうして」
掠れた声で呟くように言ったのはノイエラだった。
「……どうしてそんなにも、冷静でいられるのですか?」
その問いに、レゼルは答えない。
「《堕天使》と交戦経験があるのか? 君は」
流石大人というところだろうか、黙り込むレゼルに幾分落ち着きを取り戻したルイサが真剣そのものの表情で訊ねた。
はぁ、と短い息を吐く。何時かはバレると覚悟していたレゼルだが、まさかこんなに早いとは思わなかった。
「……ありますよ」
静かに答えた彼の言葉に、セレン以外の者が息を呑んだ。
「一応俺も傭兵であったレミ姉の弟ですしね。交戦経験は何度かあります」
「で、でもよ……お前、何処の戦闘区域で? 《雲》じゃあ、何処の戦闘区域も受け入れてはくれないだろ」
困惑しながらも、晴牙はごもっともな質問をしてくる。
こんな危機的状況でも判断力をきちんと保っている『親友』に、レゼルは内心で微笑んだ。
「俺が創造術を使うと銀髪碧眼になるのをもう忘れたか?」
本当はレゼルの《堕天使》との交戦はNLFの戦場である国境・街境付近が殆どだ。前回のように街の戦闘区域で戦うなんて事は本当に稀だし、そういう時も必ずNLFが干渉してレゼルが《雲》だとバレないようにする。
だから、先程のレゼルの言葉とこれから言う言葉はただの出任せだ。
「銀髪碧眼になれば、《雲》だってバレないだろ?」
「――無理よ」
ピシャリ、と一言で否定したのはミーファだった。
「《堕天使》との戦争に出るには正規創造術師の資格が要るわ。資格は学院を卒業しなければ取得試験だって受けられない」
「ミーファだって、資格を持っていないのに《堕天使》と交戦経験があると言っていたじゃないか」
「それは、私が《暦星座》だからよ。――それに、《堕天使》と戦った後は《暦星座》も普通のプロの人達も問わずにエナジーが尽きる筈だわ。戦闘後も銀髪碧眼を維持する為に創造術を使い続ける事が出来るとは思えない」
彼女の言葉にレゼルを責めるような色は無い。ただ純粋に、知りたいだけなのだろう。
それは恐らく、レゼルの事を『友達』と認めてくれているから。――ミーファから見ればレゼルの存在は友達以上なのだが、彼には知る由も無い事である。
だからレゼルは、話せない事は沢山あるけれど、出来るだけ正直に答えようと思った。
「……資格の偽造は流石に無理だからな。シュネイルの街の戦闘区域に知り合いがいて、そこで何度か戦わせて貰っているんだよ」
シュネイルの街はディブレイク王国の南東にある辺境の街だ。
街は実際にある街だがこれは嘘、口から出ただけの出任せである。レゼルにはシュネイルに知り合いなどいない。
「知り合い……? でも、シュネイルの戦闘区域の人全員がレゼル君の知り合いで、《雲》である君の存在を許容している訳じゃないでしょ?」
ミーファの的確な質問に、レゼルは頷いた。
「勿論俺はシュネイルでも《雲》だという事を隠して戦っていた。……戦闘後も銀髪碧眼を維持して、な」
「……だからそれは無理だって、さっきミーファが言ったじゃねぇか。戦闘後は力尽きて創造術を行使する余力なんか残る訳がないって」
晴牙の訝しげな声に、レゼルは微苦笑を浮かべた。
「確かに、普通の創造術ならそうなるな。《堕天使》と戦った後に、満足なエナジーは残らないだろう」
「……普通の創造術、なら?」
ノイエラが首を傾げる。
「レゼルは《雲》です。普通の創造術を使える訳が無いでしょう?」
言ったのは、《雲》の少年に寄り添うように立つ緋色の髪の少女――セレンだった。
ルイサが高ぶる感情を抑えるように、震えた声で聞いてくる。
「……では、君の創造術は私達の創造術とは違うものなのか?」
「そうですね。普通の創造術と俺の創造術は根本的に違います。術の工程――想像し構築し消失するという事自体に変わりはありませんが」
ミーファ・リレイズが、
聖箆院晴牙が、
ノイエラ・レーヴェンスが、
ルイサ・エネディスが、
皆一様に静まり、目の前にいる顔を隠した少年を見詰める。
「俺の創造術は――」
少年は思い出す。
あの日――姉が、自分の所為で死んだ日。
涙でぼやけた視界で、確かに彼は見た。
雲が空を覆う中、それでも地上に光を投げ掛ける、月を。
「星光ではなく、月光で成り立っている」
レゼルとセレンを除く四人はその時、時間が止まったようにさえ感じられた。
月の光。
星、ではない、月。
硬直状態から逸早く脱出したのは、ミーファだった。
「……それは、新しい創造術の技術形態を確立したという事?」
彼の言葉が本当なら――いや、彼の言っている事は本当だろう。実際に彼は《雲》でありながら創造術が使えるのだから。
レゼルの言葉は、世界に革命にも近い変化を巻き起こすものだ。何故ならそれは、《雲》に創造術という可能性を与えるものなのだから。
だが――
「……いや、俺の創造術は技術ではない」
彼は、首を横に振った。
「技術とは、ある程度の人数の人間に普及してこそ『技術』だ。月光を使う俺の創造術は、『技術』ではなく『異能』。俺しか使えないものだ」
「……自分しか使えないと、そう言える根拠は?」
ルイサが自身の教え子となったレゼルから視線を一瞬も外さずに、問う。
そんな彼女に精一杯の誠意を見せる為、レゼルは深く頭を下げた。
「すみません、話せません。……それに、俺以外に月光の創造術は使わせたくありません。これは独占欲などではなく、ちゃんとした理由がありますが、これも話せません」
「……そうか」
ルイサはそれだけ呟くと、追求を止めてくれた。
その事に対しての感謝の意を視線で彼女に示してから、レゼルは話を続ける。
「これは誰でも分かると思いますが、月と星、光量が多いのはどちらだと思いますか?」
「そりゃ、月に決まってんだろ」
晴牙が迷う素振りも無く即答した。レゼルは頷いて、やや困惑しながら此方を見る四人を順に眺める。
「また突然で悪いが、俺はエナジー量に恵まれた人間だ。因みに、《雲》でもエナジーの保有量に《雲》じゃない人間との違いは無い」
「えっ、そうなんですか……?」
ノイエラが縁無し眼鏡の奥で小さく目を丸くした。
「ああ。《雲》が創造術を使えない理由はエナジーの量には関係しないからな。――で、俺はエナジー保有量に恵まれた訳だが」
「待て」
「何ですかエネディス先生?」
ルイサは神妙な顔をして口を開いた。
「レゼル君……君はもしかして、《雲》が創造術を使えない理由を知っているのか?」
「……それはまぁ、一先ず置いておいて」
「――おい?」
「時間が無いんです」
静かに一言だけを突き付けると、ルイサはむすっと不機嫌な表情になって黙り込んだ。外見と子供っぽい仕草のギャップは、計算してやっているのだろうか。まぁ、可愛いから別に良いのだが。
「……月の光は星のそれよりも圧倒的に多く、俺はエナジー量に恵まれた。俺の使う月光の創造術は、その膨大な光量と膨大なエナジーによって、構築速度や長時間創造のし易さを星光の創造術より向上させている。それが俺の創造術。普通の創造術師より創造術を長い時間使い続けていられるし、だから俺は《堕天使》と戦った後でも銀髪碧眼でいられる、とそういう事だ」
「……つまり、かなりタフ、って事か?」
「ああ、それで合ってるよハルキ」
レゼルは晴牙の解釈に苦笑いを含んだ表情で答えた。
「それで、ハルキ、お前なら知っていると思うんだが……」
「ん? 何だ?」
「極東の日本国では創造術の事を『星詠』とも言うよな」
「ああ、まぁな。因みに創造術師の事は日本では『星詠師』とも言う。それがどうしたんだ?」
「ただのネーミングだよ。紛らわしいからな」
苦笑いの成分が彼の表情にまた追加された。
「星光の創造術と、月光の創造術。『星詠』と――」
レゼルはそこで一瞬だけ言葉を切った。だが、すぐに続ける。
「――『月詠』。俺の創造術は、異端なんだよ、果てしなくな」